[#表紙(表紙.jpg)] トヨタ・GM 巨人たちの握手 佐藤正明 目 次  文庫版のためのまえがき  プロローグ  第一章[#「第一章」はゴシック体] それぞれの葛藤  第二章[#「第二章」はゴシック体] 助走  第三章[#「第三章」はゴシック体] 遥かな坂道  第四章[#「第四章」はゴシック体] 駆け引き  第五章[#「第五章」はゴシック体] シナリオ  第六章[#「第六章」はゴシック体] 土壇場の混乱  第七章[#「第七章」はゴシック体] 未知との遭遇  第八章[#「第八章」はゴシック体] カリフォルニアの青い空  エピローグ 時は確実に刻んだ  あとがきにかえて 私の取材方法  文庫版特別書きおろし[#「文庫版特別書きおろし」はゴシック体] トヨタ、国際企業への道 [#改ページ] [#1字下げ]文庫版のためのまえがき  私がトヨタとGMの提携交渉を特報して新聞協会賞(ニュース部門)を受賞したのは、一九八二年(昭和五十七年)の十月である。両社が提携に向けて動き出したのはその一年前だから、すでに二十年近くの時間が経過している。  日本の自動車産業が国際舞台で脚光を浴びる引き金となったのは、排ガス規制と二度にわたる石油危機である。排ガス規制で日本メーカーの技術水準の高さが証明された。それに続く石油危機で、品質と性能の良さが見直され、世界市場で日本車が持てはやされた。日本車は七〇年代半ば過ぎから小型車市場という無人の荒野をフルスピードで走り続け、八〇年には米国を抜いて世界一の自動車生産大国にのし上がった。  貿易収支は麻雀と同じで誰かが勝てば、誰かが負ける。自動車の輸出で日本の黒字が増えれば増えるほど、輸入国の赤字が増える。たとえ輸入国のユーザーには喜んでもらえても、赤字国政府の反発は強まる。その行き着く先がユーザーの声を無視した輸入規制である。フランス、イタリア、英国を皮切りに最後は自由貿易主義の旗手ともいうべき米国までもが日本車の輸入規制に踏み切った。  こうした中で、日本車メーカーがさらなる発展を遂げるには現地生産しかない。国際化を図れない企業は淘汰される。国際化に向けていち早く飛び出したのが、八〇年の正月明けにはオハイオ州に乗用車工場建設を発表したホンダ(本田技研工業)と、華々しい海外プロジェクトを打ち上げた日産自動車だった。  こうした中で�三河の田舎大名�と陰口を叩かれたトヨタだけが取り残されてしまった。トヨタグループの総帥・豊田英二さんが起死回生の手段として自ら考え出したフォードとの米国における合併事業の交渉は、数カ月も経たないまにあえなく挫折した。といって当時のトヨタにはホンダ、日産のように単独で工場を建設する自信がない。  トヨタは国内販売については圧倒的な強さを誇っていたが、海外現地生産に対しては極めて臆病な会社だった。しかし時間を経るにつれ米議会のみならず、マスコミの間にも「日米自動車摩擦の元凶はトヨタ」という見方が広がりつつあった。手をこまぬいておれば、非難はトヨタに集中する。トヨタは窮地に追い込まれた。  トヨタが選択すべき道は三つあった。一つは自信はないものの、清水の舞台から飛び降りるつもりで単独進出を決断すること。二番目は逆に世間の非難を覚悟で何もせず、「自動車摩擦」という名の嵐が過ぎ去るのを待つこと。最後が米メーカーとの共同生産である。  鈍牛の異名を持つ英二さんの性格からして、最初の選択は考えにくかった。二番目の選択が一番可能性が高いが、この道を選べば世界最大の米国市場での地盤沈下は避けられない。下手をすればトヨタは日本の一ローカルメーカーになり下がってしまう。最後の共同生産はフォードとの交渉が挫折したことから、肝心の合併相手がいなくなった。  トヨタの対米戦略は、完全に袋小路に入ってしまった。  同じ時期、小型車戦略で苦悩しているもう一つの巨大メーカーがあった。世界最大の自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ《GM》である。ワールドカー戦略を推進していたGMは、グループ内での部品調達を原則としてきたが、国際小型車戦争が激化するにつれ、日本の部品メーカーに技術を供与して作ってもらったほうが、安くて品質の良い部品が手に入ることに気付いた。  そこで八〇年三月にエリオット・エステス社長が日本の部品メーカーを視察するため来日した。その後も機械部品グループのジョージ・エンゲルス副社長、部品生産・販売担当のルービン・ジェンセン執行副社長が相次いで来日し、日本の部品メーカーに技術供与を持ち掛けた。  これに日産系列の部品メーカーが前向きな反応を示した。国際小型車戦争が佳境に入った八〇年秋には、まず自動車ワイヤーハーネス(端子付き電線)メーカーの協立ハイパーツに技術供与のみならず二〇%の資本参加が内定した。続いて厚木自動車部品との間で小型ディーゼル燃料噴射ポンプ技術、自動車用シートの立川スプリングスには車体内装関連技術をそれぞれ供与する交渉が始まった。  一連の動きは八一年一月三日付日本経済新聞の朝刊で報じられた。日産の石原俊社長が交渉の後押しを表明すれば、日産本体とGMの提携にまで発展する可能性があった。ところが石原社長は「系列部品メーカーが技術供与を受けて製品を供給するのは、敵に塩を送るような行為」と難色を示し、交渉先の部品メーカーに無言の圧力をかけたことから、いつしか雲散霧消してしまった。  トヨタとGMが小型車の米国での共同生産に向けて動き出すのは、その年の晩秋である。本書のタイトルにあるトヨタ・GMの『巨人たちの握手』は、ここからスタートした。  歴史にイフはないが、それでも仮に日産の石原社長がGMの動きを正確に把握し、トヨタに先手を打つ形でGMとの協力関係を構築しておれば、世界の自動車産業の地図は大きく変わっていたはずである。  それから二十年を経て無残な結果が出た。日産の石原社長が陣頭指揮を取った海外プロジェクトはことごとく破綻してしまった。そして九〇代後半には金融危機のあおりを受け、自力更生の道も絶たれてしまった。�徳川家十五代将軍�ともいうべき塙義一社長は、九八年から九九年にかけて資本提携先を求めて行脚を繰り返し、最後に仏ルノーにたどり着いたが、終末の時間の流れは、経営者一人の判断力では到底追いつけなかったことを教えたにすぎなかった。  翻ってGMと提携したトヨタは、共同生産をバネに現地生産のノウハウを取得、企業の価値を現す株式時価総額は二〇〇〇年九月二十八日現在で十五兆九千八百四十三億円に達している。同じ日のGMが三兆八千九億円、フォードは五兆二千五百八十八億円、ダイムラーが四兆九千四十八億円だから、トヨタの企業価値は三社を合わせたものより高いということになる。  いずれにせよ日本のモータリゼーションの牽引役を果たしたトヨタと日産は、国際化への対応で明暗を分けた。その分水嶺とも言えるのが、八〇年代初頭のトヨタとGMの提携である。世界的な自動車再編の嵐がまだ収まらない現在、日本の自動車産業の生き残りの原点ともいえるこの提携劇を世紀末のいま詳述することの意味もそこにある。  なお、原書を文庫に収めるにあたって、GMとの提携後今日まで、トヨタがいかに国際化をはかってきたかを概観する必要を感じた。「トヨタ、国際企業への道」の章を新たに立て、書きおろした所以《ゆえん》である。 [#地付き]二〇〇〇年秋   [#改ページ] [#1字下げ]プロローグ  一九八一年(昭和五十六年)十二月二十一日。自動車産業の発祥の地、デトロイトは未曾有の自動車不況にあえいでいた。インターステート九四号線沿いにある米国の自動車生産台数を示すデジタル・カウンターは、過去数年来の低い水準の数字を刻んだまま止まっている。いつもなら自動車部品を積み込んだトラックがひっきりなしに走り、沿線に点在する工場の煙突からは濃い灰色の煙が吐き出されるが、この日から一週間、車の通行量はバッタリ途絶え、煙も出なくなる。巨大なグッドイヤー・タイヤの看板に組み込まれ、毎分、毎時間、毎日の生産台数を刻み続けるデジタル・カウンターもお休みとなる。  ハイウェーの静けさとは対照的に郊外にあるメトロ国際空港だけは、クリスマス休暇を故郷で過ごす人でごった返していた。午後二時過ぎ、黒人のボディガードと秘書らしき男を従えた品の良い一人の老人が雑踏の空港に降り、到着出口に待たせてあった一台のリムジンに足早に乗り込んだ。  九四号線をダウンタウンに向けフルスピードで走る車の中で、老人は過去の思いに耽っていた。老人が世界最大の自動車会社、ゼネラル・モーターズ《GM》の日本法人、日本GMに入ったのは今から五十年前、「GM中興の祖」とされるアルフレッド・P・スローン・ジュニアが本社の社長をしていた時代である。当時、GMはスローンの指揮のもと『T型フォード』で隆盛で極めたフォード・モーターの牙城を崩し、世界の自動車業界に君臨しつつあった。  大学を卒業し、希望に燃えて日本GMに入社した若き日には、将来デトロイトの本社勤務を夢見ないでもなかったが、入社して三年目に上司に誘われるまま、当時まだ海のものとも山のものとも分からない豊田自動織機製作所の自動車部に転籍してしまった。  仕事の関係でデトロイトの街並みは隅々まで知り尽くしている。老人は一九六〇年代の後半、資本の自由化直前にこれから訪れるGMとトヨタの提携を画策したことがあった。資本自由化が実現すれば、外資とりわけGM、フォード、クライスラーの米ビッグスリーが怒濤のように日本市場に押し寄せてくるのが目に見えるようだった。  それに歯止めをかけるには、外資提携しかない。老人はかつて勤めていたGMと提携するのが最良の策であると信じて疑わなかった。GMの飯を食ったことがあるだけに、GMの巨大なるが故の恐ろしさを誰よりも知っている。日本でGM車を組み立て生産するというのが提携の骨子だったが、本格交渉に入る前に、米独占禁止法の厚い壁に阻まれ涙を飲んだ。 「今回も二十年前と同じ結果になるのだろうか」  自問自答するうち、老人を乗せた車はダウンタウンのニューセンター地区にある古色蒼然としたGM本社ビルの地下駐車場に入った。  三人は来客専用エレベーターで六階に昇り、アジア・アフリカ担当副社長であるジョン・マコーミックの部屋に向かった。マコーミックは当時五十八歳。彼の担当するセクションはアジア、アフリカ市場を統括すると同時に、GMの関連会社及び子会社の経営に目を光らせている。十年前にGMが資本提携したいすゞ自動車の非常勤取締役を兼務しているのも彼である。  GMの社内序列は、No1は会長《チェアマン》でCEO(最高経営責任者)を兼ねている。No2がCOO(最高執行責任者)を兼ねる社長《プレジデント》、No3が副会長《バイスチェアマン》となっている。その下に数人の執行副社長《エグゼクティブ・バイスプレジデント》と事業部ごとのグループ担当副社長《グループ・バイスプレジデント》がいる。この一握りの男たちがエグゼクティブと称され、GMの権力の象徴ともいえる十四階に執務室を構えている。十四階はエグゼクティブ・ウイング(重役室)の代名詞である。エグゼクティブの下に副社長《バイスプレジデント》がいる。マコーミックの直接の上司は海外グループ担当副社長のジム・ウォーターズ。マコーミックの肩書きは日本流にいえば、さしずめ取締役アジア・アフリカ部長といったところだろうか。  彼の部屋にはアジア、アフリカ関係の書類がぎっしり並べられ、壁には提携先企業の工場竣工式などの写真が貼ってある。老人は部屋に入ると自己紹介を兼ね、五十年前、GMの日本法人に在籍したことがあることなどを懐かしげに話して時を過ごした。  やがて時計の針が三時近くになると、マコーミックはおもむろに席を立った。連れて来た黒人のガードマンをそこに残し、老人と秘書らしき男は、今度は彼の案内で役員専用エレベーターで十四階に昇った。マコーミックが役員室の前でがっちりと身構えている体格のいい守衛に笑顔で右手を上げると、電子ロック式のガラスのドアが自然と開いた。  内側には受付秘書のヒルダ・カーターがいる。彼女はその席に二十年間座り続けており、歴代GMトップの交遊を知り尽くしている。いわばエグゼクティブ・ウイングの生き字引である。マコーミックが彼女と一言、二言話すと、今度は受付の奥にあるガラスのドアが開いた。  二重にガードされた十四階の長い廊下には、忙しそうに走り回る社員の姿どころか、笑い声ひとつ流れてこない。大半の住人《エグゼクティブ》がブルーカラーと同じように、クリスマス休暇に入っているというわけではない。十四階は好況であろうが不況であろうが、いつも人気がなく、不気味なほど静寂さを漂わせている。殆ど外部と隔絶された社会である。  老人はマコーミックの後について一番奥の右側にある会長室に入った。時計の針はキッカリ三時を指していた。部屋の入り口には二人の専属秘書が座っている。その奥に会長執務室、続いて少人数の会議ができる小さな応接室がある。世界で最も大きい企業のトップの部屋にしてはこぢんまりしているが、本社ビルと同じように強大な権力の存在を感じさせる。日本式の来客用のソファはなく、横長の丸テーブルと皮張りの硬い椅子があるだけだった。内装もベージュのカーペットに羽目板と、いたって地味である。会社のオフィスというより自宅の書斎といった感じである。  会長室に入ると、米国人にしては小柄な体躯、赤砂色の髪をした、いかにも中西部の工業地帯を代表するエリート・エグゼクティブ然とした紳士が現れ、笑顔を見せながら老人を応接間に案内した。老人はおもむろに名刺を差し出した。 「トヨタ自動車販売代表取締役会長 加藤誠之」  部屋の主はGM会長のロジャー・スミスである。スミスはその年の一月一日付で、五十四歳の若さで世界最大企業のトップに登りつめた。老人が連れてきた秘書らしき男は、通訳を務める米国トヨタ自動車販売副社長の今井弘である。  自動車業界首脳のライバル企業への表敬訪問は、今や日常茶飯事になっているが、話すことと言えば貿易摩擦の原因追及から始まり、輸出規制問題に移り、最後にお互い相手国の非関税障壁などの問題について意見交換するのが一般的である。  だが、老人はこうした紋切り型の話をするためにここに来たのではなかった。冒頭から決して上手とはいえない英語を駆使して、伏し目がちに話し始めた。 「トヨタの系列にダイハツ工業という中堅の自動車会社があります。どう思われますか」  スミスは老人の質問の意味が分からず沈黙していると、老人はそれを察したのか、話題を海外に移した。 「トヨタは昔、韓国で乗用車の組み立て生産をしていたが、政治的な理由から撤退してしまいました。GMの方はうまくいっていますか」 「GMはセハン自動車(後に大宇自動車に社名変更)に五〇%出資しているが、思った以上にやりにくい。決してうまくいっているとはいえません。経営権を合弁相手に大宇財閥に渡そうかとも思っています」(九二年秋に提携解消)  スミスは辛うじて答えたものの、初対面の老人がどんな狙いから、こうした質問をするのか理解に苦しんだ。  むろん老人が質問したのには訳がある。最初にダイハツの話を持ち出したのは、GMがダイハツに対し、二年前から頻繁に超小型車《ミニカー》の部品についての見積書の提出を要請してきていることに加え、内外のGMウォッチャーから「GMはダイハツに資本参加したがっている」との噂を聞いたことがあるためだ。ダイハツも韓国も、トヨタとGMの双方に共通した話題である。話が弾めば提携の足掛かりにはなる。  だが話はうまくかみ合わないまま、時間だけが過ぎていく。スミスの顔には明らかに失望の表情が漂い始めている。老人はそれに気がついたのか、今度は単刀直入に切り出した。 「今日、スミス会長と会うことはトヨタ自動車工業社長の豊田英二も了解しています。豊田からのメッセージも持参しました。中身は読んでもらえば分かりますが、一言でいえば、GMとは将来にわたり仲良くしたいということです」  スミスはようやく老人が年の瀬にもかかわらず、わざわざデトロイトまで足を運んで来た意味が分かりかけた。それを確認するため、あえて尋ねた。 「それはどういう意味ですか」 「私の言わんとすることは、豊田からのメッセージを読んでお察しください」  老人は言葉を選びながら、たとえ話を持ち出した。 「トヨタはかつてアフリカのザンビアで、西独のダイムラー・ベンツと共同事業を計画したことがあります。狙いはザンビアでの事業をきっかけにベンツと世界市場で共同歩調をとることです」  最終的にはベンツとの共同プロジェクトは日の目を見ず、提携は実現しなかったものの、老人はザンビアの例を持ち出すことで、遠回しにGMとの提携の可能性を打診したのである。  会談時間はすでに三十分を過ぎていた。同席したマコーミックは、絶えず目の前に置いてある小型のテープレコーダーが作動しているかを確かめながら、二人の話をじっと聞き入っている。 「加藤会長の真意が本当に相手に伝わっているのだろうか」  通訳として同行した今井も、出番のないまま不安気に耳をそばだてている。  スミスが答えに窮しているのを見て、老人は一つの提案を試みた。 「GMとトヨタが仲良くする具体策を検討する前に、ぜひトヨタの工場を見ていただきたい」  この頃になるとスミスも相手の意図を把握したのか、独特の甲高い声で余裕を持ちながら答えた。 「私は財務畑の出身で工場の細部は分からないが、トヨタの『ジャスト・イン・タイム』方式には非常に興味を持っています。機会があればぜひ見たい」  この返事に気を良くした老人は、やや遠慮がちに二の矢を放った。 「もし私が豊田英二をここに連れてくれば、お会いになっていただけますか」  老人はここでスミスから前向きの返事が得られなければ、「GMとはやはり縁がなかった」と提携の意欲を断ち切るつもりでいた。ところがスミスの口からは老人が期待していた以上の答えが返ってきた。 「もちろん喜んでお会いします。ただ豊田さんが米国に来るのが分かれば、時期が時期だけに日本のマスコミもうるさいでしょう。そういえば来年の二月二十二日からデトロイトでSAE(米国自動車技術者協会)大会が開かれます。豊田さんの都合もあるでしょうが、その時期を見計らっておいでになったらいかがですか。豊田さんは技術者ですし、SAE大会の時期なら堂々と米国に来られます。なんならデトロイトに来られた時、私が加藤さんと豊田さんをディナーに招待しましょう」  SAE大会は自動車技術をテーマにした、いわばエンジニアのオリンピックである。大会は最先端技術の展示と技術セミナーで構成され、毎年この席で世界の有力メーカーから自動車に関する新技術や新製品が公開される。来年は二月二十二日から四日間、対岸の隣国カナダのウインザー市の町並みが目前にせまるコブ・ホールでの開催が決まっている。 「それは非常に有り難い」  老人は今度はスミスの顔を真正面から見ながら上機嫌で言った。  一時間余りの会談は終わった。トヨタから提携に向けての具体的な提案はなく、決まったことといえば、来年二月のSAE大会の時期にスミスが豊田英二を招待することだけである。  老人はメトロ空港に向かう帰りの車の中で、安堵した表情で誰に語るともなく呟いた。 「GM提携は夢のまた夢と思っていたが、もしかしたら今度はうまくいくかも知れない。私の役目は英二君とスミス会長の会談をセットすること。ともあれGM提携の道はつけた。後は英二君の仕事……」  二人の会談結果をニューヨークでじっと待っていた一人の男がいた。その男のところへ電話が入ったのは、老人が駐車場に戻るため、下りのエレベーターに乗り込んだ四時過ぎである。 「トヨタの加藤さんはたった今、帰られた。スミス会長はもうすぐヘリコプターで休暇先へ飛び立つ。会長は事前に君からトヨタに関してのブリーフィングを受けていたので、加藤さんの言わんとしたことは、感触で分かったと言っていた。私の印象ではトヨタはどうやら(GM提携に)本気らしい。トヨタは日本を代表する会社だから、GMとしても礼を尽くしたいというのが会長の意向です。会談の内容は後で詳しく報告するが、会長はそれを基にトヨタ提携の原案を練ってほしいと言っていた。その点くれぐれも宜しく」  ニューヨークに電話をかけてきたのは、老人とスミスの会談に同席したマコーミックである。そして男は「分かりました」と一言だけ言って受話器を置いた。 [#改ページ]   第一章[#「第一章」はゴシック体] それぞれの葛藤 [#改ページ]     [1]  一九七九年(昭和五十四年)春のイラン革命に端を発した第二次石油ショックの発生で、米国自動車産業は危急存亡に立たされていた。米ビッグスリーの一角を占めるクライスラーは、早くも石油ショック直前の七八年の決算で赤字に転落、七九年は赤字が前年に比べ四倍以上の十一億ドルに拡大し、ウォール街では公然と倒産説がささやかれていた。  原因はガソリン価格の高騰で、消費者がガソリンをがぶ飲みする米国製の大型車に見切りをつけ、性能と品質が良く、しかも燃料消費効率の良い日本製小型車に殺到したことにある。  米国市場の乗用車販売は七五年の八百六十二万台を底に持ち直し、七六年が一千九万台、七七年一千百十六万台、七八年一千百三十万台と順調に回復したが、第二次石油ショックの発生で、七九年は一千六十五万台に落ち込んでしまった。七九年までの過去三年間、ビッグスリーの大型車は比較的良く売れていたのである。対照的に日本車は、辛うじてリベート販売で台数をこなしていたに過ぎず、在庫は徐々に増えつつあった。  ところが第二次石油ショックの発生で事態は一変した。ガソリンを求めてスタンドに行列が出来たことから、日本車は乗用車、トラックを問わずプレミアム付きで飛ぶように売れ出し、在庫はまたたくまに消えた。日本車の販売は秋口に入ってから一段と弾みがつき、輸出も急激に増え始めた。代わってビッグスリーの大型車の売れ行きはバッタリ止まった。  皮肉なことに米メーカーは「消費者が求める製品(小型車)を大量に供給するため、誰も好まない製品(大型車)を売らなければならない」という苦しい立場に立たされていた。在庫の山となった大型車を売りさばかない限り、小型車開発の資金を調達出来ないからである。  当然のことながら、七九年初めには五万人を下回っていた全米自動車労組《UAW》加盟労働者のレイオフ(一時解雇)は、夏を境に急増、秋には二十万人に達し、八〇年の年明けには三十万人を上回る勢いだった。  米議会の自動車議員のボスで、日本車攻撃の急先鋒である上院のドナルド・リーグル議員は「デトロイトの失業率は二五%に達した。これは日本車の急増によってもたらされた。日本メーカーは米国で得た利益を日本に持ち帰り、それを技術開発に再投資すれば、日米間の技術ギャップはさらに広がる」ことを理由に早くも日本車の輸入規制をぶち上げた。  米国は貿易摩擦を経済原則の枠内で処理出来ず、政治の場で決着をはかろうとしたのである。  米商務省をはじめ民間シンクタンクの八〇年の乗用車の需要予測は、一千万台どころか九百万台を割り込むものの、日本車だけは引き続き伸びるという見方で一致していた。放置すれば大統領選挙の年だけに、自動車が政治の舞台にひきずり出されるのは避けられない。  案の定というべきか、年明け後の一月二十八日、マイケル・マンスフィールド駐日米大使が東京・日比谷の日本記者クラブで講演し、つい半年前まで「日米間に大きな問題は何もない」と話していた人とは思えないような過激な発言をした。 「日米自動車問題は弾薬庫にある爆弾の導火線に火がついた状態にある。この問題が大きくなるのは何としてでも避けなければならない。放置すれば大きな政治問題となる」  日米自動車摩擦はこのマンスフィールド発言で一気に爆発した。二月にはUAW会長のダグラス・フレーザーが労働省と自動車総連の招待で来日した。フレーザーは自動車業界各社のトップに米国での乗用車工場の建設を促す一方、自動車総連会長・塩路一郎の政治力で大平首相など政府首脳とも会い、摩擦解消に向け精力的に話し合った。記者会見の席上フレーザーは、UAW加盟労働者のレイオフが三十万人の大台に乗ったことを背景に、乗用車での工場進出をためらっているトヨタ自動車と日産自動車を名指しで非難した。  日本の自動車業界では本田技研工業《ホンダ》が年明け早々、オハイオ州に乗用車工場の建設を発表、続いて日産は小型トラックの工場建設を決めた。ところがトヨタはフレーザーの帰国後、百万ドルを投じてスタンフォード研究所、アーサー・D・リトル、野村総合研究所の日米シンクタンク三社に対米進出の可能性の調査を依頼しただけである。  業を煮やしたUAWは五月に入り遂に、「日本車の急増で米自動車産業は大きな被害を受けた」として米自動車産業の救済を求め、米国際貿易委員会《ITC》に提訴した。救済策といっても、具体的には日本車の輸入制限しかない。日米自動車摩擦は悪路を辿り始めた。その最大の原因は「トップメーカーのトヨタが重い腰を上げないことにある」という見方が定着し、米国ではトヨタに対する反発が日増しに強まっていった。  米国で非難を一手に浴びたトヨタは、むろん日米のシンクタンクに調査を依頼しただけで事態を乗り切れるという甘い考えは持っていなかった。六月に入り密かにフォード・モーター社長のドナルド・ピーターセンを日本に呼び、大胆な提携を提案したのである。 「両社が折半して、米国に合弁会社を設立し、トヨタが開発した排気量二千cc級の小型乗用車をフォードの遊休工場を使い、年間二十万台規模で生産、それぞれの販売網を使って売る」というのが提携案の骨子である。これは五月一日、ワシントンのホワイトハウスで行われた日米首脳会談の席上、カーター大統領が大平首相に提案した日米メーカーによる共同生産構想を下敷きにしている。  GMに次ぐ世界第二位と三位の巨大企業の提携交渉は七月九日、劇的な形で明らかになった。衆参同日選挙の最中に急死した大平首相の葬儀の日に狙いを定めたかのように、NHKが夜七時の定時ニュースで大々的に報じたのである。葬儀に参列するためジミー・カーター大統領も来日しており、政治的な効果は極めて大きかった。  カーター大統領は来日直前、ワシントンにビッグスリーの首脳とUAWの幹部を集め、�自動車サミット�を開催して、「日米自動車摩擦問題で日本側から新たな譲歩が得られなければ、予定通り八月二十一日から小型トラックのキャブシャシー(荷台のない車体)の輸入関税を現行の四%から二五%に引き上げる」ことを表明する一方、ITCに対し審決を急ぐよう指示した。  東京発の大ニュースは瞬時にして世界を駆け巡った。東京の夜七時は米国東部時間では朝の六時。ABC、NBC、CBSの米テレビ三大ネットワークは早朝からこのニュースを繰り返し流し続けた。  八〇年代に入りフォードの業績が急激に悪化、ウォール街では早くも�第二のクライスラー説�がまことしやかにささやかれていた時期だけに、議会の一部に「トヨタ一流の政治効果を狙ったゼスチャー」と酷評する向きもあったものの、政府関係者やUAWからは総じて好感を持って受け入れられた。  カーター大統領は葬儀の翌日の十日午前、羽田空港から帰国の途についたが、伊東正義首相臨時代理は空港で「(トヨタとフォードの提携交渉は)まだ始まったばかりだが、順調に進めば一つの成果であり、日本政府としても支援したい」と表明、カーター大統領も「交渉が順調に進むことを期待している」と、日米ビッグビジネスによる巨大提携に対し、両国の政府首脳がエールを交換した。  前日、NHKがすっぱ抜いた直後、トヨタは自工社長の豊田英二が訪米中ということもあり、代わって留守をあずかる副社長の豊田章一郎が「米国での乗用車生産について、今後ともフォードと話し合うことで基本合意した」という簡単な談話を発表した。  トヨタにしては珍しく素早い対応である。それもそのはずで訪米中の豊田英二はNHKが報道する直前、デトロイトでフォード社長のピーターセンに会い、両社が正式に交渉のテーブルに着くことで合意していたからである。  いずれにせよトヨタが提携に前向きの姿勢を示したことから、業界関係者は挙《こぞ》って「この組み合わせは理想的であり、米独禁法の壁さえ乗り越えれば提携は実現する」と判断した。  トヨタがこの時期、フォードのピーターセン社長を日本に呼んで共同生産を提案したのは三つの狙いからである。  一つ目は巨大提携による政治効果である。トヨタはマンスフィールド発言以来、日本車急増に伴う米国での反日感情に神経を尖らせており、フォードへ救済の手を差し延べることで、反日感情が和らぐことへの期待である。  二つ目が米国の保護主義者の圧力を緩和させることである。当時、フォードはUAWの日本車提訴に同調する動きを見せており、万が一、フォードが共同提訴者になれば、ITCの審決に重大な影響を与える。これを防ぐにはフォードを日本側に取り込むのが手っ取り早い。  三つ目がフォードと提携することで、米企業の労働者の扱いと経営のノウハウを学びとることである。さらに共同生産であればリスクは分散される。  トヨタはフォードとの提携で「一石二鳥」の効果を狙ったわけだが、一抹の不安があるとすれば、提携交渉が表面化した後、なおフォードの態度が不明確なことである。フォードは東京発の外電が流れた直後、早朝にもかかわらず早々とピーターセン社長の声明を出した。 「東洋工業(現マツダ)を加えた三社で合弁事業を検討しているが、基本合意に達したというのは事実ではない」  その数時間後には追加声明を出した。「トヨタの合弁計画はフォードの利益に合致するとは思えない」という厳しいもので、本格交渉の前に太平洋を挟んで、早くも水面下では熾烈《しれつ》な駆け引きが始まっていることを窺《うかが》わせた。     [2]  トヨタとフォードは過去三回、交渉のテーブルに着いており、今度が四度目である。  最初は戦前の一九三九年(昭和十四年)のことである。トヨタはその二年前の三七年(十二年)三月に豊田自動織機製作所の役員会で自動車部の分離・独立によるトヨタ自動車工業の設立と、愛知県三河地方の論地ケ原に挙母《ころも》工場の建設を決めた。トヨタ自工の初代社長には豊田佐吉の長男で事業の提案者である豊田喜一郎ではなく、妹・愛子の婿である豊田利三郎が就任した。  英二はこの時、機械の据え付け責任者として、自ら工場の床にペンキで据え付け場を描いた。挙母工場は翌三八年(十三年)の夏に完成、同年十一月三日に盛大な完成披露式を行った。挙母工場は現在の本社工場で、トヨタはこの完成披露式の日を創立記念日にしている。  三九年に入ると工場も軌道に乗りかけ、喜一郎は一気に乗用車の生産を目指し、フォードとの提携交渉に入った。フォードも日本政府の国産化政策のあおりを受け、日本への残留が難しくなりつつあったことから無条件で喜一郎の提案に乗った。  交渉は順調に進んだが、直前になって陸軍省軍務局から横ヤリが入り、提携交渉に日産も加わることになった。三社提携の内容は、資本金六千万円の合弁会社を日本に設立して、フォードの技術指導でフォードが開発した乗用車を共同生産するというものである。  三社間で話がまとまり、トヨタ・豊田利三郎、日産・鮎川義介、日本フォード・コップの各社長が十二月十九日に提携趣意書に調印した。出資比率はトヨタと日産がそれぞれ三〇%、フォードが四〇%である。  英二はこの年の春に結婚したが、新婚まもない七月に喜一郎から、三社提携の準備のため米国へ長期出張を命じられた。ところが盛大な送別会も終え、いざ出発の段階になって外貨割り当てを受けられず、米国出張は取りやめとなった。そして肝心の三社提携も中国大陸での戦線拡大と米国の対日通商航海条約破棄通告など日米関係が怪しくなり、自然消滅してしまった。  二回目が戦後の一九五〇年(昭和二十五年)六月。トヨタの労働争議が終わった後、「トヨタの将来を考えた場合、米メーカーと何らかの関係を築いておいた方が良い」との喜一郎の判断から、再びフォードに白羽の矢を立て、トヨタ自販社長の神谷正太郎が中心になり提携交渉に入った。交渉はトントン拍子に進み、フォードの小型乗用車をトヨタがライセンス生産することで基本合意した。  日本の自動車産業は、戦後の復興途上にあり技術蓄積も乏しく、まだ自前で本格的な乗用車を作ることができなかった。そこでトヨタはフォード、日産は英オースチン、いすゞ自動車は英ルーツ、日野ヂーゼル工業(現日野自動車工業)は仏ルノーという具合に各社とも外資提携を模索していた。  フォードとの提携交渉は短期間でまとまり、生産担当の取締役に就いたばかりの豊田英二が渡米して正式調印する段取りになっていた。その矢先に朝鮮戦争が勃発、米政府は重要技術者に禁足令を出したため、フォードの大半の技術者がこれに引っかかり来日出来ず、提携はあっけなく白紙還元してしまった。提携契約書の第一項目に「フォードはトヨタにエンジニアを派遣し、技術指導する」とあったためである。エンジニアが来日しなければ、当時のトヨタの技術力ではライセンス生産は出来ない。  ただし提携は白紙還元したものの、契約書の第二項目目に「フォードはトヨタから技術者を研修生として受け入れる」とあったことから、フォードはこれを提携交渉の成否に関係なく受け入れた。  研修生に選ばれたのが豊田英二と斎藤尚一(元会長)の同期入社の二人である。英二は七月、斎藤は十月からそれぞれ三カ月間、フォードで最先端の生産システムを学んだ。トヨタは二人の体験を基に五一年二月、「生産近代化五カ年計画」を策定、同年六月にはフォードの「サゼッションシステム」を参考に「創意くふう提案制度」を導入、これがトヨタ独特の合理化策の原点となっている。  三回目は一九六〇年(昭和三十五年)に、モータリゼーションの幕開けとともに通産省が推進した国民車構想との絡みで浮上した。国民車構想にトヨタは排気量八百ccの小型大衆車『パブリカ』で参入を表明したものの、一社で作る自信がない。  すでに貿易の自由化が部分的に実行され、経済界の一部では早くも資本自由化が論議されていた。貿易に続いて資本も自由化されれば、トヨタといえども存立基盤が危うくなる。そこで外資進出に一定の歯止めをかけ、さらに乗用車の技術を導入する狙いから三たびフォードに提携を持ちかけた。  提携の骨子はフォードとトヨタが日本に合弁会社を設立し、そこで『パブリカ』を共同生産するというものである。出資比率はトヨタ自工四〇%、トヨタ自販二〇%、フォード四〇%である。交渉は自販社長の神谷正太郎と自工副社長の中川不器男(後に社長)があたり、約一年間続けたものの、最終的にトヨタ案はフォードの役員会で否決されてしまった。  フォードがトヨタ案を蹴ったのは、「株式の過半数を握らない限り、連結決算の対象会社にならないのでメリットがない」という資本の論理である。  これに神谷が怒った。 「フォードは礼儀を知らない。やる気がなければ最初から断るべきだ。トヨタの車と工場を見るだけ見ておいて、それで断ってくるとは信義に欠ける」  神谷が加藤誠之を使ってGMとの提携を画策するのはそれから後のことである。  英二は神谷と異なり、それほどフォードに悪感情を持っていなかった。三回目の交渉には直接タッチしなかったこともあるが、むしろ今日のトヨタの基盤を作ってくれた会社として、GMやクライスラーに比べ親近感を持っていた。この時期はフォード留学の時に面倒を見てもらったマクドゥーガル(後に執行副社長)が交渉メンバーに入っていたこともあり、暇をみては旧交を温めていた。  英二がフォードで学んだ当時の社長兼CEO(最高経営責任者)は、若き日のヘンリー・フォード二世である。フォード二世は「おじいちゃん(創業者のヘンリー・フォード)のやり方は古くさい。自分が社長になった以上、近代経営を導入する」と経営改革に意気込んでいた。英二は創業者の側近と対立しながら経営改革に取り組んでいたフォード二世の経営に共鳴を覚えた。  こうした関係から七八年六月、フォード二世が会長退任の挨拶を兼ねて執行副社長のピーターセンらを引き連れ、七年振りに来日した際には、トヨタ本社に招待し自ら小型乗用車の『セリカ』『カリーナ』を生産している堤工場の案内役を買って出て、昔話に花を咲かせた。  豊田英二にはフォードに対し熱い思いがあった。四回目の提携交渉は始まったばかりだが、英二は自信を持っていた。前三回の提携交渉は、フォードから教わるのが目的だったが、今回は全く逆である。トヨタが提示した二千ccのFF(前置きエンジン、前輪駆動)小型乗用車は、トヨタが米国市場向けに開発した戦略車種の『カムリ』である。  四回目の交渉は元をただせば、フォードの新社長に就任したピーターセンから「就任挨拶のためトヨタを表敬したい」という手紙が舞い込んできたのがそもそもの始まりである。  そして五月一日にワシントンのホワイトハウスで開かれたカーター大統領と大平首相との日米首脳会談の席上、カーター大統領が日米自動車摩擦の解決策の一つとして日米自動車メーカーによる共同生産構想を提案、それまで情報収集に精力をさいてきた英二は「これだ!」とばかり、カーター構想に飛びついた。  トヨタは日本一の巨大企業だが、同族色の強い会社だけに、トップが決断すれば行動は早い。英二は一人で共同生産の骨組みを考え、三井物産出身で部品の販売を通じ、ビッグスリーのエグゼクティブに知己の多い日本電装(現デンソー)専務の田邊守に親書を託し、デトロイト郊外のディアボーン(フォード本社の所在地)に派遣した。親書にはピーターセンがトヨタを訪問した際、トヨタ側から共同生産を提案する用意があることを認めてある。  田邊は英二に呼ばれ、箇条書きにした提携の骨子を見せられた時、何度も念を押した。「共同生産の相手はGMでなく、フォードでいいんですね」  英二は〈GMでは相手が余りにも大きすぎる〉と自分に言い聞かせるように首を横に振った。  トヨタのある役員は、これまでに考えられなかった英二の俊敏な行動を「腰の重たい殿様が、突然馬に乗って飛び出した」と表現した。  ピーターセンは小型車開発の最高責任者であるE・リチャード、マツダとの提携責任者であるR・ライリーの二人の副社長を引き連れ、六月二十二日夕刻、専用機で伊丹の大阪国際空港に到着した。翌日は大阪でマツダ社長の山崎芳樹(現相談役)、住友銀行頭取の磯田一郎(現相談役)と個別に綿密な打ち合わせを済ませ、二十四日朝、新幹線に乗り、豊田市のトヨタ自工本社に向かった。  会談は本社の敷地内にあるトヨタ会館の貴賓室で、十時半から始まった。豊田英二はフォード側のメンバーを見てピーターセンの共同生産に対する意気込みを感じ、一段と自信を深めた。トヨタ側の出席者は工販の会長、社長そして副社長の一部、海外担当役員など総勢六人である。会談は昼食をはさんで三時間半にも及んだ。  本格交渉は七月下旬から始まったが、ピーターセンの社長声明を裏付けるかのように最初から大きな壁に突き当たってしまった。トヨタが提示したFF車にフォードが難色を示し、独禁法どころか合弁事業の骨格を決める以前の車種選定の段階で暗礁に乗り上げてしまったのである。  フォードの業績は八〇年に入って急速に悪化しつつあったが、フルサイズカーからミニカーまでのフルライン政策はまだ放棄していない。トヨタの提案した『カムリ』は魅力的な車だが、密かに社運をかけて開発している小型車の『トーラス』と需要層がかち合ってしまう。これを避けるには、トヨタに大幅に設計変更してもらわなければならない。  フォードの交渉団は執拗に設計変更を求めたが、トヨタ側の交渉の責任者である開発担当専務の長谷川龍雄は、「カムリは米国市場向けの車だが、フォードのために開発した車ではない」と頑として譲らない。  設計変更は口で言うほどやさしくはない。カムリはトヨタにとって初めての本格的なFF車で、ここでフォードの要求を受け入れ、安易に妥協してしまえば、トヨタの新車計画どころか開発思想まで崩れてしまう。交渉は折り合いがつかないまま、共同生産車種としてのカムリは秋口に消えた。  次に浮上したのがGMがワールドカーの切り札として開発している『Sカー』対抗車のミニカー(超小型車)である。GMが米国の燃料消費規制達成の決め手として、Sカーと呼ばれるミニカーを開発、ワールドカーとして世界各地のGMファミリーを動員して、年間百万台規模で生産するのは、米国のみならず世界の自動車業界の常識になっていた。  フォードにはSカーに対抗するミニカーはなく、焦っていた。資本提携しているマツダの力を借りることも考えられるが、マツダはまだ第一次石油ショック時にRE《ロータリー・エンジン》で痛手を負った傷が完全に癒えておらず、開発力が乏しい。  ところがトヨタはフォードとは対照的にGMのSカーに疑念を持っていた。洋の東西を問わず、世界の自動車会社に共通しているのは「小さな車を作っている会社は、大きな車をいとも簡単に作れるが、大きな車を作っている会社は、小さな車を容易に作れない」ことである。それを一番よく知っているのがトヨタである。  排気量五百五十ccの日本独特の軽自動車(その後六百六十ccに拡大)がどんなに人気が出ようとも、トヨタはその分野に進出する気は毛頭ない。いくら試作してみても安全、公害対策を施せば重量が重くなり、五百五十ccのエンジンでは車としての基本性能を維持出来ないどころか、コストも高くなり、どう計算しても間尺に合わないのである。  トヨタの技術者にしてみれば、系列会社のダイハツが軽自動車を一台五十万円を切る価格で売り出せるのが不思議ですらある。トヨタにすれば軽自動車どころか『リッターカー』と呼ばれる排気量千ccの車さえ作る自信がない。  GMといえば世界最大の自動車会社で、儲け頭は言うまでもなくフルサイズカーの『キャデラック』である。トヨタは小型車を得意とする自分でさえ作れないリッターカーをGMが作れるわけがないとたかをくくっていた。 「運転性能、コストバリューなどあらゆる面からみて、小型車の排気量の下限は千三百cc」  これがトヨタの結論である。  トヨタが生産している車の中で、排気量の最も小さな車が千三百cc車の『スターレット』で、すでに次期モデルはFF化することが決まっている。次期スターレットの図面はまだ出来上がっていないものの、GMのSカーへの対抗上、千ccを主張するフォードと千三百ccを譲らないトヨタの意見は最後まで調整出来ず、乗用車の共同生産案は完全に空中分解してしまった。  晩秋に入りトヨタは最後の切り札として、レジャー用としても乗用車としても使える多目的車《ミニバン》の『タウンエース』を提案した。だが、フォードはまたもやスタイルをはじめ細部にわたり仕様変更を求めたことから、妥協点を見い出せないまま事務的な交渉が断続的にダラダラと続いた。  英二の意気込みにもかかわらず、交渉が暗礁に乗り上げたのは、トヨタ側よりフォードに原因がある。フォードは自社開発チームとトヨタ交渉チームを分けている。トヨタ交渉チームのメンバーは販売と生産の人間で構成されており、メンバーには自社開発車の詳細は殆ど知らせていなかった。  トヨタ交渉チームがいくらトヨタとの間で厳しい交渉を重ね、ぎりぎりの接点を見いだしても、本社に帰れば、自社開発チームにことごとく潰されてしまう。フォードは新車開発に際してトヨタと自社開発の二股をかけていたのである。  フォードにすれば「提携を最初に持ちかけてきたのはあくまでトヨタ。相手から出来るだけ多くの車種を提案させ、自社のラインナップにぴったりあてはまる車種を探せば良い」という気楽な立場にあった。  共同生産を提案した当初の期待と裏腹に、豊田英二は日が経つにつれ、フォードの行動に疑念を持ち始めた。不信のきっかけとなったのが、提携交渉が始まった直後の八月四日にフォードが突然、全米自動車労組《UAW》に追随して米国際貿易委員会《ITC》に提訴したことである。右手で提携交渉をしながら、左手で殴り合う。英二はフォードの余りにもドライなやり方にショックを受けた。フォードが提訴した直後、英二は海外事業室長でフォード交渉のメンバーでもある常務の田村秀世を自室に呼び、「フォードのやり方はあまりにもえげつない」とクレームをつけるよう指示した。  これに対し田村は「交渉のテーブルに着きながら、机の下で相手の足を蹴飛ばすのはフォードに限らず外資特有の交渉術。無視すべきです」と主張、クレームをつけることはひとまず見送ったが、英二のフォードに対する不信感はこの時から徐々に芽生えていった。そして乗用車の車種選定に失敗した時点で、提携に対する意欲を完全に失った。  車種選定で一歩も譲らなかったのはフォードに対する不信が払拭出来ず、「なんとしてでも提携を成立させたい」という当初の意欲が薄れてきた表れと見ることも出来る。  最終的にミニバン共同生産でまとまったとしても政治的効果は薄く、日米自動車摩擦の切り札とはなり得ない。またフォードへ提携を持ちかけた理由の一つに、フォードがUAWと共同歩調を取るのを防ぐことがあったが、その期待も完全に裏切られた。三つの狙いのうち二つは早くも水泡に帰した。     [3]  十一月に入り、トヨタに交渉破綻の序曲となる決定的なニュースが飛び込んできた。アラブボイコット委員会がイラクの日本大使館に「トヨタが親イスラエル政策をとる米フォードと合弁事業のみならず、ライセンス生産を含めた提携に踏み切れば、トヨタ車をボイコットすることもあり得る」と警告を発したのである。  アラブボイコット委員会というのは、イスラム教の中東産油国が一致団結して親イスラエル政策をとる企業を排除しようとする秘密組織である。本部はシリアのダマスカスにあり、当時はイスラエルに自動車工場を持っているフォードが最大の標的とされていた。  トヨタの中近東向けの輸出は八〇年は二十五万台に達し、全輸出の一四%を占める。むろんトヨタがアラブボイコット委員会の存在を知らなかったわけではない。一九七九年(昭和五十四年)秋にフォードとマツダが資本提携した際、アラブボイコット委員会の存在がマスコミを賑わしたが、その後、両社の提携がアラブボイコット委員会に阻害されたというニュースも聞かなかったことから、「マツダがボイコットされていないのに、トヨタが対象にされるわけがない」と事態を楽観視していたのである。  両社の交渉の過程でこの問題も議論されたが、フォードの答えは常に「当方が責任を持って解決する」というものであった。フォードはトヨタ提携交渉と前後して、エジプトに自動車工場を建設する計画を進めており、水面下ではアラブボイコット委員会に「フォードをボイコットの対象から外すよう」働きかけていた。  しかしこの問題をフォード任せにするのはあまりにも危険が大きすぎる。担当者を現地に派遣して調べるにつれ、トヨタもことの重大さに気がつき始めた。フォードとマツダは資本提携にクレームをつけられないよう細心の注意を払う一方、密かにアラブボイコット委員会に献金していることも分かった。  アラブボイコット委員会は決して一枚岩ではない。エジプトは柔軟な姿勢を見せているが、それ以外の国は依然として強硬である。強硬派の産油国にすれば、トヨタをやり玉に上げれば、ボイコット委員会の存在を世界に知らしめることが出来る絶好のチャンスである。マツダとトヨタでは世界に対する影響力が全く違うからである。  そこでトヨタは年末になって、アラブボイコット委員会に対し非公式に「提携の形を合弁からライセンス供与による生産に切り替えれば、ボイコットの対象から外れるか」を打診し始めた。  十一月十日、ITCから注目の審決が出た。  直前までは「日本車の輸出急増が米国の自動車産業に打撃を与えた」という�クロ�説が有力だったが、直前の大統領選で保護貿易色政策を打ち出していた現職のカーター大統領が敗れ、自由貿易を掲げる共和党のレーガン候補が勝利したことも反映してか、意外にも�シロ�の審決が出た。  日本の業界にとっては喜ばしいことだが、シロの審決が出たことで逆に今後、米自動車業界、UAW、議会が一段と日本車非難を強めてくるのを覚悟しなければならない。非難はまたしても対米輸出最大手で、工場進出をしていないトヨタに集中する。  八一年の年明けとともに、クライスラーの経営危機が一段と深刻化した。クライスラーは七八年に二億ドル、七九年に十一億ドル、八〇年に十七億ドルと、わずか三年で三十億ドルの赤字を出している。運転資金も枯渇し始め、前年の九月にミラー財務長官が委員長をしている米政府の「クライスラー融資保証委員会」から七億ドルの融資を受け、何とか命脈を保っていた。  それにもかかわらず、期待の小型乗用車『Kカー』は、折からの高金利で計画の半分しか売れず、再建は軌道に乗るどころか、年末には政府に四億ドルの追加融資を申請した。もはや�死に体�に近く、倒産は避けられないというのが業界の一致した見方となっていた。  フォードも八〇年の決算で創業以来最大の十五億四千万ドルの赤字を計上した。むろんGMも赤字に転落した。この年、ビッグスリーの赤字は合わせて四十億ドルに達した。ITCからシロの審決が出たものの、客観情勢としては日本車の輸出規制は避けられそうにもない。  クライスラーへの追加融資はカーター政権の最後の仕事になり、倒産という最悪の事態はひとまず避けられた。そして一月二十一日、自由貿易主義を標榜《ひようぼう》するレーガン政権が発足した。ただし「強いアメリカの再生」を目指すレーガン大統領としては、自動車産業の窮状を黙って見過ごすわけにはいかない。就任早々、ルイス運輸長官を座長とした「自動車問題対策委員会」を設置して解決の道を探ることになった。レーガン政権による日本車規制への地ならしが始まったのである。  トヨタとフォードとの提携交渉は暗礁に乗り上げたまま越年し、業界の話題から遠ざかりつつあった。そうした最中の二月五日、トヨタ提携のフォード側の最高責任者である執行副社長のハロルド・ポーリングが来日して交渉を再開、共同生産車種はワンボックスのタウンエースをベースにしたキャブオーバー型ワゴン車(ミニバン)にすることで何とか合意にこぎつけた。ただ生産台数で大きな食い違いを見せ、まだ公表出来る段階ではなかった。フォードが乗用車と同じ年産二十万台を主張したのに対し、トヨタの需要見通しは年産五万台である。この差を埋めるのは容易ではない。まとめるとすれば合弁生産ではなくライセンス生産である。  トヨタがフォードとの提携に意欲を失いかけていることは業界でも徐々に知られるようになり、関係者の間では「仮にミニバンでまとまっても合弁による共同生産ではなく、せいぜいライセンス生産」という見方が広まりつつあった。  世紀の巨大提携も「大山鳴動してねずみ一匹」の雲行きになったのである。  ポーリングが帰国した直後のある日、英二はデンソー専務の田邊守に会長の花井正八を交え、社長室で鳩首会議を行った。トヨタは伝統的に社長と会長が同じ部屋にいる。  口火を切ったのが英二である。 「アラブボイコット問題はどうしたものだろうか」  この発言を花井が引き取り、「(提携する)相手を間違えたのかも知れない。GMならこんなに苦労はなかった」。  そして三人の結論は「基本的には自然体でいくが、仮にライセンス生産でまとまらなかったとしても、政治情勢を勘案して白紙還元の表明時期は出来るだけ先に延ばす」ことで一致した。  トヨタのもたつきぶりとは対照的に、ライバル日産は社長の石原俊の指揮のもとで積極果敢な国際戦略をぶち上げていた。前年の八〇年には米国での小型トラックの現地生産を皮切りにスペイン・モトールイベリカ(現ニッサン・モトールイベリカ)への資本参加、イタリア・アルファ・ロメオとの乗用車合弁事業(後で提携解消)、西独フォルクスワーゲン《VW》とのVW車(サンタナ)の日本国内でのライセンス生産(後で中止)を発表した。  そして八一年に入ると一月に英国での乗用車の現地生産という具合に、花火のように派手な海外プロジェクトをポンポン打ち上げ、その都度マスコミを賑わしていた。  過去一年間を見ると、自動車業界の国際化の主役は日産であり、トヨタがフォードとの提携交渉で一矢報いたかに見えたが、交渉が尻すぼみになるにつれ、主役の座は再び日産に戻った。  デンソー田邊はトヨタのやり方がいかにも歯痒かった。交渉が進展しないまま、ポーリングが帰国した直後に花井が言った「(提携する)相手を間違えたのかも知れない」という発言を手がかりに、トヨタ首脳に相談せず単身デトロイトに飛んだ。行き先はディアボーンのフォード本社ではなく、ダウンタウンのGM本社である。  十四階の受付秘書のヒルダ・カーターを通して旧知の部品担当執行副社長、ルービン・ジェンセンに会い「トヨタとフォードの提携交渉はサスペンデッド(中止)になった。ついてはGMと交渉したい」と申し入れたが、ジェンセンからの答えは「トヨタの提案は非常に興味がある。一度、上に話してみる」という曖昧なものだった。  日米自動車摩擦は四月に入り、風雲急を告げた。二月早々レーガン政権から「米自動車産業再建策」が公表され、日米政府による本格的な折衝が始まった。  日米協議の公式の場では日本車規制はほとんど話題にならなかったが、水面下では巧妙な駆け引きが行われていた。すでに日本側は通産省の指導で、一月から対米輸出について各社ごとの割り当て制を採っている。対米輸出に関しては事実上、管理貿易下に置かれたのである。  レーガン大統領は日本車規制を表に出さないことで、自由貿易主義を堅持していることを盛んにアピールしたが、表向きの発言とは裏腹に、日本側に目に見える形での抑制策をとるようサインを出し続けた。五月には鈴木首相の訪米が日程に上っている。日本政府としては、首相訪米までになんとしてでも自動車問題を解決しておかなければならなかった。  その矢先、トヨタにとんでもない情報が舞い込んで来た。トヨタにとって金城湯池《きんじようとうち》ともいうべきイラクから、GMが中型乗用車一万台を総額九千六百万ドルで受注したというニュースである。トヨタはイラン・イラク戦争勃発後、イラクから小型トラックを中心に少ない年で四万台、多い年には六万台受注していた。GMの発注は即トヨタへの発注減につながる。  続いて四月に田中六助通産相がサウジアラビアを訪れた際、スライム商業相がトヨタとフォードとの提携交渉に懸念を表明、これにバーレーンも同調したことからトヨタ車排斥の動きは中東湾岸産油諸国に広がる動きを見せはじめた。放置すれば、トヨタは中東市場から締め出されてしまう。  トヨタは前年末、アラブボイコット委員会にライセンス生産を中心とした提携であれば、ボイコットの対象から外れるかどうかを打診したが、「提携は合弁どころかライセンス生産についてもボイコットの対象になる可能性が大きい」との厳しい回答が返って来た。トヨタの動きの鈍さにしびれを切らしたアラブボイコット委員会は、具体的な行動に出たのである。  日米自動車問題は五月に入って、日本政府が米国政府に寄り切られる形で、乗用車の輸出を前年の百八十二万台から百六十八万台に減らすことで決着した。名目はビッグスリーの経営再建に側面から協力するというもので、規制期間は三年間である。むろん二年目と三年目には規制台数を見直すことになっている。  こうなるとトヨタにしてみれば、フォードとの交渉を無為に引きつけておく意味は全くない。ミニバンのライセンス生産で形ばかりの提携を取繕っても、アラブボイコット問題から逃れることは出来ない。トヨタ社内には「ここまできた以上、面子《めんつ》を捨て、すっきり白紙還元を表明した方が被害は少ない」との見方が台頭し始めた。  事実、英二をはじめとするトヨタ首脳は白紙還元のタイミングを虎視眈々と狙っていた。ただし白紙還元の理由にアラブボイコット問題を挙げるわけにはいかない。それを理由にすれば、今度は米国の反アラブボイコット運動に火がつき、米国でトヨタ車の排斥運動が起こりかねないからだ。  その矢先にフォードから「タウンエースをベースにしたミニバンをユーザーの意見を聞くプロダクトクリニックにかけたところ、現在のミニバンである『エコノライン』の後継車種としては小さ過ぎるとの結論が出た。従って大幅に改良しない限り、共同生産は出来ない」との回答が舞い込んできた。フォードの要請に沿った改良は口で言うほど容易ではない。トヨタにすれば提携交渉を白紙還元する絶好のチャンスである。大儀名分はこれだけで十分である。  トヨタの首脳はまず五月二十二日に懇談会という名の非公式の記者会見で、運営上の難しさを理由にミニバンの合弁生産方式を断念せざるを得ないことを表明、まず白紙還元に向けての布石を打った。  これに慌てたのがフォードで、わざわざ「トヨタとの交渉は合弁方式の線で順調に進んでいる」と、これまでとは逆のコメントを出した。フォードには「ダメになったのはあくまでミニバンであって、適当な車種さえ見いだせれば、いつでも交渉は再開できる」という意識があり、トヨタのフォード離れを盛んに牽制した。  両社の立場は一年前とは攻守ところを代えていた。フォードは赤字の長期化で社債の格付けが下がり、新規の起債もままならず設備投資資金の調達にも影響が出始めていた。トヨタとの間で共同生産の車種を探し出し、合弁事業が実現すれば、単に設備資金が節約出来るだけでなく、信用力の回復につながる。  乗用車の対米輸出が自主規制に追い込まれたことで、ミニバンのライセンス生産どころか、提携交渉そのものを白紙還元したいトヨタ。何がなんでも合弁による共同生産に持ち込みたいフォード。  マスコミを利用した神経戦は一カ月半にも及んだが、豊田英二は七月二日、東京のホテルで開いたスポーティー車、『セリカ』の新車発表の席上、新聞記者の質問に答える形でさり気なく事実上の白紙還元を表明した。 「フォードは最近になって共同生産車種に決まったミニバンのキャブワゴンについて、見込みがないと断ってきた。これで昨年六月以来の交渉はボツになった。今後トヨタから新たな提案をするつもりはない」  フォードはこの英二発言に対し、「七月末に再度交渉を持つことになっている。現時点でわれわれは交渉が合意に達することを希望している」との声明を出したものの、肝心のトヨタに提携に対する意欲がなくなっては、相撲にならない。  監督官庁である通産省機械情報産業局長の豊島格は、英二の発言に「両社の共同生産交渉は完全に白紙還元したとは思っていない」と、多少未練がましいコメントを出した。だが政府関係者は「日本車の対米輸出自主規制がスタートしたこともあり、この巨大提携が立ち消えになっても、日米関係に悪影響を及ぼすことはない」と事態を楽観視していた。  ともあれ世界の自動車業界を揺るがせた巨大企業の提携交渉は、いささか後味の悪い結末を迎えた。トヨタ自販会長・加藤誠之の言葉を借りて言えば「大山鳴動してねずみ一匹どころか、ねずみのフンすら出なかった」のである。     [4] 「GMにとって良いことは、米国にとっても良いことだ」  いわゆる�GMは国家なり�と大言壮語したのは第二次世界大戦の一九四一年から五三年までGMの社長を務めた後、アイゼンハワー政権下で国防長官を務めたチャーリー・ウィルソンである。  日本の自動車産業は八〇年代に入り、社会的影響力の面でようやく鉄鋼産業を凌いだが、米国で産業といえば、今も昔も、自動車がすべてである。自動車産業の凋落は、直ちに米国の衰退につながる。したがってデトロイトの破綻は同時に米国経済の破産を意味する。米国の自動車産業の動向は、米国の安全保障にかかわる重要な問題といっても決して大げさではない。  ブッシュ大統領が九二年(平成四年)一月の訪日に際し、GM・ステンペル、フォード・ポーリング、クライスラー・アイアコッカの米ビッグスリーの会長を伴ってきたのはその辺のことを如実に物語っている。  今世紀に入り米国が世界一の経済大国になり得たのは、原油を自国で発掘出来たからではなく、それを使う自動車産業を興したからにほかならない。米国自動車産業の裾野は想像以上に広い。鉄鋼需要の二五%、アルミの二二%、合成ゴムの六〇%を占めるほか、プラスチック、繊維、鉛、ガラス、エレクトロニクスの巨大需要家である。  毎年四百億ドルの原材料が自動車メーカーによって購入され、石油の三四%が自動車の燃料として消費されている。米国では五人に一人が、自動車とその関連産業で働いており、生産、販売、修理を合わせると今なお国民総生産《GNP》の二〇%を占める。  隆盛を極めたその米自動車産業に大転換を迫ったのが、一九七三年(昭和四十八年)秋に発生した第一次石油ショックである。米政府はガソリン節約策として、まず七四年に自動車業界に対し八〇年までにそれぞれの社が生産する車の平均燃料消費量《CAFE》を約四〇%節約、具体的には、ガソリン一ガロン当たりの走行距離を十九・六マイル(一リッター当たり八・三三キロメートル)に改善するよう要請した。  続いて七五年にはエネルギー法に基づく燃費規制法を制定し、八五年までに各社の平均燃費を二十七・五マイル(十一・六九キロメートル)と日本車並みに引き上げることを義務づけた。基準値を下回れば台数に応じて罰金が科せられる。  当時GM車の年間生産台数は乗用車、トラック合わせて六百四十四万台。フルサイズカーの大型車とインターミディエットと呼ばれる中型車が全体の三分の二を占め、全車種の一ガロンあたりの平均燃費はわずか十二マイル(約五キロメートル)に過ぎなかった。厳しい燃費規制を達成するには、新たに小型車を開発するだけでは乗り切れない。GMが出した結論は、全車種にわたる大胆なダウンサイジング(小型化)である。  石油ショック発生以前の米国市場は、ビッグスリー=大型車、日欧メーカー=小型車の棲み分けが出来上がり競合関係は薄かったが、二度にわたる石油ショックで、市場の流動化は避けられなくなった。日欧が独占していた小型車市場にビッグスリーが参入しない限り、燃費規制は達成出来ないからである。その行き着く先は米国小型車市場を舞台にした日米欧のメーカーによる国際自動車戦争の勃発である。  ビッグスリーが八五年までの十年間に投下する研究開発と設備資金は、人間を月に送り込んだアポロ計画の三・五倍に当たる八百億ドル、GMだけで五百億ドルに達するとされた。フォード会長のコールドウェルはビッグスリーの小型車への転換計画を「平時における最も大規模かつ奥行きの深い産業革命」と表現した。  奥行きの深い産業革命が静かに進行していた一九八一年(昭和五十六年)一月一日、GMの十代目の会長にロジャー・スミスが就任した。スミスの会長就任はデトロイトでは数年前から周知の事実として受け止められ、前年の秋に正式発表された時も、自動車業界の話題を独占するということはなかった。  GMは伝統的に会長には財務畑、社長には技術畑の人が就任する。そして次期執行部のトップは前任の会長が指名するのが慣わしとなっている。スミスは前会長のトーマス・マーフィーに二十年間仕え、マーフィー会長時代は財務担当の執行副社長として、GMの政策決定に大きくかかわってきた。  マーフィーの最後の一年はGMにとって屈辱の年となった。七億六千二百万ドルの赤字を出したからである。赤字幅はビッグスリーでは最も少ないというものの、赤字転落はGMの歴史の中で初めてである。原因は小型車戦略の失敗にあった。  GMがダウンサイジングに着手したのは燃費法案が成立した七五年である。第一弾としてまず大型車のフルサイズカーと中型車のインターミディエットの小型化を進め、本命のコンパクトカーの分野では「インポート・ファイター(輸入撃墜車)」の先兵として『Xカー』と呼ばれるFF(前置きエンジン、前輪駆動)の新型小型車を開発する。  第二弾として世界のGMファミリー企業を総動員してサブコンパクトカーの『Jカー』をワールドカーとして世界各地で生産、最後に同じワールドカーの超小型車《ミニカー》の『Sカー』で仕上げるという壮大な計画である。  自動車を小型化する必然的な解決策が前輪駆動である。FFにすれば室内が広くなり、しかも重量が軽くなるだけでなく運転しやすくなるからである。ただしこの新機軸を導入するには莫大な資金が必要である。Xカー、Jカー、SカーはいずれもFF車で、生産・販売はそれぞれ年間百万台を超え、ことが計画通り運べば燃費規制は楽々と達成出来る。GMの米国でのライバルは資金面からとうてい太刀打ち出来ない。日本車メーカーもGMの計画に恐れをなしていた。GM自体、一連のダウンサイジングで燃費規制を達成すると同時に、小型車分野で世界市場を制覇する野望を持っていた。  滑り出しは順調だった。フルサイズカーはボディー全体を縮小したにもかかわらず、室内空間を従来以上に広くしたのが受けたことに加え、「スモール・イズ・ビューティフル」という燃費規制を逆手にとった卓越した宣伝と相まって、七七年型の大型車は飛ぶように売れた。  その代表格が新発売の『キャデラック・セビル』である。セビルは小型キャデラックの第一号として開発された車で、室内は従来のキャデラックと同じでありながら、重量は従来車に比べ三百キログラムも軽く、しかも車体は短い。この車は大好評を博し、GMはその余勢を駆って予定通り七八年型のインターミディエット(中型車)のサイズ縮小を計った。  セビルの好調は業績面にはっきりと出た。七七年はフルサイズカーを値上げしたこともあり三十三億四千万ドルの純利益を出し、続く七八年には史上最高の三十五億八千万ドルの利益を計上し、世界の企業ランキングでは国際石油資本《メジャー》のエクソンを抜き、売り上げ、利益の両面で世界最大の企業に返り咲いた。  GMは第二次石油ショック直前まで大型車の好調で好業績を謳歌していたが、他の二社は日本の小型車に押され苦戦を強いられていた。クライスラーの業績は急速に悪化、フォードは小型車『ピント』の欠陥問題が取り沙汰されていた。  GMのダウンサイジング計画に異変が生じたのはコンパクトカーの『Xカー』からである。この車の生産は設計と技術開発にそれぞれ五億ドル、生産設備に八億八千万ドル、オクラホマシティーの新工場建設に五億ドル、ニューヨークのノース・タリータウンをはじめとする既存工場の新規組み立て設備に五億ドル、宣伝費の三億ドルを含めると優に三十億ドルを超す巨大事業だった。三億ドルの宣伝費と言えばトヨタ、日産の一年間の総宣伝費を合わせた金額より多い。Xカーは一車種としては、GM史上始まって以来の最大のプロジェクトとしてスタートした。  このプロジェクトにはGMの五つの事業部のうちキャデラックを除く、シボレー、ポンテアック、オールズモビル、ビュイックの四つの事業部が参加した。GM初のFF方式を採用、燃費効率の向上を目指して新たに設計された排気量二千六百ccのエンジンが搭載されている。生産は月産十万台、年産百二十万台を計画した。Xカーは直ちに日本車には対抗出来ないものの、日本車の快進撃を食い止める足がかりにはなるとみられた。  米国自動車産業は十月が新年度入りで、新型車は八月末から九月後半にかけて投入するのが慣わしである。インポート・ファイターの期待を担った話題のXカーは業界の慣習を無視し、第二次石油ショックの真っただ中の七九年の四月に発売された。『ビュイック・スカイラーク』『シボレー・サイテーション』『オールズモビル・オメガ』『ポンテアック・フェニックス』の四車種である。  石油ショックという環境が幸いし、発売当初は生産が追いつかないほど売れ、爆発的なヒット車になると誰もが疑わなかった。GMはXカーを初のワールドカー、『Jカー』への橋渡し役の車と位置づけており、好調な滑り出しにひとまず安心した。Xカーは「第二十三回・東京モーターショー」にも展示され日本でも人気を呼んだ。  GMの再生を担ったXカーは順調なスタートを切ったかに見えたが、発売一年半後にして早くもつまずいてしまった。量産が進むにつれ品質に問題が出始め、八一年の四月にデトロイトの地元紙「デトロイト・フリー・プレス」にXカーのブレーキに欠陥があることを指摘されたのを機に騒ぎは大きくなった。同紙によると、品質面ではXカーの組み立て工場のレベルは、GMの工場の中で最も低かった。欠陥はリアブレーキがロックして車のコントロールがきかなくなる恐れがあるというものである。  原因はいずれもGMの体質にある。GMは消費者の聖書ともいうべき「コンシューマー・レポート」を永年、無視し続けて来たのである。GM車の品質とスタイリングはかなり前から酷評されていたが、各事業部のブランドイメージがあまりにも強く、多少品質に問題があっても売れ続けた。経営トップもそれに満足して、批判が出てもさしたる手直しもせず、超然たる態度を取ってきた。  だがXカーではこれが通じなくなっていた。連邦政府から欠陥車の回収命令が出され、GMは対抗上、法廷闘争に持ち込んだものの、その年の夏までに、標準トランスミッションを装備したXカーの八〇年型車四万七千台と、八一年型車の一部二十四万五千台をリコールせざるを得なくなった。  Xカーは七九年に六十万台、八〇年には九十万台ほど生産してGMの小型車路線のパイオニア役を果たしたものの、欠陥車騒動を機に人気と販売はがた落ちし、オメガとフェニックスは八三年モデル、サイテーションとスカイラークも八五年五月に生産を打ち切られた。GMが社運をかけて開発したXカーは、「ダウンサイジングの口火を切った」というだけの歴史的な使命を終え短期間で市場から姿を消した。  スミスが会長に就任した年に発売された初のワールドカー、『Jカー』も出だしから悲惨な運命を辿った。ワールドカーというのは複数の国で互換可能な部品を生産して組み立てる車である。  ワールドカーといえば聞こえはいいが、実情は消費国の実情を無視し、コストを抑える目的で作られた車である。JカーはXカーがベースとなっている。Xカーの欠陥を完全に直したことから、GMとしては大きな期待をかけていた。Xカーを大量にリコールしたのも、その後に切り札のJカーが控えていたからである。  Jカーは八一年の五月にベールを脱いだが、ユーザーの手に渡る前のディーラーの段階で類似車に対する不満の声が上がった。『キャデラック・シマロン』『シボレー・キャヴァリエ』『ポンテアック2000』『ビュイック・スカイホーク』『オールズモビル・フィレンツァ』と五事業部全部から売り出されたが、外観を除けばどれも代わり映えがしない。  メカニカルな面ではXカーのような致命的な欠陥はなかったが、Jカーが�羊の皮を着たXカー�であるのは専門家が見れば一目で分かる。五つのモデルの中で一番悪評を買ったのがシマロンである。キャデラック部門ではセビルは健闘していたが、事業部全体としてみれば第二次石油ショックの発生で大きな打撃を受けた。消費者は大型車の分野でも、BMW、ベンツといった燃費効率の良い外車に走り始めたことから、キャデラック部門としては小型で高速運転出来る車を欲していた。  GMはこうしたディーラーの要求に対し、Jカーの『シボレー・キャヴァリエ』を手直しして、多少高級感を持たせた車に『キャデラック・シマロン』という名前をつけて発売したのである。エンジンはXカーに使ったものを改良しただけだから、高速性能とはほど遠い。結果は消費者にソッポを向かれ、キャデラックの伝統と名声に泥を塗ってしまった。  Jカーは米国を皮切りに日本、西独など世界七カ国で生産したが、成功したのは米国製エンジンを使わずに、独自開発の回転数の速い四気筒、千八百cc、DOHCエンジンを搭載した西独アダム・オペルの『カデット』だけであった。オペルはJカーで成功し、欧州市場で復活のきっかけをつかんだ。  Xカーの欠陥車騒動、Jカーの評判の悪さ。スミス政権は前途多難を予想させた。スミスの会長任期は一九九〇年まで十年間ある。自分の任期中にどうしたらGMを再生させることが出来るか。Jカーの次にミニカーのSカーの投入が予定されていたが、XカーとJカーの目を覆いたくなるような惨状にスミスは自信を失いかけ始めていた。  Sカーの実物大のクレイモデル(粘土で作った模型)を前に、スミスは何度もささやいた。 「果たしてこんな小さな車で利益を上げることが出来るのだろうか」  こうした疑問は会長就任前からあったが、疑問は就任した後も消えることはなかった。     [5]  スミスはGMの会長に就任して一カ月も経たない一九八一年一月下旬、ロサンゼルスのビルトモア・ホテルで資本提携先のいすゞ自動車社長・岡本利雄との会談に臨んだ。岡本は米国の販売会社「アメリカン・イスズ・モータース」の創業式に出席するためロスに来ており、スミスがそこへわざわざ押しかけたのである。  殺風景なホテルの一室で行われた会談の席で、スミスは就任以来の疑問を率直に話した。 「いすゞはGMが求めている国際的なパートナーの役割を果たすには、自動車メーカーとしては小さ過ぎます。私はいすゞ自動車が果たして乗用車メーカーとして生き残れるかにも疑問を持っています」  その後でスミスは岡本が予想もしなかったことを言い出した。 「(GMとしては)できればホンダ(本田技研工業)を買収したいと思っている。それが不可能なら資本提携でも構わない。ついては岡本さんに仲介の労を取ってもらえないだろうか」  自動車業界で�寝業師�、時には�大森の怪人�と呼ばれる岡本も、このときばかりはスミス提案にびっくり仰天した。  大森というのは、東京・大田区にあるいすゞの本社所在地である。岡本が日頃、恐れていたのはGMがいすゞとの提携に満足せず、他の日本メーカーと手を組むことである。とりわけ岡本はGMの目が日本メーカーとして独自の道を歩むホンダと最大手のトヨタに向けられることを警戒していた。  スミスがホンダに目を付けたのにはそれなりの理由がある。GMがJカーの開発に際し、最も意識した車がホンダの小型車『アコード』である。  アコードの特徴はFFでコンパクトな車体、静かでパワフルな四気筒エンジン、五段変速のトランスミッション、一ガロン当たり三十マイルを超える燃費効率の良さ、一台四千ドルを下回る小売り価格である。Jカーはどれ一つ取り上げてもアコードに太刀打ちできない。発売前から勝負はあったも同然である。  GMが小型車で巻き返すには、ライバルと手を組むのが手っ取り早い。日本車メーカーとして、いち早く米国での乗用車工場の建設を表明した。そして生産車種として選んだのがGMが最も恐れていたアコードである。  ホンダは九一年八月に亡くなった本田宗一郎が戦後、浜松の町工場から世界一の二輪車メーカーに育て上げ、その勢いを駆って四輪車に進出した企業である。  創業者の本田宗一郎は常に大|法螺《ぼら》を吹くことで、従業員を叱咤激励した。経営の第一線を退き、後を託した若き経営陣が米国進出を決断した直後に言ったものである。 「GMだって昔から大きかったわけではない。将来、ホンダがGMを凌ぐ日がくるかも知れない」  何事にも物怖じせず、独立独歩の精神が企業の隅々までしみわたっている会社だけに、外資との提携に際しては相手企業に資本参加することはあっても、外部資本を受け入れるとは考えられない。  スミスがホンダの買収・提携を思いついたのは、この時期米国でも日本車の対米規制は避けられないという見方が既定の事実として受け止められていたからである。GM社内のアナリストは「輸出規制が実施されれば、早晩日本の設備過剰が問題となり、ホンダもその影響を受ける。したがって買収は困難でも提携は不可能ではない」という報告書をスミスに上げた。  しかしホンダ独特の社風とビヘイビア(行動様式)を知り尽くしている岡本は、スミスに合併はむろんのこと資本提携も難しいことを延々と説明して、これを断念させた。代わりに岡本は自らがGMの使者になって日本メーカーとの提携を斡旋することを提案した。  この時、岡本に腹案があったわけではない。苦し紛れとはいえ、岡本がこうした代案でも出さない限り、スミスはいすゞの頭越しで直接ホンダに提携を打診しそうな剣幕だったからである。  スミスの話を聞きながら岡本は、自らの企業の力に限界を感じ、「いすゞが協力できない分野でGMが他社と手を組むのは致し方ない」と半ばあきらめかけていた。  帰国後の新年記者会見の席で、岡本はGMの戦略転換を遠回しにさり気なく言った。 「GMと(いすゞ)の提携は、十年目を迎え、一応成功の道を歩んでいる。ただし今後、GMが商業ベースでいすゞ以外の日本メーカーと協力関係を結ぶこともありうる」  苦し紛れとはいえスミスと男の約束をした以上、それを果たさなければならない。岡本が寝業師ぶりを発揮するのには、それほど時間はかからなかった。最初に思い浮かべたのがトヨタ系列で軽自動車中心のダイハツ工業である。  岡本はGMとの長い付き合いで、GMが日本メーカーに興味を示したのは超小型車《ミニカー》、『Sカー』対策のためと睨んでいた。GMが安い部品を求めてダイハツをはじめとする日本の小型車メーカーに頻繁に見積もり依頼を出しているのも承知している。  トヨタは一九六七年(昭和四十二年)にダイハツを傘下に収め、一五%の株式を保有して筆頭株主として君臨している。このトヨタが所有しているダイハツ株をGMに譲渡してもらえば、GMとダイハツの提携はスンナリ実現する。  岡本はトヨタやダイハツに直接提携を申し込む前に、周辺の関係者に打診したが、いずれも「トヨタはダイハツ株を手放す気持ちはさらさらない」という否定的な回答ばかりだった。可能性のない企業に提携を持ち込んでも、岡本がピエロになるだけである。こうしたことからダイハツとの提携は早々と断念した。  次に顔を浮かべたのが自動車業界で�パンダ�のニックネームを持つ鈴木自動車工業(現スズキ)社長の鈴木修である。スズキは軽自動車の専業メーカーで、修の言葉を借りれば、「自動車業界の中小企業」だが、高度な小型車技術を持っているにもかかわらず、どの系列にも属していない。軽専業から脱却して小型車メーカーとして発展するには、米国販売は欠かせない。  だがいかんせん小型車の最後発メーカーでは、米国で独自の販売網構築もままならない。無理して巨額の資金を投じて販売網を築いても対米輸出規制が避けられない情勢の中で、実績のない会社へ輸出台数を割り当てしてもらえる保証はない。  岡本は梅が咲きはじめた頃、浜松市郊外にあるスズキ本社に鈴木修を訪ね、恐る恐る提携を切り出した。 「(いすゞは)GMと資本提携して十年になるが、GMという会社はとにかくこちらの経営の自主性を尊重してくれる。GMグループの中に入って一緒に小型車を開発してみる気はありませんか」  修は即答はしなかったものの頭の中では、「次の飛躍をはかるには米国進出は欠かせない。GM提携はまさに渡りに船。相手にとって不足はない」と素早く計算し、提携の肚《はら》を固めた。交渉はトントン拍子で進み、春先の打診から半年も経たない八月には、GMがスズキに三%出資することで基本合意した。GMにとってスズキとの提携は、Sカーの生産を中止した場合の保険である。  GMが一九八五年に発売を予定していたSカーは、全額出資の子会社・西独オペルが開発した欧州仕様とシボレー事業部が開発した米国仕様の二車種ある。いずれもFF方式で、大人四人がゆっくり座れるスペースを確保してあるのが特徴である。  欧州仕様は排気量千ccのエンジンを搭載、三ボックスのノッチバックと二ボックスのハッチバックの二タイプ、米国仕様は三気筒千三百ccエンジンでハッチバックのみである。ただし米国仕様にはいすゞが開発したディーゼルエンジン車もある。  Sカーはいってみればトヨタの小型大衆車の『カローラ』や日産の『サニー』より一回り小さく、ダイハツの『シャレード』に酷似した車である。  オペルはすでにオーストリアにエンジンとトランスアクスル(車軸と変速機の一体部品)工場、スペインに組み立て工場の建設を始めていた。欧米合わせた年間生産台数は百万台である。 「果たしてSカーに巨額の資金を投じても、予定通り利益を上げることができるだろうか。下手をすれば投資資金すら回収できず、XカーやJカーと同じ運命を辿るのではないか」  スミスの頭の中ではこうした懸念が日増しに強くなっていった。  七月十三日、スミスはいすゞとの提携十周年記念式典に出席するため、GM会長として初めて日本を訪れた。GMといすゞは十六日に記念式典を終え同夜、東京・虎ノ門のホテルオークラで盛大なパーティーを開いた。  そのパーティー会場にはわずか二週間前にフォードとの提携交渉を白紙還元したトヨタ自動車工業社長の豊田英二、日本自動車工業会会長を兼ねる日産自動車の石原俊をはじめ自動車業界のトップが大勢かけつけた。ホテルが用意した揃いのハッピを着たスミスと岡本の二人による鏡割りが終わり、宴たけなわになった頃を見計らってスミスは自分の方から日本メーカーのトップに近づき、愛嬌を振りまいた。周りに新聞記者がいるせいか話の内容は他愛ないものばかりだが、スミスの目は猟犬が獲物を狙うように光っていた。  スミスは日本に来て、小型車の分野でGMは日本車に太刀打ちできないことを肌で感じた。帰国後、念のため社内で日米のコストの比較調査を命じた。具体的には提携先のいすゞがSカーを作るとすればいくらかかるかである。  六週間かけた調査結果は九月下旬に出来たが、それを見てスミスは愕然《がくぜん》とした。Sカーの総コスト五千三百七十一ドルに対し、それに対応するいすゞのコストはわずか二千八百五十七ドルと約半分でしかない。これでは最初から相撲にならない。Sカーは作れば作るほど赤字が膨らむだけである。  日米コスト差は単に直接、間接の人件費の違いだけではない。GMはバイ・アメリカン(米国製品優先買付け)の思想を色濃く残しており、日本のメーカーとは逆に部品の約七割を自社生産している。それぞれの部品事業部に甘えがあり、コストが高くしかも品質も悪い。部品の歩留まりを計算すれば日本では信じられないような高い値段になってしまう。プレスも日本では組み立てラインの前で必要な数だけ打ち、直ちにラインに流すのに対し、GMはプレスの専門工場で集中して打ち、それを組み立てて工場まて運んでくるので輸送コストがかさむ。その他医療保険までもろもろの違いを積み上げると、最終的にこれだけの差となる。  世界最大の自動車メーカーである自分の会社が、ミニカーどころかサブコンパクトカーでも日本車との競争の土俵にすら上がれないという事実を、否が応でも認めざるを得ない。  数字は冷酷である。スミスは日米のコスト比較調査を前に呟いた。「これだけコスト差があっては勝負にならない。Sカーの生産は中止せざるを得ない……」  だが現実的な対応策を出さない限り、小型車そのものからの撤退を余儀なくされる。スミスは苦渋の決断を下した。 「日本メーカーが性能、品質の両面で我々より優れた自動車を低コストで作れる現実を残念ながら認めざるを得ない。日本車に対抗するにはGMのパラダイムを根本から変える必要がある。小型車分野で主導権を握るには発想を転換させ、いすゞやスズキよりもっと力のある日本企業を取り込むことが必要だ。日本車との本当の勝負はそれからでも遅くない」。  スミスは十月二十日に開いた経営執行委員会に、自らが下した決断を示した。Sカーの米国生産の無期延期と新たな日本メーカーとの提携模索である。経営執行委員会は予想通り大議論になった。スミスは会長に就任するまで日本車および日本メーカーに根強い反感を持っていた。しかしここまで追い詰められると、こうした考えは捨てざるを得ない。  経営執行委員会の大半のメンバーは、かつてのスミス同様、日本車に根強い反感を持っている。スミスの提案した日本メーカーとのさらなる提携に対し、反対論者は「日米のコスト分析調査は誤っている。Sカーは日本車と十分競争できる。したがってこれ以上日本メーカーと提携する必要はない」と述べ立てた。  しかしスミスは一歩も譲らず、メンバーの批判をかわしながら、強引にSカーの生産中止を決定した。ただしこの日の決定を外部へ公表するのは、当分見合わせることにした。  デンソー専務の田邊守が旧知のGM執行副社長のジェンセンにトヨタとGMとの共同生産を持ちかけたのは、フォードとの交渉が暗礁に乗り上げていたこの年の二月だが、この情報は公式ルートでは社内に上がっていない。むろんスミスが「日本車メーカーとの提携を模索する」といっても具体的な会社を思い浮かべていたわけではない。  フォードとの提携交渉を白紙還元して米国進出の糸口を失ったトヨタ。Sカーの米国生産中止を決め、日本の力のあるメーカーとの提携を模索するGM。日米トップ企業を結びつける機会は意外に早く訪れた。 [#改ページ]    助  走 [#改ページ]     [1]  第一回東京モーターショーは、日本経済が戦後の復興から立ち上がり、高度経済成長時代に突入する直前の一九五四年(昭和二十九年)に皇居のお濠ぞいの日比谷公園で開かれた。一回目から異常な人気を呼び、第六回目からは会場を晴海の国際貿易センターに移した。  第一次石油ショックまでは毎年開催されていたが、省資源ムードの中でその後、二年に一度の開催となった。日本車の評価は石油ショックを機に世界市場で高まり、回を追うごとに国際色も豊かになり、いつのまにかフランクフルト、パリと並ぶ世界の三大自動車ショーにのしあがった。  第二十四回の東京モーターショーは、「よりよい暮らし、確かなくるま」をテーマに一九八一年(昭和五十六年)の十月三十日から十二日間の予定で開かれた。  最終日の十一月十日の昼下がり。東京・虎ノ門、ホテルオークラ本館の日本食レストラン「山里」に三人の男が現れ、そのまま予約しておいた和室に入った。一人は六十過ぎの銀髪の品の良さそうな紳士。残る二人は四十代半ばと三十代半ばのエリートビジネスマン風の男である。  銀髪の紳士はトヨタ自動車販売常務の神尾秀雄。四十代半ばのビジネスマンは米国伊藤忠商事副社長のジェイ・W・チャイ。もう一人の男は二人の共通の友人である。神尾とチャイはこの時が初対面である。  三人が座敷に座ったところで、銀髪の紳士が自己紹介を兼ね口火を切った。 「私は三重県の出ですが、叔父の実家が名古屋で織物事業をしており戦前、伊藤忠さんとも取引をしていました。叔父の実家の大将は豊田英二社長の親父さん、つまりトヨタの始祖・豊田佐吉の弟の平吉さんと仕事仲間だった関係で、私は英二さんを昔から知っていました。また戦争中にインドネシアで知り合った伊藤忠の杉原滋好さんは、戦後ニューヨークに駐在し、私と同じように国際結婚しました。こうしたことから私は伊藤忠さんには、個人的に親しみを持っているのです」。 「杉原さんですね。アメリカで国際結婚して米国籍を取り、短期間ですが本社の役員も兼ねていました。今は仕事からは完全に離れていますがお元気で、時々オフィスにも顔を出します。あの人たちが今日の米国伊藤忠の基礎を作り上げたのです」  四十代半ばのビジネスマン風の男は親しみをこめて流暢な日本語で返事をした。やや角張った顔に茶色のフレームの眼鏡をかけている。顔付きや仕種はどう見ても日本人である。テーブルに出された和食も器用に箸を使って口に運んでいる。  話は自己紹介から世間話に移り、話題は自然と自動車問題に入っていった。  神尾はいすゞ・GM提携の実質的な立役者であるチャイの存在は、取引先の伊藤忠の自動車部の人から聞いてはいたが、話をしているうち米ビッグスリーの内情どころか、日本のみならず世界の自動車業界に精通しているのに、正直驚かされた。  神尾がトヨタに入社したのは、太平洋戦争前の一九四〇年(昭和十五年)で戦後、工販の分離とともに自販に移り、これまで輸出畑一筋を歩いてきた。�販売の神様�と崇められていたトヨタ自販社長の神谷正太郎と肌が合わず、課長から次長に昇格する時に、インドネシアの国営石油会社、プルタミナとトヨタ自販が中心となって設立した「ジャパン・インドネシア石油」の経営方針を巡り意見が対立、いったん昇格の辞令をもらいながら、神谷の鶴の一声で課長に据え置かれた苦い経験を持っている。  神谷に疎まれたこともあり、役員になったのは一九七六年(昭和五十一年)秋、加藤誠之が社長になってからである。この時、神谷は病床に臥《ふ》せっていたが、新任役員名簿を見て加藤に「おれは神尾だけは役員として絶対に認めない」と言った逸話がある。だが、加藤は神谷の反対を押し切って起用した。神尾は期待通り役員になってからメキメキと頭角を現し、自販では輸出に関し自工とのパイプ役を果たしていた。  トヨタは一九五〇年(昭和二十五年)の工販分離以降、生産は自工、国内販売と輸出は自販という具合に業務が分担されたが、こと現地生産を含む海外事業は自工の専権事項になっている。自販が市場調査を進め、具体化した段階で自工が乗り出すのである。  海外戦略について工販の基本認識が一致していれば問題はないが、先進国での現地生産については、貿易摩擦が激化していたその当時、両社の不協和音が目立ち始めていた。加藤や神尾が推進する海外生産プロジェクトに自工がなかなか重い腰を上げないのである。  米国進出は単独ではなくフォードとの合弁生産の道を選んだが、一年余の交渉の末あえなく頓挫してしまった。自工はその後、米国進出を具体化させる動きはない。  欧州でも加藤と神尾が中心となり、スペイン最大の自動車メーカー、セアトと乗用車の合弁生産を計画、自工を引きずり込んで現地調査を進め、現地政府からトヨタに有利な条件を引き出し、提携直前までこぎつけたが、最後は自工の「ソロバン勘定に合わない」という近視眼的な判断でつぶれてしまった。その後、西独フォルクスワーゲン《VW》がトヨタより悪い条件でセアトを買収してしまった。  工販の不協和音を解消する目的で、その年の六月末に自販の新社長にトヨタの創業者、豊田喜一郎の長男である自工副社長の豊田章一郎が就任した。工販一体運営はスタートしたが、具体的な海外案件といえばライバル日産と競っている台湾の乗用車プロジェクトだけである。この時期、摩擦解消に向けてトヨタの海外戦略は完全に手詰まり状態にあった。  神尾は思い切って尋ねてみた。 「加藤さんは戦前、日本GMにいたこともあり、GMには非常に愛着を感じています。GMはいすゞに続き、この夏にはスズキと資本提携しました。こうした中でGMがさらにトヨタと手を結ぶ可能性があるのでしょうか」  食べ物に口をつけずに黙って神尾の話を聞いていたチャイは、トヨタの真意を探るような質問をした。 「GMと手を結びたいということですが、何か腹案でもあるのですか」 「はっきりいってGM提携といっても雲をつかむようなものです。私の担当は海外部門ですから、海外で何か共同事業をやれないかと考えています。私個人としては韓国に興味を持っています」  トヨタは一九六六年(昭和四十一年)、前年に日韓基本条約が発効したのを受けて韓国の小型車メーカー、新進自動車と技術提携して、小型乗用車『コロナ』のCKD《コンプリート・ノックダウン》生産を始めた。その後生産車種を中型乗用車の『クラウン』、トラック、バス、四輪駆動車の『ランドクルーザー』、小型大衆車の『パブリカ』と広げた。  生産台数も年々増え続け、六九年(四十四年)には、一万八千台を記録、韓国市場はトヨタにとって世界で五番目に大きい輸出国となった。ところが七〇年(四十五年)に突然中国から台湾と韓国との取引を制限する「周四原則」(周恩来首相が提唱)を突き付けられ、最終的にトヨタは中国を選び、七二年十月、新進自動車と提携を解消して、韓国から撤退すると同時に、翌七三年一月には国交断絶を見越して台湾の六和汽車公司との提携も解消してしまった。  台湾については中国との関係が最悪期を脱し、八〇年(昭和五十五年)に入って当局が工業の近代化と輸出産業の育成を狙い、現地資本と外国メーカーの合弁による乗用車工場建設の方針を打ち出した。トヨタも名乗りを上げており、受注する可能性が高かった。残るは韓国である。 「私は米国人といっても韓国系です。韓国で生まれ、韓国で育ち、韓国の大学を出て、米国の大学に留学しました。その後、親兄弟も米国に移住しました。日本語を話せるのは戦前、小学校で日本語の教育を受けたからです。私は現在、縁があり米国伊藤忠で働いていますが、韓国には大勢の友人や知人がおり、政府、企業の要職に就いています。トヨタが韓国で事業を展開したければ、いつでもそれらの人を紹介します。  GMは大宇財閥と一緒に、セハン自動車(後に大宇自動車に社名変更)を設立し、五〇%出資しています。しかし、正直言って手を焼いております。もしトヨタがGMの持ち株を肩代わりする意思があるようでしたら、いつでも仲介の労を取ります。  ただせっかくGMとの提携を考えるなら、海外というより米国での事業を検討した方が効果的ではないでしょうか。フォードとの提携交渉はダメになったようですが、私の見るところ、トヨタはまだ単独で対米進出する決断がつかない。  これは私の個人的な見解ですが、世界の自動車メーカーがいがみ合う時代は過ぎました。むろん今後とも健全な競争はしなければなりませんが協調も必要です。メーカー同士のつまらないいがみ合いを終わらせるには、世界最大のGMと第二位のトヨタ、いわば日米のトップ企業が手を握ることが必要なのかも知れません。  ただGMもトヨタも日米を代表すると同時に、世界に冠たる巨大企業です。提携ともなれば米独占禁止法の壁を乗り越えなければなりません。民主党のカーター政権ならこの組み合わせは一〇〇%無理ですが、民間企業の活力を引き出すことをスローガンにしているレーガン政権下でなら可能性がないとはいえません。今、米国の製造業は疲弊しています。再生させるにはレーガンならずとも、独禁法を弾力的に運用せざるを得ないでしょう。  もしトヨタに本当にGMと提携する意思があるなら、どういう形なら独禁法に抵触しないか、私なりに一度考えて見ます。また自工の豊田英二社長でも自販の豊田章一郎社長でも、トヨタのトップがGMのスミス会長に会う意思があればいつでも会談をセットします。トップ同士が膝を交えて率直に話し合えば、そこから何かが生まれるかも知れません」  チャイは日頃の持論を交え一気に喋った。むろんこの時、GMが十月の経営執行委員会で『Sカー』の米国生産を中止すると同時に、力のある日本車メーカーとの新たな提携を模索する方針を打ち出したことは知っていたが、彼の頭の中にはまだGMとトヨタを結びつける考えはなかった。  チャイはGMと付き合い始めてからすでに十年以上になる。キッカケはいすゞとの資本提携交渉だが、大学ではバイオテクノロジーを学んだにもかかわらず、数字を読むのが趣味というだけあって、八歳年上で財務畑出身のロジャー・スミスとは妙にウマが合った。日本で生活したことはないが、日本人以上に流暢な日本語を話すことから、GMのトップが来日する時には必ず通訳として同行した。  スミスは日本人でない学者然とした日本の商社マンの行動を十年間見続けており、この夏には、彼に小型車の日米コスト比較調査を依頼した。この調査がSカー生産中止の直接の引き金になった。スミスをして「チャイ君はGMの人間以上にGMのことを考えてくれている。こと日本に関しては彼に任せておけば安心」と言わしめるほど信頼されていた。  事実、こと日本に関する限りこれまで、チャイの判断に間違いはなかった。チャイはGMから個人的に金銭的な報酬を得ていない。報酬といえばGMの仕事を多少米国伊藤忠に回してもらうことぐらいである。  スズキとの資本提携の際は、いすゞ社長の岡本利雄が黒子役として登場したが、陰ではチャイが全部仕切ってまとめ上げた。チャイの力はスミス以上に岡本が評価しており、社長に就任してからはチャイが来日するたび、「副社長待遇の非常勤取締役になってほしい」と要請していた。ただし彼にはその気は全くない。  極端なのは渉外事業を統括するGMOC《GMオーバーシーズ・コーポレーション》の執行副社長で、いすゞの副社長も兼ねるヘンリー・レナードである。チャイが来日すると毎日のようにホテルに電話をかけてきて、GMの本社に上げる書類の書き方まで相談するのである。  遅い昼食を挟んで二時間ばかり話しただけだが、帰り際には十年来の知己のような仲になっていた。二カ月後にチャイがいすゞの株主総会に合わせて再来日する時までに、お互いに共同事業のアイデアを考えておくことを約束して別れた。この時、神尾六十一歳、チャイ四十七歳である。     [2]  神尾秀雄はチャイと会った翌日、会長の加藤にチャイとGM提携について意見交換したことを報告した。加藤は神尾の話が終わると、しみじみと語った。 「私はGMとの提携についてこの二十年間、耳にタコが出来るほど英二君に言い続けてきた。英二君も独禁法さえなければ、理想的な組み合わせであることは百も承知している。客観的に見た場合、GM提携はGMの赤字業績が今後十年間続くか、それともトヨタが倒産寸前まで追い込まれない限り無理だ。仮にそうした状態で提携すれば、それは不幸な提携といわざるを得ない」  しかし神尾は一歩も譲らない。チャイが言ったことを今度は自分の言葉として話した。 「会長、世の中は刻一刻と変化しています。今や過去の常識が通用しない時代です。レーガン政権が本気になって米国経済を立て直そうとすれば、独禁法を弾力運用せざるを得ないのではないでしょうか」  独禁法の厚い壁があるものの、神尾は加藤の持論が「GMと仲良くすることが、トヨタの繁栄につながる」ということを知ったうえで話している。加藤にすればGMは八〇年不況で赤字に転落したとはいえ開発能力、生産設備、販売網のどれを取り上げても、トヨタより一枚も二枚も上である。トヨタは国内に限った生産台数ではフォードを抜いて世界二位になったものの、一位のGMとの間には厳然とした格差がある。なんといってもGMの潜在能力は怖い。  GMとだけは喧嘩したくないという思いから、加藤は歴代のGMのトップには手紙を出し続けている。この春もGMのスミスが会長就任早々、米国の新聞で「米国車が日本で売れないのは、日本が非関税障壁を設けているからだ。排ガス規制一つ取っても、日本のやり方は汚い」と発言したのをとらえ、スミスに手紙を出した。古巣の会社のトップが間違った日本観を持っているとすれば、それを正さなければならないという正義感からである。  神尾はその後も加藤と顔を合わせるたびGM提携の必要性を説いた。加藤がその気にならなければ、具体化しないからである。十二月に入り再び説得にとりかかった。 「GM提携は何も米国での共同生産だけではありません。合弁事業を考えるからいつも独禁法の壁に突き当たり、それから先に話が進まないのです。提携は部品の供給でもいいし、海外プロジェクトでの協力でもいい。たとえば韓国でGMは相当手を焼いているようだし、何ならそこでの関係構築を模索してもいいのではないですか。要は最初に提携という�形�をつくることが必要なのです。その前に誰かが提携の道をつけなければならない」  執拗なまでの神尾の説得に加藤は少しずつ心が揺らぎ始め、十二月半ばになって法務部の責任者に米独禁法の研究を命じると同時に、神尾に「君には負けた。年が明けたらダメもとの気持ちで米国に行ってくる」と笑いながら言った。  加藤が米国へ行くというのは、デトロイト行きと同義語である。ただし加藤といえども、デトロイトに行き、勝手にGMのトップに会うわけにはいかない。事前に豊田英二の了解を取らなければならない。  トヨタは十二月十六日に東京で自工と自販が出資して設立した米国の現地販売会社、米国トヨタの決算役員会を開き、その翌々日の十八日に、八十三歳で天寿をまっとうしたトヨタ自販名誉会長・神谷正太郎の一周忌の法要を営むことにしている。加藤がわざわざ豊田市の自工本社に足を運ばなくても、東京で英二に会い了解をとるチャンスはいくらでもある。  米国トヨタは十二月期決算だが、例年十二月末を待たずに数字を締め、この時期に日本で決算役員会を開く。米国トヨタの役員は一時帰国し決算取締役会を終えれば、非常勤取締役として米国トヨタの役員に名を連ねる大株主の自工、自販の幹部を前に米国市場の最新動向を報告する慣わしになっている。  現地の経営幹部はその報告会で、「日米自動車摩擦は日本側の輸出自主規制で決着したものの、長期的に見れば問題を先送りしただけで、いずれ間違いなく再燃する。客観的に見てトヨタの対米進出は避けられない」と本社に進出の決断を促した。  翌々日の十八日夕刻、ホテルオークラで神谷の一周忌が厳かに執り行われた。トヨタOBを交えた歓談も終わり、三々五々《さんさんごご》ホテルを後にしたが、英二は加藤と自販社長に転出した豊田章一郎、それに自工会長の花井正八の三人を別室に呼んだ。戦前戦後を通じて苦楽を共にしてきたトヨタの最高幹部を前に英二は普段通り、言葉を選びながら話し始めた。 「神谷さんの一周忌も無事済んだ。前から考えていたことだが、これを機に工販を一緒にしたいと思っています。合併の時期は経営環境の推移を見ながら考えます。従ってまだここだけの話にしてください」  英二は相談というより、決断に至るいきさつを説明して賛同を求めたのである。  トヨタは一九五〇年(昭和二十五年)の春にドッジラインによるデフレ政策の影響で深刻な不況に陥り、倒産の危機に瀕した。それを回避する手段として銀行の手によって生産と販売が無理やり分離させられた。自販の初代社長は神谷で、加藤も神尾も神谷とともに自販に転籍した。当時自工の社長だった豊田喜一郎は、労働争議の責任をとり工販が分離したのを見届けて辞任、トヨタの将来はその後�トヨタ中興の祖�とされる大番頭の石田退三に託した。  英二はすでに生産担当の取締役に就いており、工販分離が決まった直後、神谷に「トヨタは工販に分かれても人事の交流だけは積極的にやり、一体運営を推進しましょう」と提案した。  神谷は原則としてこれを了解したが、この時「自販は何もないところからはじめる会社です。とりあえず販売関係の人間は原則全員自販に移ってもらい、軌道に乗った時点で順次自工に帰ってもらう」と逆提案してきた。英二はこれを受け入れたがその後、神谷は交流どころか一時的に自販に出向した自工の技術者さえ戻そうとしなかった。  工販合併が浮上したのは、一九六七年(昭和四十二年)十月、英二が三井銀行出身の中川不器男の急逝で自工の五代目社長に就任し、ようやく社長業が板についた六九年(四十四年)である。東京オリンピック後の�四十年不況�から脱し、この頃から輸出が本格化し海外の代理店も増えてきたが、代理店契約は自販が結んでいた。国内のディーラーは不幸な工販分離の経緯を知っており、仕事の面で支障はないが、海外のディーラーは自工が作った車を売るのに、契約は自販という仕組みがどうしても理解出来ない。  一時、輸出を自工に一本化することも検討したが、英二はそうした面倒な手続きを踏むより一気に合併を考え、神谷に言い出すタイミングを計っていた。 「そろそろ会社を一本化することを考えませんか」  英二はトヨタの将来を見据えて、神谷に遠回しに合併を打診したが、神谷の返事は「ちょっと待ってほしい。考えておく」という曖昧なものだった。この時期、モータリゼーションが急進展し、自販にも力がつき、神谷は社内で「工販は車の両輪、したがって両社は対等の関係にある」と説き、社員を叱咤激励していた。  合併後の新会社では神谷会長、英二社長が順当な線だが、英二は合併を実現させるため百歩譲って神谷が社長となり、自らは副社長に甘んじることさえ考えていた。だが神谷の曖昧な返事で英二は「神谷さんの健在な限り合併は困難」と判断、その後一度も催促しなかった。自販は神谷の高齢化と共に�神谷商店�化していくが、神谷の功績を考えると英二といえども文句をつけづらい。といって英二が合併を諦めたわけではない。目先はともかく虎視眈々と機会を狙っていた。  そのチャンスがようやく巡って来た。神谷は一九七六年(昭和五十一年)に会長に退き、七九年に名誉会長となり経営の第一線から退いたが、�販売の神様�も高齢と病には勝てず、最後は意思表示もなく、翌八〇年(五十五年)の十二月二十五日のクリスマスの日に帰らぬ人となった。  この時、英二は「今をおいて合併の時期はない」と自分の胸の中で最終決断した。  彼は焦りを感じていた。工販が分離して三十年も過ぎると、自販に入社した人がそろそろ退職の時期にさしかかる。一方で分離前のトヨタを知る人は次々と去ってゆく。自販の社員の中には、年々自動車会社に入ったというより、自動車の専門商社に入ったという感覚の人が増えてくる。工販の不協和音はこうした感覚の違いも一因となっている。  トヨタの最高幹部の了解をとった英二は数日後、トヨタの最長老で戦前、日本GMから神谷を引き抜いてきた元監査役の岡本藤次郎の自宅を訪れ、工販合併の具体化を報告した。岡本は一八八九年(明治二十二年)生まれで九十二歳と高齢だが、当時はまだかくしゃくとしており、「それは良かった」と心から喜んでくれた。  トヨタ工販の合併は英二のみならず、岡本藤次郎をはじめとするトヨタ長老に共通した悲願である。トヨタ自販会長の加藤誠之には「私の目の黒いうちに……」という強いノスタルジアがある。トヨタ自工会長の花井正八も「晩年の神谷さんの公私混同経営を断ち切るには、工販合併しかない」という思いが強かった。  加藤と花井の二人は英二の工販合併に対する執念を、その年の六月末に神谷を師と仰ぐ自販社長の山本定蔵をわずか一期二年で強引に相談役に退かせ、後任に自工副社長の豊田章一郎を送り込んだ人事を見て肌で感じた。  英二が章一郎の自販社長就任に際して出した注文は、たった一つ。 「人事の面から工販合併が可能かどうか早急に結論を出してください」  章一郎は早い段階で「合併は可能」との報告書を上げている。  しかしそれから半年も経たずに英二の口から直接�合併�という言葉を聞くとは思ってもみなかった。加藤も花井も合併を知らされたのは、神谷の一周忌の日が初めてである。 「英二君がこの時期、工販合併の意思表示をしたのは、国際小型車戦争が本番を迎え、工販の一体運営が欠かせないと判断したからだろう。フォードとの提携が破綻した今、早急に次の手を打たなければならない」  加藤は神谷に尻を叩かれ、年明けにもデトロイトに行く肚《はら》を固めていたが、英二の話を聞きながら、訪米の時期を早めることを考えていた。  訪米の名目はすぐ思いついた。女子プロテニスの「トヨタ世界選手権」である。トヨタは数年前からこの試合の公式スポンサーになっている。シリーズの最終戦は数日前からニュージャージー州のラザフオードで開かれており、二十日が最終日である。  テニス好きの加藤は毎年、表彰式に出席して優勝者にトロフィーを手渡すのを楽しみにしている。今年は年末の日程が立て込み、出席するかどうか迷っていたが、英二から工販の合併構想を聞いた段階で、米国行きを決意した。  トヨタ首脳に共通しているのは、決断するまではもたもたするが、いったん決断すれば行動が早いことである。加藤もその例にもれず、ホテルオークラで執り行われた神谷の一周忌の帰り際、英二の耳元で「女子プロテニスの表彰式の後、ふらりとデトロイトに寄ってGMに行ってきます。ついてはスミス会長宛てに簡単な親書を書いてください」と囁いた。  むろんこの時、英二はまだ加藤の真意を知らない。加藤は翌十九日は朝出社するなり、神尾を自室に呼び寄せてスミスGM会長との会談のアポイントを取るよう指示しただけで、細部の打ち合わせのないまま英二の親書を携え、夕方には成田から一人でニューヨークに向かった。  加藤は事態の進展の早さに自分ながら驚いていた。米国トヨタの決算役員会の前日の十五日の夜、都内のホテルで開かれた新聞記者との忘年会の席で、周りを取り囲んだ記者を前に酒の勢いに任せて怪気炎を上げた。 「来年は新聞の一面トップを飾る記事がトヨタ関係だけで二つはある。とにかく忙しい年になる」  別に根拠があってのことではないが、漠然と思ったのは対米進出と工販合併である。それを聞いた新聞記者は色めき立ち、さかんに内容を聞き出そうとしたが、加藤は「それは来年のお楽しみ。来年のことをいえば鬼が笑う」とおどけてみせ、周りの記者を煙に巻いた。英二の口から工販合併を聞かされたのは、その三日後である。     [3]  米国東部時間の十二月十八日の夕方、チャイは仕事を終え帰り支度を始めていた時、トヨタ自販の神尾から電話をもらった。 「加藤会長がきょうの夕方の飛行機で米国に飛びます。ついては訪米中にスミス会長との会談をアレンジしてください」 「分かりました。会談はトヨタの希望する線で実現するよう努力してみます。ただしGMは官僚的な会社ですから、同じことをGMOC《オーバーシーズ・コーポレーション》の執行副社長でいすゞ自動車の副社長を兼ねるヘンリー・レナードにも伝えてください。レナードはクリスマス休暇を利用して、現在米国に帰省しています。彼の居所はGMOCの日本の事務所に聞けばすぐ分かります。私は夕食の約束があるのでこれから出かけますが、日程については自宅に帰ってから連絡します」  チャイがレナードから連絡を受けたのは、自宅に帰った直後の夜九時過ぎである。舞台裏を知らないレナードは電話口で興奮気味に言った。 「トヨタ自販の加藤会長がスミス会長に会いたいと言ってきました。用件は分かりませんが、出来れば二十一日に会談をセットしてほしいというのがトヨタの要望です」  この日、GM会長のスミスはレーガン大統領に自動車産業の窮状を訴え、併せて燃費規制の緩和を求めるためフォード会長のコールドウェルやクライスラー会長のアイアコッカとともにワシントンにいた。大統領と会談後、議会関係者とディナーを終え、ホテルに戻ってきた直後にチャイから電話が入った。  チャイは用件を手短かに話したが、スミスの口からは戸惑いの声が出た。 「加藤さんは年の瀬の忙しい時期に一体、何の用でデトロイトまで来るのか。私は明日からクリスマス休暇を取ることにしているが、君が会った方が良いというのであれば、休暇を返上して会うのはやぶさかではない。とにかく早急にトヨタの真意を探ってくれ」  GM提携に向け、神尾が加藤を説得していることはチャイも知っていた。加藤の訪米は年明けと聞いていたが、なぜ早まったのか。チャイ自身、トヨタとGMの提携は、まだ漠然としか考えていなかっただけに、電話口ではスミスに対し、加藤に会うよう仕向けるのが精一杯だった。ともかく会談は二十一日、午後三時から一時間。場所はGM本社の会長室で行うことが決まった。  スミスとの長電話を終え、レナードを通じてトヨタに会談の日取りについての連絡が終わった頃、再び神尾から電話が入った。 「加藤さんは今朝になって突然、米国に行くと言い出したのです。ご迷惑をかけました。ただし社内の動きからみて加藤さんがスミス会長に会った時、提携の具体案を出すことはないと思います。目的は提携に向けてのいわば環境整備です」  表敬が主目的だが、内容がどうであれ形の上では提携に向けての第一歩にしなければお互いに忙しい時間を割いて会う意味がない。チャイはこの時初めて両社の提携は「ひょっとしたら、ひょっとするかも知れない」と胸を躍らせた。  この夜、チャイはベッドの中で眠れないまま提携の具体策を考えてみた。独禁法は提携が具体化した時の問題として、考えられる事業は七つある。  ㈰GMが所有している韓国・セハン自動車株をトヨタが肩代わりする  ㈪GMがダイハツへ資本参加する  ㈫トヨタがGMに部品を供給する  ㈬GM車をトヨタが日本で組み立て生産・販売する  ㈭GMの遊休工場をトヨタが買い取り、そこでトヨタ車を生産する  ㈮トヨタがGMに完成車をOEM(相手先ブランドによる生産)供給する  ㈯GMとトヨタが米国で合弁生産する  スミスと加藤の会談まであと二日しかない。チャイは十九日と二十日はトヨタの年次報告書、有価証券報告書、トヨタ車の製品カタログ、工場案内、各工場の生産能力などトヨタに関するありとあらゆる資料を取り寄せ、自分で分析して整理した後、二十一日の昼前にデトロイトに電話をして、スミスにトヨタに関する最新事情を説明した。  そして最後に一言付け加えるのを忘れなかった。 「トヨタにはGMと提携する意思があります。加藤さんからは具体的な提案はないかも知れませんが、恐らく『GMと仲良くしたい』と抽象的言い方をするでしょう。その一言だけで、提携の足がかりになります。それを心得て対応してください」  十二月二十一日の夕刻、チャイはニューヨーク・マンハッタンのPAN(パン・アメリカン航空)ビルの近くにある米国伊藤忠商事の副社長室で、デトロイトで開かれているGM会長のスミスとトヨタ自販会長の加藤との会談の結果をジリジリとした気持ちで待っていた。  時計の針が四時を回った頃、会談に同席したアジア・アフリカ担当副社長のマコーミックから電話で会談内容の報告を受け、スミスからの伝言の形でトヨタ提携の具体案づくりを依頼された。  二人の会談は、豊田英二の招待の件を除けばとりとめのない話ばかりだったが、この日の会談に積極的な意義を見い出さなければ、提携を具体化させることは出来ない。会談の意義を強いていえば、今回の提携は舞台裏の装置はともかく、GM、トヨタとも自分の意志で動きだしたことである。自動車業界で大企業が下位メーカーを資本の力で傘下に収める時代は完全に過ぎ、巨大企業同士が自分の意思で手を結ぼうとする時代がきたのである。  加藤が最初に持ち出したダイハツの話は、スズキとの提携前だったらGMも興味を示したかも知れないが、今となっては、仮にトヨタ所有の持ち株一五%を全株取得出来たとしてもGMにとってメリットは薄い。現在の厳しい情勢の中ではダイハツを傘下に入れても、世界の自動車産業の流れを変えることは出来ない。  反対に大企業といえども対応を一歩誤れば、たちどころに経営危機に陥ってしまう。GMは八二年モデルから中型車の『Aカー』を七十五万台、ワールドカーとしてサブコンパクトカーの『Jカー』を三十五万台、小型トラックの『S・10』を五十万台投入する。むろん膨大な開発資金がかかるものの、燃費規制を達成するには避けて通れない道である。  だが二年前に九十五億ドルあったキャッシュフローはすでに使い果たし、運転資金は枯渇し始めている。工場の操業率も五割まで落ち込み、第二次石油ショックに端を発した自動車不況が、ここへきてボディーブローのように利き始めている。こんな状態があと数年続けば、GMといえども屋台骨が揺らいでしまう。  トヨタについても同じことがいえた。「うちは半年間運動会をやっていても大丈夫」と豪語したのは石田退三だが、余裕資金が一兆円を超すトヨタといえども対米輸出が抑えられたところへ国内販売の不振が加わり、操業率が八割を切れば、途端に赤字に転落してしまう。  石田が口ぐせにしていた「自分の城は自分で守れ」には、時にはライバル企業と手を組む必要があるという意味も込められている。自動車産業は一見、華やかに見えても本質的には水商売的な体質から抜け出せない。クルマのヒットいかんで業績が決まるからである。  国内販売の不振で経営悪化に喘ぐGM。対米進出で袋小路に入ったトヨタ。こうした苦境を脱するには両社が手を握る以外にない。その意味でダイハツや韓国セハン自動車の話は、最初から提携の本筋とはなり得なかった。  両社の理想的な提携の形は株式の持ち合いだが、レーガン政権下でいくらか独禁法の緩和を期待出来ても、世界一厳しい法律そのものが存在する限り、検討するだけ時間の無駄である。  最も現実的なのは海外で実績を積み重ね、なし崩し的に提携を拡大させることである。加藤がザンビアの話を持ち出したのはまさに独禁法を意識してのことだが、両社とも切羽詰まっている。のんびりした提携では意味がない。  GMに限らずビッグスリーが日本車に対抗出来る小さな車を作れないことは、もはや明白である。よしんば無理やり作ったとしても競争力はない。  一方のトヨタはフォードと一年半にわたる交渉を通じて、外資企業のしたたかさとえげつなさを肌で感じていた。クライスラーは米政府から四億ドルの追加融資を受けたものの、まだ再建のメドは立っていない。トヨタが対米進出で手をこまぬいておれば、日米両政府からクライスラーの再建協力を押し付けられる恐れがある。トヨタとしてはどうしても避けたい選択である。  つまるところビッグスリーの中でトヨタが提携出来る相手はGMしかいないのである。GMも日本の力のある企業との提携を模索している。両社のニーズは完全に一致していた。  本来なら年明けの二月にスミスと豊田英二がトップ会談し、その席で最初に提携を打診したトヨタの方から具体策を提案するのが筋だが、「お互いに仲良くしましょう」という単なるエールの交換で終われば、トップ会談は失敗である。GMもトヨタも相手の力を必要としている。  膠着《こうちやく》状態を打破し、その後の交渉でイニシアチブをとるには、提携を打診された側が思い切った具体的な提携案を提案した方が有利である。ただしトップ会談で具体案を提示するには、トヨタにミッションを派遣してある程度、下交渉を進めておく必要がある。     [4] 「両社の利害が一致する以上、交渉は短期決戦でまとめたい。まず本体同士の共同事業を模索し、万が一、独禁法でがたつくようであれば、海外での提携を先行させる」  これがチャイがたどりついた提携の基本方針である。双方にメリットがある提携といえば限定される。まずGM車の日本での組み立て生産は、一九六〇年代の後半、資本の自由化を前に加藤が中心となり自販が考え、GMに非公式に打診したことがあるが、結果は独禁法の壁が厚く正式にGMに持ち込む前に挫折してしまった。  それから二十年以上過ぎ、GM車を日本国内で生産するに際しての米独禁法の問題はなくなった。むしろトヨタによるGM車のライセンス生産は、日米の貿易不均衡の是正に役立つだけでなく、互恵主義につながるので日米政府からは歓迎される。ただしGM車が日本で売れるかどうかは別問題である。トヨタの緊急の課題は、売れそうにもない米国車を国内で生産・販売することではなく、あくまで米国への工場進出である。  GMにしてもトヨタが自社の車を日本で生産・販売してくれることに異存はないが、目先の経営再建には余り役に立ちそうもない。GMが欲しいのは米国で販売する小型車である。  それでは完成車の供給はどうか。トヨタの生産能力には余力があり、GMが希望すれば年間四十万台でも五十万台でも供給できる。GMもトヨタの優秀な小型車を手に入れることができれば、販売不振の打開策として使える。トヨタによる完成車の供給は両社にメリットがあるが、いかんせん対米輸出自主規制が実施されていては、例外として認めてもらうには無理がある。  仮にトヨタがGMの再建に協力するという名目で例外的に認めてもらっても、問題となっている日米貿易摩擦の解消にはなんら役立たない。それどころか大量に完成車を輸出すれば、貿易赤字は拡大しトヨタだけでなく、今度はGMも非難される。むろん全米自動車労組《UAW》が反対に回るのは分かり切っている。といってトヨタが自社に割り当てられた台数を削って回すには、犠牲が大きすぎる。  エンジン、トランスミッション、ブレーキなどユニット化された基幹部品ともいうべきコンポーネントの供給は完成車の供給同様、日本からの輸出金額が増えるだけで、摩擦解消にもつながらない。GMがトヨタのコンポーネントを購入、トヨタ車をライセンス生産することも考えられるが、従業員をそれほど必要としないので、これだけで米国の世論を納得させるのは難しい。むろんトヨタの対米進出とはならない。  残るはGMの遊休工場をトヨタが買い取るか、合弁による共同生産である。GMの操業率は極端に落ち込んでおり、売るべき工場はいくらでもある。ただし、売却は工場だけでなく、そこで働く従業員込みがGMの条件となる。  トヨタが単独での対米進出に否定的なのは、現地の労働者を使いこなす自信がないからである。GMの遊休工場買収がUAW加盟の労働者込みとなれば、トヨタといえども二の足を踏む。どうしても単独進出しなければならない時は、ビッグスリーの遊休工場を使うよりも新天地に単独で工場を建設した方が経済効率が良い。そうなれば、むろんUAWの労働者を雇う必要もない。  GM、トヨタ双方にメリットがあり、しかも政治的な効果が期待できるのはやはり合弁による共同生産である。これだとトヨタの実質的な対米進出になるし、相手がGMであればリスクも半減する。「トヨタは米国で雇用を増やした」と堂々とPRできるので政治的効果も大きい。合弁生産といっても実態はトヨタ車の部品を現地で組み立てるCKD《コンプリート・ノックダウン》生産である。付加価値が低く利益は上げにくいが、トヨタはコンポーネントの輸出で採算を合わせることが出来る。  トヨタのコンポーネント使用が合弁生産の前提とすれば、輸送コストの面で西海岸の工場を使うのが有利であるが、これはGMにとっても渡りに船である。GMは一九六〇年代に、消費地に近いという単純な理由から西海岸のロサンゼルスとサンフランシスコの郊外に大規模な組み立て工場を建設した。  ところがプレス部品はデトロイトで集中生産し、鉄道貨車を使ってはるばるロッキー山脈を越えて輸送している。これではコストが高くつき、不況の到来とともに合理化策の一環として西海岸工場の閉鎖が検討課題となっていた。この西海岸の工場を活用すれば、レイオフが避けられるので、UAWも反対に回るどころか大歓迎である。  西海岸の工場を使った合弁生産であればGMは過剰設備問題の解決に道が開ける。それ以上にトヨタの生産方式と工場運営のノウハウを得ることが出来る。GMにしても一石二鳥である。  トヨタとGMの提携で問題となるのが、すでにGMと資本提携しているいすゞ自動車の存在である。チャイはトヨタとの具体的な提携案を考えるに際して、会長のスミスに一つだけ注文を出した。 「巨大企業の提携は、お互いに生き残りを賭けたいわば時代の流れです。ただしトヨタとの提携でいすゞに寂しい思いだけはさせたくありません。提携十一年目に入っていますが、いすゞはGMにとって必要な会社です。トヨタとの提携案はその範囲内で考えさせて下さい」  いすゞ自動車は一九七一年(昭和四十六年)、伊藤忠商事の斡旋でGMと資本提携した。GMの出資比率は三三・四%で、いすゞの業績はGMの連結決算に反映される。いすゞ社長は毎年晩秋にデトロイトを訪れ、GMのトップに十月期決算の見通しを報告するのが慣わしとなっている。  その年も岡本利雄が十二月四日にデトロイトを訪問した。岡本はその年、すでにスミスと三回ほど会っている。一月下旬にロサンゼルスで会った時は、ホンダの買収・提携を打診され、腰を抜かさんばかりに驚いた。  だが結局、スミスには買収どころか提携も断念させ、代わりに持ち前の寝技師振りを発揮して、スズキとの資本提携を斡旋した。五月のゴールデンウィークにスズキ社長の鈴木修を連れてデトロイトを訪れ、GMご自慢のテクニカルセンターで両社の資本提携交渉の詰めに立ち会った。  七月にはスミスが提携十周年の記念式典に出席するため来日、この時も今後の提携のあり方をじっくり話し合った。今回は四度目である。  いすゞの八一年十月期の決算はGMが満足するかどうかは別にして、計画通りの利益を上げられそうである。一割配当を継続し、わずかではあるがGMの業績に貢献出来る。普段なら単なる儀礼で終わるが、今回はちょっと違っていた。会談はGMといすゞの間に持ち上がっていた「STカー」の供給が主な議題である。  STカーというのはいすゞが乗用車メーカーとして生き残るため、独自に開発した小型乗用車の開発コードネームである。STカーのSはGMが開発している超小型車の『Sカー』から、Tは同じくGMの『Tカー』から取ったものである。Tカーはシボレーが販売している『シベット』のコードネームである。STカーはFF(前置きエンジン、前輪駆動)方式で排気量は千三百cc。ちょうどSカーとTカーの中間にあることからコードネームが『STカー』となった。  いすゞはSTカーを小型乗用車『ジェミニ』の後継車種として考えていたが、この車に小型車開発で行き詰まったGMが目を付け、いすゞに年間二十万台のOEM(相手先ブランドによる生産)供給を要請していた。  むろんいすゞがOEM供給するには、通産省に自主規制の枠外にすることを認めてもらうことが大前提である。認めてもらえなければ、規制解除まで待たなければならない。とはいえ、いすゞが最初からGMが要請している年間二十万台を供給するのは難しく、目先年間十万台でスタートし、自主規制が解除された段階で二十万台に増やすことにしている。  GMの緊急の課題はなんといっても「ポストTカー」である。シベットはGMにとって初の本格的な小型車で、一時はベストセラーカーの名をほしいままにしていたが、いかんせんモデルが陳腐化して、販売台数は年々落ち込みつつあった。GMとすればシベットの組み立て工場も金型をはじめとする設備はとうに償却を終えており、作れば作るほど儲かる仕組みになっていた。だが四年ごとにモデルチェンジをして、デザイン、技術の両面で最先端を行く日本車と比べるとあまりにもみすぼらしい。目先、いくら儲かるとはいえ、長い目で見るとGMのイメージダウンにつながる。  シボレー部門はシベットを最盛期に年間五十万台売りまくった。いすゞがジェミニのモデルチェンジを延期して、年間二十万台の全量を供給してもまだ足らない。  GMからの供給要請はいすゞにとって渡りに船だが、生産規模が大きければ設備投資も巨額になる。STカーの年間生産台数はGMへの供給、国内販売、輸出も含めると立上がり二十万台、最終的に三十万台近くになる。それに必要な資金は約一千億円である。むろんいすゞは逆立ちしても、そんな巨額の資金を捻出できない。  四日の会談で岡本は、決算報告もそこそこに、ズバリ資金負担を要請した。 「製品の大半はGMに供給するのだから、GMには相応の建設資金を負担していただきたい。ただし資金は前金で……」  岡本の本音はGMに全額負担してもらうことだが、寝業師岡本といえどもそこまで厚顔にはなれない。  いすゞがGMに資金を負担してもらうのは今回が初めてではない。GMは二年前、ワールドカー戦略を打ち出し、第一弾としてサブコンパクトカーの『Jカー』を世界のGMファミリー企業を総動員して生産・販売する構想をぶち上げた。  いすゞも最終的に日本で生産することにしているが、当面GMと西独オペルにトランスアクスル(変速機と車軸の一体部品)を大量供給することになっている。生産規模は年間四十万基で、この工場の建設資金に四百億円かかる。  キャッシュフローが百億ドル近くあったトーマス・マーフィー会長時代のことで、GMはいすゞが藤沢工場内に建設したトランスアクスル専用工場の建設資金を全額負担した。  岡本は前回に味をしめ、再び資金援助を持ち出したわけだが、二年前とはGMを取り巻く環境は著しく変わっていた。スミスはマーフィーと違い、金がないのにあるような顔は絶対にしない。スミスは岡本にはっきり言い渡した。 「今、GMに余裕のある資金は全くない。しかしSTカーの大半はGM向けなので、何とか投資額の半分は負担しましょう。残り半分はいすゞで自己調達してください」  この時、スミスが考えたのはいかにも財務出身らしく、いすゞに転換社債を発行させ、それを全額GMが引き受けるという案である。社債で持っていれば利子が入るし、期限がきて株式に転換すれば、GMの持ち株比率の引き上げにつながる。どう転んでもGMに損はない。  提携発足当初は「巨人と蟻の組み合わせ」と揶揄《やゆ》されたが、ワールドカー戦略の推進に際して、今やGMにとってはいすゞはなくてはならない存在になった。  いすゞの非常勤役員を兼ねる副社長のマコーミックはスミスの指示で、トヨタ自販会長の加藤誠之とスミスの会談内容を四日後の二十五日のクリスマスの日に岡本に電話で手短かに報告した。 「会談はトヨタ側の要請で開かれ、日米自動車問題について大所高所から意見を交換しました。また加藤さんからの要請で二月にスミス会長と豊田英二さんがデトロイトで会うことになりました」  岡本はマコーミックの話を聞きながら、〈GMはやはり力のある日本メーカーとの提携を画策しているのではないか〉という疑念を持つと同時に、〈巨大企業同士の提携は時代の流れかも知れない〉と半ばあきらめにも似た気持ちを抱き始めた。  チャイにしてもトヨタとGMの具体的な提携策を考える際の一番のネックが、いすゞの存在である。いすゞは一九六〇年代後半に巻き起こった自動車再編劇の最中、国内メーカーとの提携を推進する民族派と外資提携を推進する国際派に社内は二分された。外資提携の推進派の旗頭が当時副社長だった岡本である。  外資提携を依頼された伊藤忠商事業務本部長の瀬島龍三の指揮のもと、チャイは現社長の室伏稔らとともに、ありとあらゆるルートを使ってビッグスリーに接触、最後にGMに辿りついた。伊藤忠社内で提携後もGMといすゞの両社にかかわっているのは、今やチャイ一人だけである。  それだけにチャイは誰よりも「いすゞに寂しい思いをさせたくない」という気持ちが強い。岡本がトヨタ提携に真正面から反対すれば、GMが降りることも考えられる。だが長期的な目で見れば巨大提携の流れを食い止めることは出来ない。  GMは世界恐慌直後の一九三〇年代と同じような経営不振に直面しており、トヨタとの提携は経済的な面でのメリットが大きい。両社が提携すれば、何より日米自動車摩擦が沈静化する。さらに小型車分野で国際分業体制が確立すれば、世界の自動車業界の安定につながる。日本政府からも歓迎される。そうした中で反対に回れば、損をするのはいすゞである。  冷静に考えるとGMとトヨタの提携は、いすゞにもメリットがある。いすゞは第一次石油ショックの直後に百億円強の赤字を出し経営危機に見舞われ、その後、常に業界再編成の台風の目とされてきた。  スミスがトヨタとの提携を機に「GMといすゞとの関係は将来にわたり不変」であることを改めて強調すれば、再編の台風の目から外れる。このスミスの一言で、いすゞは目に見えない恐怖心から解放される。  GMにすれば、シベットの後継車種はいすゞから調達するSTカーだけでは足りない。その不足分をトヨタから供給してもらうのが理想的である。問題はトヨタが果たして実質的にいすゞの下請けに甘んじられるかである。提携が実現するかどうかはGM、トヨタ、いすゞの三社が、どこまで現状の厳しさを認識しているかにかかっている。三社の足並みが揃わない限り、提携交渉は始まらない。独禁法の問題以前に協調が試されるわけである。     [5]  チャイは自分の考えをそのつど、神尾の耳に入れている。提携の具体策をGM側から出すことについては神尾も異論がない。それを前提に今後のスケジュールをどう立てるか。トップ会談の前にGMがトヨタにミッションを派遣する用意があることはすでにトヨタ側に伝えている。チャイと神尾は何回か電話をする中で、GMミッションの来日を有意義なものにするため両社に非公式の事務局(タスクフォース=作業チーム)を作らなければならないことで意見が一致した。  GM側の交渉責任者は会長のスミスが財務部門で経理を担当しているゼネラルマネジャーのジャック・スミス(後に社長、会長)を指名した。ジャック・スミスは八一年二月一日付でビル・ラーセンの後任として国際製品企画のマネジャーに就任することが決まっている。  本来なら非公式とはいえ、事務局の設置に際しトヨタは自工が前面に立ってしかるべきだが、会長の加藤は現段階で自工が入るのは時期早尚と見ていた。何も決まっていない段階で自工を入れれば、ハナから潰される危険がある。逆にメンバーが張り切り過ぎれば、まとまる話もまとまらなくなる。  加藤と神尾は窓口役として、とりあえず自販北米部長の柳沢亨を充てることを決めた。柳沢は英語のうまさではトヨタ社内で三本の指に入るとされる男である。それが英二に見込まれ、英二の海外出張の際には通訳として同行する機会が多く、自工の内部事情にも精通している。  柳沢は仕事納めの前日の二十七日、まだ顔を合わせたことのないチャイに国際電話をして、挨拶を兼ねGM提携交渉におけるトヨタ側の窓口役になったことを報告した。  日米自動車摩擦は、米国の自動車産業救済計画を側面から援助する目的でスタートした日本製乗用車の対米輸出自主規制で、一時的に小康状態を保っていたが、十二月に入って早くも再燃した。  米通商代表部《USTR》のマクドナルド次席代表が、一日に開かれた上院財政委員会貿易小委員会の公聴会の席上、日本車の自主規制に関し爆弾発言をしたからである。 「輸出規制二年目の数量は、一年目の販売予測に対する(二年目の)販売予測の増、あるいは減の一六・五%を一年目数量に加算、または減算することになっている」  対米乗用車の自主規制は日米政府の厳しい交渉の末、五月に期間三年、初年度の規制台数百六十八万台で決着した。だが二年目以降については見直すことになっているが、肝心の見直し案は玉虫色になっていた。  USTRは米国市場の乗用車販売を、一年目一千万台、二年目は九百─九百五十万台に落ち込むと予測している。これにマクドナルド発言を当てはめてみると、二年目の対米輸出は一年目の百六十八万台からさらに十六万五千台─八万三千台減る計算になる。  マクドナルド発言に驚いた通産省の通産審議官・栗原昭平(後にトヨタ自動車副社長)は在日米国大使館のバラクロフ公使を呼んで、㈰規制は百八十六万台が底値である。これは五月一日の田中六助通産相とブロックUSTR代表の間で確認されている㈪二年目の数量は一年目の予測ではなく、実績の数字を使うことになっている──などを理由に強く抗議した。  これに対しバラクロフ公使は「本国政府に伝える」と答えたにとどまった。米国の狙いは二年目の台数交渉を有利に進めるための世論工作であるのは疑いない。  同じ日の公聴会でホーマッツ国務次官補は「日本政府と自動車メーカーの米国製部品購入努力は、失望すべき結果に終わっている」と非難した。この発言を受けて民主党のオティンジャー議員ら四人の議員がUAWの支援を受け米下院に、米国で自動車を販売しているメーカーに米国製部品の調達を義務づける、いわゆるローカルコンテント法案を提出した。  法案は年間十万台以上を米国で販売する自動車メーカーに対し、米国製部品の調達比率を販売台数、年式に応じて段階的に引き上げ、最高九〇%までの調達を義務づけるというものである。  成立すればトヨタ、日産はもちろん日本メーカーは軒並み規制の対象となる。達成するには米国に工場を建設するか、それが出来なければ輸出を大幅に抑えなければならない。この種の保護貿易色の強い法案は、通常大統領が拒否権を発動させるので、実現性は薄いものの、まだ乗用車で対米進出を果たしていない日本メーカーには無言の圧力となる。  米政府、議会で再び日本車に対する非難の声が高まってきたのは、日本が乗用車の輸出規制に踏み切ったにもかかわらず、対日赤字が百八十億ドルに増大したからである。ボルドリッジ商務長官が上院本会議で「日米関係は大変な問題を抱えており、話し合いに時を費やす余地はなくなっている」と発言するに至り、年明け早々から自動車を中心とした日米通商摩擦が再燃しそうな雲行きとなった。  GMの対トヨタ提携の素案づくりは、クリスマス休暇明けの年末から始まった。従業員八十万人を抱えるGMでも、日本の自動車事情を正確に把握している人は誰もいない。会長のスミスはこうしたGMの弱点を知っており、提携の素案づくりをチャイに依頼する一方、トヨタ提携の交渉責任者に指名したジャック・スミスにタスクフォースのチーム編成を命じた。チャイは提携の素案ができ次第、年明け早々にもそれを持ってデトロイトに行き、GMのタスクフォースのメンバーと打ち合わせることになっている。  これまでGMとトヨタの間で決まったことといえば、二月のトップ会談の前にGMがトヨタにミッションを派遣することだけである。ミッションの規模、メンバーなどの詳細はチャイがデトロイトに行った時に、提携の素案を検討したうえ、会長のスミスが決めることになっている。誰がメンバーに入るかによって、スミスがどの程度GM提携に力を入れているかある程度予想がつく。  GMのミッションが日本を訪れた時には、トヨタの工場、研究所はむろんのこと開発中の新車のクレイモデルやプロトタイプまで見せてもらわなければ、具体的な交渉には入れない。  クレイモデルというのは、自動車の室内外の意匠《デザイン》を検討、確認するため工業用粘土を使って作ったモデルである。これに対しプロトタイプは車の性能、品質の評価実験を行うため作られた試作車で、内外装、基本コンポーネントともに最終設計に近いものから、現行市販車に新型のエンジンを搭載して走行試験するものまで様々な車がある。果たしてトヨタがどこまで胸襟を開くか。GMの要望はすでに提携の窓口役になった柳沢に伝えてある。  米国で最も権威のある自動車業界専門誌「オートモティブ・ニュース」は年末に恒例の米自動車産業の十大ニュースを選んだ。八一年のニュースは次のようなものである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰極度の販売不振  ㈪GM、フォードによる労働コスト切り下げキャンペーン  ㈫日本車自主規制  ㈬自動車価格大幅引き上げに伴う購買意欲の減退  ㈭レーガン政権下の各種規制解除への動き  ㈮高金利  ㈯エアバッグ義務づけ方針撤回  ㉀クライスラー、六億二千二百万ドルの賃金カット  ㈷デロリアン社製スポーツカーの米国上陸  ㉂西独ベンツによる米フレイトライナー社買収、およびスウェーデン・ボルボによるホワイトモーター買収 [#ここで字下げ終わり]  波乱の一九八一年(昭和五十六年)は静かに過ぎようとしていたが、大晦日になって�大事件�が発生した。朝日新聞が朝刊一面で「トヨタ自工・販売合併へ 来年中に具体化 小型車戦争に対応」と報じたのである。トヨタの地元名古屋版では大きな活字が躍る一面トップ。東京版でも両社長の顔写真、解説付きの四段見出しである。記事は次のような書き出しで始まっている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    トヨタ自動車工業と、その販売会社であるトヨタ自動車販売の両社は合併に踏み切る意向を固めた。来年中にも具体化する。トヨタ自動車首脳が三十日明らかにしたもので、厳しさが増す�国際自動車戦争�に生き残るための体制づくりが狙いである。新会社は「トヨタ自動車」に落ちつく公算が大きい。またトップ人事は両社の首脳間で今後煮詰められる。東京証券取引所第一部に上場する企業同士の大型合併となるが、最近の大型合併が伊藤忠商事・安宅産業のように救済合併の色合いが濃いのに比べトヨタの工・販合併は産業界では久しぶりの前向きの大型合併といえる。    豊田英二・トヨタ自動車工業社長の話    合併については、今は考えていない。親戚みたいな会社だから、合併する必要が出れば、すぐにでも出来るということだ。合併のメリット、デメリットなどほかの方がいろいろいわれるが、それは私どもが考える問題だ。    豊田章一郎・トヨタ自動車販売社長の話    合併するにしろ、しないにしろ、メリット、デメリットを十分検討する必要がある。よく、合併のメリットの方が大きいのでは、といわれるが、合併した後のトヨタは図体が大きくなりすぎて、トップの目が隅々まで届かない、などという新しいデメリットも出る。慎重に考えねばならない。 [#ここで字下げ終わり]   (朝日新聞一九八一年十二月三十一日付朝刊)  工販の合併の方針はすでに神谷正太郎の一周忌が終わった直後、豊田英二が豊田章一郎と工販それぞれの会長である花井正八、加藤誠之に伝えてある。それ以外の人で知っている人といえばトヨタの最長老の岡本藤次郎だけである。  新聞に書いてあるトヨタ首脳が誰かは別にして、最高首脳の英二がすでに合併の決断を下しているのは事実である。しかし肝心の合併比率、新会社の経営布陣などは何も決めていない。これから合併に向けての環境整備を始めるのである。  英二の言葉を借りるまでもなく、工販は親戚みたいな会社だから、合併はやろうとすればいつでも出来る。英二が最も懸念していたのは、環境整備に着手する前に合併構想が表ざたになり、自販の社員に動揺が起きることである。  合併ともなれば当然、余剰人員が発生する。しかしトヨタは合理化の一環として合併を考えているわけではない。週刊誌で「合併は自工による新たな合理化」「合併で余った自販社員はディーラーに出向させられる」などと無責任に書き立てられるのは分かり切っている。  ただ両社長の談話を深読みすれば、すでに合併の肚を固めていることが分かる。六月末の章一郎のトヨタ自販社長就任を、将来の合併の布石として見ていただけに意外感はない。大晦日にもかかわらず、トヨタ首脳の自宅には朝日新聞に抜かれた他社の記者が殺到した。知りたいのは合併のタイミングである。これさえはっきりすれば元旦付の紙面で後追いしなければならない。しかし肝心のトヨタのコメントは「合併は考えていない」という素気ないものである。これでは後追いも出来ない。  フォードとの提携交渉が暗礁に乗り上げて始まったトヨタの一九八一年は、工販の合併騒動で終わった。 [#改ページ]   第三章[#「第三章」はゴシック体] 遥かな坂道 [#改ページ]     [1]  米国の一九八二年(昭和五十七年)は、レーガン政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官、リチャード・アレンの辞任劇で始まった。アレンは日本の雑誌社「主婦の友社」からレーガン大統領夫人とのインタビューを仲介した謝礼として千ドル受け取ったことが発覚し年末から休職していたが、年明けの四日、レーガン大統領はついにアレンの更迭を決めた。  辞任の直接の引き金になったのは「千ドル受領事件」だが、アレンは補佐官就任前に「ポトマック・インターナショナル」という経営コンサルタント会社を経営しており、日産自動車をはじめ多くの日本企業と契約していた。補佐官就任に伴いポトマック社の社長は辞任したが、日本企業との関係は依然として保っており、利害衝突を起こす危険があった。  こうしたアレンの政府高官としての資格に、議会関係者はかねて疑問を投げかけていた。レーガン大統領は千ドル受領事件を口実に、問題を起こす前に更迭してしまったのである。  アレンの辞任と同じ日にGMがニューヨーク・マンハッタンのどまん中、五番街とマジソン街に面している五十階建ての「GMニューヨークビル」の身売りを発表した。  GMが大手不動産グループのコーポレート・プロパティ・インベスターズ(CPI)から五億ドルを十年間借りる代わりに、十年後にGMビルをCPIに売却するというものである。  GMニューヨークビルは、一九六八年に完成したGMの栄光を象徴する建物である。その建物を売却するというのは、それだけ業績が悪化して、資金繰りが厳しくなってきたことを物語っていた。  お屠蘇《とそ》気分も冷めやらぬ五日に海の向こうから飛び込んできた二つのビッグニュースは、日本の自動車業界と無関係ではない。日本自動車工業会、日本自動車部品工業会など自動車関係五団体はこの日午後三時から、東京・虎ノ門のホテルオークラ「平安の間」で、恒例の新年賀詞交換会を開いたが、話題は専らトヨタの工販合併問題と米国の二つのビッグニュースに集中した。 「米国の情報収集のためロビー活動をするのは企業として正当な行為です。うちはニクソン政権下の日米繊維交渉で大統領特別通商部(現在のUSTR)の首席代表だったエバリーとロビイスト契約を結んでいます。昨年はカーター政権でUSTRの次席代表を務めたアラン・ウルフとも契約しました。リチャード・アレンとは米国日産がロビイスト兼コンサルタント契約を結んだが、レーガン政権の大統領補佐官に就任した時点で契約を解除しました。今回の彼の辞任とうちは全く関係ありません。結び付けられて迷惑している」  日本自動車工業会会長で日産自動車の社長でもある石原俊は、新聞記者にアレンと日産の関係を聞かれるまま答えた。  トヨタ工販の合併についてトヨタ自工社長の豊田英二と自販社長の豊田章一郎はまるで口裏を合わせたかのように「合併は将来の問題。現段階では考えていない」と慎重な姿勢を崩さない。  GMニューヨークビルの身売りについて資本提携先のいすゞ自動車社長の岡本利雄は、強気の発言をした。 「GMの資金繰りは相当悪化しているようだ。しかしいすゞも資金繰りに協力することになっているワールドカーのJカーが発売されれば、業績は急激に好転する。そうなればビルなんかいつでも買い戻せる」  総合商社のニューヨーク現地法人は米国企業同様、二日から通常の仕事を始める。ただ日本の松が明けるまでは、ほとんど東京からの電話もなく比較的のんびりしている。こうした時間を利用してチャイはGM、トヨタの提携交渉における自分の立場を考えてみた。  チャイはGMといすゞの資本提携の時に、一商社マンとして交渉に携わってきた。持ち前の情報収集機能とオルガナイズ機能を発揮した典型例で、提携を実現させたことで自動車、鉄鋼、機械の取扱量は飛躍的に高まり、関西の糸へん商社に過ぎなかった伊藤忠は、これを機に総合商社に脱皮した。  いすゞから見ればGM提携は生き残り策であるが、伊藤忠からすれば商権拡大策であった。しかし国際化が進む中で、商社がシナリオを描き、提携を画策してもまとめあげるのは難しい。商社はどうしても目先の商売が優先してしまうからである。ましてや世界最大のGMと日本一のトヨタを結びつけるのに、商社の利害を最優先させれば不可能に近い。  チャイは今回の提携交渉に際しては、商社マンの立場を離れて交渉に参画する覚悟である。ただしトヨタとGMの提携をまとめようとすれば、生半可な気持ちではとてもできない。全力投球しようとすれば、精神的にも物理的にも相当時間が取られる。米国伊藤忠の副社長とはいえ、一介のサラリーマンである。本業の仕事がおろそかになる以上、会社の了解を得なければ自由に動けない。  そこで年明け早々、入社以来陰になり日向になり世話になっている専務で業務本部長の米倉功に電話を入れた。米倉は伊藤忠の中で自動車畑が比較的長く、チャイの仕事振りを一番正確に把握している。チャイ自身、今日あるのは米倉のお陰だと思っている。その米倉から頼もしい答えが返ってきた。 「自動車業界も遂にトヨタとGMが手を握らなければ生き残れない時代に入ったか。お前はスミス会長に信頼されてやる以上、伊藤忠の名に恥じないよう、ちゃんとしたことをやれ。とにかく頑張れ。ただしいすゞの岡本さんに寂しい思いだけはさせるな」  岡本に「寂しい思いはさせるな」という米倉からの注文は、チャイが一番気にしていたことである。米倉の返事の中でそれ以上に有り難かったのは、伊藤忠の商権に一切触れず、逆に激励されたことである。  チャイは伊藤忠の商権を考えないわけではなかった。しかしそれを優先させることはできない。ただし提携が実現すればGM、トヨタの両社からチャイ個人というより伊藤忠が感謝されるのは分かり切っている。そうなれば商売はその後で自然についてくる。彼はそう割り切っていた。  トヨタ、フォードの提携交渉が不幸にして破綻したのは、チャイにいわせれば両社の本音を代弁したり、時には緩衝役を果たす第三者がいなかったことに原因がある。  世界市場に君臨する巨大企業ともなれば、組織は官僚化しており、そのうえプライドも高い。対等の精神に基づいた提携交渉は、事務局同士が本音ベースで侃々諤々《かんかんがくがく》の議論をしなければ、まとめ上げることはできない。トヨタとフォードの交渉は最初からお互いに「相手から騙《だま》されまい」とする警戒心が前面に出て、これがエゴにつながり、入り口の段階でつまずいてしまった。  GMとトヨタの場合でも、両社の利害が一致するとはいえ、第三者が介入しない直接交渉ではちょっとした思惑の違いで亀裂が生じれば、それが決裂の引き金になる。  チャイは自分の立場を常に自由にしておき、GMに対してはあくまでトヨタの代弁者として、トヨタに対しては逆にGMの代弁者として交渉に当たらなければ、今回の巨大提携をまとめあげるのは難しいと思った。  一月七日夕刻、成田着のノースウエスト航空で日本車攻撃の急先鋒である米上院のジョン・ダンフォース議員が同僚のジョン・チェーフィー議員とともに経済広報センターの招きで来日した。両議員は鈴木首相、安倍通産相など政府首脳と会談するほか、トヨタ自工の工場を見学して、社長の豊田英二に会うスケジュールになっている。十五日には東京・大手町の経団連会館で記者会見する。経済広報センターは日本の実態を知ってもらうために、一月だけで十七人の米議員を招待することにしており、ダンフォース議員の来日はその第一弾である。  ダンフォース議員が日本の土を踏み、宿舎のホテルオークラに入った頃、チャイはニューヨーク発のノースウエスト航空でデトロイトに向かった。  チャイが七日にデトロイトに行き、GM側のタスクフォースのメンバーと最初の打ち合わせをすることは、トヨタ自販北米部長の柳沢から会長の加藤と常務の神尾へ、そして神尾からトヨタ自工社長の英二に知らされた。  加藤は帰国直後、年末にもかかわらず電話でスミスとの会談を英二に簡単に報告して、スミスが英二をディナーに招待することも伝えてある。ただ英二はGMとの提携にはまだ半信半疑で、事態が今後急速に進むとは予想していなかった。  むしろGM提携は自販社長の豊田章一郎が積極的で、正月明けに神尾が報告に行った時には身を乗り出して聞き入った。 「そういう話なら是非まとめたい。米国でGMとの提携が成立すれば、残るは欧州だけだ。スペイン・セアト社との提携は自工の反対でだめになったが、欧州でベンツかBMWのどちらかと提携すれば、トヨタの国際戦略は完了する。自工はとにかく慎重な会社だから、GM提携に際しては何か説得出来る材料がほしい」  かくしてGMとの提携交渉は順調なスタートを切るかに見えたが、最初から大きな壁に突き当たってしまった。神尾が自工の技術担当役員にそれとなく、GMのミッションに開発中の新車のクレイモデルとプロトタイプを見せてくれるよう打診したが、婉曲に断られてしまった。  考えてみればクレイモデルにしてもプロトタイプにしても、自動車会社にとって最大の機密事項である。おいそれと誰にでも見せるわけにはいかない。相手がライバルのGMともなれば、技術担当の役員といえども最高首脳の英二の了解なしにOKは出せない。英二にしても極めて政治的な判断を必要とする。  神尾は柳沢からは「チャイさんは合弁による共同生産の線で素案を練っている」との報告を受けているが、GM側から具体的な車種はまだ出ていない。年が明けて柳沢から「GMがほしいのは小型車」という情報がもたらされた。  この時、神尾の頭の中に一つのアイデアが浮かんだ。 「GMが小型車を欲しがっているのであれば千三百ccの『スターレット』が良いのではないか」  世界の自動車業界では燃費改善の決め手としてFF(前置エンジン、前輪駆動)方式が大流行している。トヨタも例にもれず中型車の『クラウン』や高級小型車の『マーク㈼』及びスポーティー車を除き、小型車についてはほぼ全車種FF方式に切り換える方針を打ち出している。スターレットもプログラムに乗っており、すでに開発は終えている。ただし投下資金を回収が出来るメドがつかず、FFに踏み切るべきかどうか迷っていた。  自工社内には「次期スターレットをFF化すればむろんトヨタが生産するが、もし従来通りFR(前置エンジン、後輪駆動)で通すのであれば、生産は系列会社のダイハツ工業に移管したらどうか」という案も浮上していた。  しかしGMとの共同開発の生産車種に決まれば、コンポーネントの量産効果が出て採算も向上するので、踏ん切りもつく。とはいえトヨタ側からFFスターレットを共同生産車種に提案すれば、GMにプロトタイプを見せなければならないというジレンマがある。     [2]  チャイがデトロイトのGM本社を訪ねた七日は、会長のスミスと社長のジェームス・マクドナルドはあいにく不在だった。UAWとの労働協約を改定するため急遽、トップ二人がワシントンに飛んだためである。現行の協約の期限切れは九月十四日で、本来であれば改定交渉は七月に入ってから始まる。だが労使とも七月までは待てない事情があった。  経営危機に見舞われているクライスラーは、会社側が協約の改定をUAWに申し入れ、すでに六億二千二百万ドルの賃金カットを勝ち取っている。米自動車産業の不況は四年目に入っており、さしものGMも資金繰りが苦しくなった。UAWは依然として二十三万人の失業者を抱えている。  そこでGMとフォードは前年十二月にUAWに労働協約改定交渉の繰り上げを要請した。これを受けUAWも「労使再交渉禁止の方針」を転換した。UAWは八日にワシントンで代議員大会を開き、会社側と交渉に入ることを決める。本決まりになれば、まずGMが改定内容をUAWに提案する段取りになっている。スミスとマクドナルドはそれに備え、ワシントンで待機している。  チャイはデトロイトでGMのタスクフォースのメンバーと丸一日かけ、トヨタ提携問題を協議した。タスクフォースのメンバーはスミスがトヨタとの提携交渉の責任者に指名したジャック・スミスがキャップで、製品企画部のトーマス・マクダニエル、同じく製品企画部のジョン・ミドルブルック、財務部のルー・ヒューズなどである。他にオブザーバーとして世界商品企画のマネジャーであるビル・ラーセンも加わった。  この時、ジャック・スミス四十三歳、マクダニエル四十二歳、ミドルブルック四十歳、ヒューズに至っては弱冠三十二歳である。いずれもジャック・スミスの腹心の部下で、スミスが会長の了解のもとに選んだGMの将来を担う「若き獅子たち」である。  会議ではチャイが年末年始に考えた素案を叩き台に、提携の基本的な考え方と原案をまとめた。それを基にチャイとジャック・スミスの間で次の四つのことを確認し、十二日にジャック・スミスが会長のスミスに報告して了承を得ることにした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰トヨタとは漠然と提携しても意味がない  ㈪提携は両社にメリットがある合弁方式による小型車の共同生産とする  ㈫一月下旬に派遣するミッションの目的は、二月のトップ会談を前に、本当に提携が可能かどうかを探ることにある  ㈬トップ会談は二月の二十二日から始まる週にデトロイトで設営する [#ここで字下げ終わり]  両社は「トヨタがどの車種を提供する用意があり、GMはトヨタのどの車が欲しいのか」を確認しなければならない。GMが喉から手が出るほど欲しいのはTカーの後継車種だが、ほかに小型スポーティー車も、そしてトヨタがフォードに共同生産車種として提示した『カムリ』も魅力的である。  GM側の要望は沢山あるが、チャイが知りたいのは、共同生産に際してトヨタが絶対に譲れない車種である。二月のトップ会談でトヨタの米びつともいえる車種を提示しても、実務ベースでの交渉が難航するのは分かり切っている。  神尾のアイデアによるFFスターレットの件は、デトロイトに来る直前に柳沢から聞いている。GMにとっての理想の車種は『カローラ』だが、これはトヨタのドル箱車種だけにそう簡単に手放すとは思えない。強引にカローラを指名すれば、トヨタは反発し交渉は難航する。  といってTカーの後継車種は、いすゞから供給を受ける『STカー』しかまだ決まっていない。GMにはディーラーが一万一千店あり、シボレー部門だけで年間最低五十万台は供給しなければならない。その点FFスターレットならSTカーと車格がほぼ同じなので、STカーを廉価版のTカー、スターレットを高級Tカーとして売り出せば、商品の差別化ができる。チャイは共同生産車種をFFスターレットに絞ることに傾いていた。ただしトヨタから「プロトタイプを見せる」との確約を得ないことには、GMに話を通せない。  FFスターレットのクレイモデルとプロトタイプを見せてほしいということは、すでに柳沢に要請してある。トヨタが慎重であるのは神尾から聞いているが、GMにはトヨタから技術を盗むという考えは全くなかった。  トップ会談は英二にSAE(米国自動車技術者協会)大会に合わせて、デトロイトに来てもらい、その時期に開くことがほぼ固まっている。  英二が希望すれば、会談の前にGMのテクニカルセンターを見てもらってもよい。テクニカルセンターを見せて相手をびっくりさせるのはGMの常套手段で、前年五月、スズキ社長の鈴木修とのトップ会談をデトロイト郊外のテクニカルセンターで開き、交渉を短期間でまとめあげた実績もある。  テクニカルセンターは一九五六年に完成したGM技術部門の総本山である。デトロイト郊外のウォーレン市にあり、巨大な製鉄所でもすっぽり入る約四百万平方メートルの広大な敷地に、GMの頭脳とも言うべき一万三千人の科学者とエンジニアが集結、最先端のテクノロジーを駆使して未来車の研究・開発に取り組んでいる。  GM、トヨタのトップ会談を前に技術者でもある英二にテクニカルセンターを見てもらえば、二人の話し合いもリラックスムードになる。  チャイは七日の夜、トヨタ提携に向けての会議を終えた後、ジャック・スミスと一緒に夕食をとりながら日頃の持論を繰り返した。 「GMとトヨタは海外展開が遅れた点で非常に似ている。これまで海外で協力関係がなかったのが不思議なくらいだ。この似た者同士が手を組めば、世界の自動車業界の勢力地図が一変する。健全な競争はこれからも続けなければならないが、提携をすることでムダな競争は排除できる。提携が実現して一番得をするのがGMとトヨタで、一番損をするのがフォードだ」  年明け早々のデトロイト訪問でGMの意思を確認したが、チャイの唯一の懸念はトヨタとの交渉パイプが自販に限られていることである。トヨタは工販に分かれているが、GMはしょせん一つの同じ会社だと思っている。あり得ないことだが、GMのミッションがトヨタ本社を訪れた際、英二から「自販がどんな目的でGMに接触したかは知らないが、自工としてはGMとの提携は一切考えていない」と言われれば、チャイのGMにおける立場がなくなるだけでなく、GM自身大恥をかくことになる。  チャイがデトロイトから帰った直後、GMは一月の下旬に四つのミッションを日本に派遣することを決めた。一つがジャック・スミスを責任者とするトヨタ提携プロジェクト。二つ目がトヨタ提携のタスクフォースのメンバーにも入っているルー・ヒューズが担当のいすゞへの資金援助交渉。三つ目がGMODC《オーバーシーズ・ディストリビューション》の経営をいすゞに肩代わりしてもらう交渉。最後がスズキからの小型車『Mカー』の供給交渉である。  いすゞへの資金援助はSTカーの供給に伴うものである。資金援助はいすゞが二億ドルの転換社債を発行し、それを全額GMが引き受ける線で進められている。  GMODCに関する交渉というのは、豪州に本社のあるGMODCの業務はいすゞ車の海外販売が中心になっているため、経営権をいすゞに肩代わりしてもらった方が良いという判断から行われるものである。この交渉の責任者はいすゞの役員を兼ねる副社長のマコーミックである。  Mカーの供給交渉はGMとスズキが資本提携した直後に持ち上がった話で、今回が初の交渉である。MカーはSカーの米国生産中止に伴うもので、排気量千三百ccを想定している。GMの狙いはまず事務ベースで供給が可能かどうか探ることにある。  チャイは四つのミッションすべてに関係しているが、最も恐れているのは、トヨタとの提携を具体化させることで、GMがいすゞとの交渉に強気で出てくることである。そのためにはどうしてもSTカーの供給問題を、一月中にまとめ上げなければならない。  全米自動車労組《UAW》は一月八日にワシントンで代議員大会を開き、圧倒的多数でGMと労働協約の改定交渉に入ることを決めた。交渉は二日後の十日過ぎから開始するが、GM会長のスミスは交渉の前にUAW会長のフレーザーに交渉のテーブルに着く前提条件を示した。 「今回の交渉は米国自動車産業の将来の見通しを明るくするためのものだ。GMの時間当たり賃金は、日本に比べて八ドルほど高い。賃金、労働条件の面でUAWの譲歩がなければ、海外調達に踏み切る」  スミスは恥も外聞もなくUAWに賃下げか、職場確保かの二者択一を迫ったのである。GMの時間当たり賃金は二十ドル。日本は十二ドルである。UAWは「日本の賃金には住宅費や通勤費は入っていないので、八ドルの差はない」と反論しているが、ビッグスリーの賃金が日本のみならず、米産業界の中でも飛び抜けて高いのは周知の事実である。元をただせばUAWの高賃金はGMが好業績に任せ「金持ち喧嘩せず」のたとえ通り、これまでUAWの要求をそのまま呑んできたことにある。  唯一、決裂したのが一九七〇年の改定交渉で、UAWは七十日間の長期ストライキを打ったが、その後、長期間財政危機に見舞われた。今回も決裂した場合、百二十日─二百十日のストを予定しているものの、GMは財政的な面からUAWはストは打てないと読んで、強気の姿勢に出たのである。GMはUAWから賃下げを勝ちとれば、その賃下げ分を新車価格の引き下げに充てることにしていた。     [3]  チャイは七日にデトロイトでジャック・スミスと話し合った内容を、その日のうちにトヨタ自販北米部長の柳沢に伝えた。柳沢は来日中のダンフォース上院議員をトヨタの工場に案内するため、十一日は朝からトヨタ自工の本社に来ていた。  工場見学の後ダンフォース議員は、英二との会談に臨み㈰米国製部品をもっと買ってほしい㈪米国に工場進出してほしい㈫日本市場を開放してほしい──の三点を要望した。これに対し、英二は「米国メーカーの不振の原因は日本車の急増ではなく、米国の不況にある。とはいっても、それでは問題の解決にはならない。我々は今後、対米輸出は慎重にする」とあたりさわりのない返事をした。  ダンフォース議員は夕方、新幹線で帰京したが、柳沢はそのまま本社に残り、神尾の指示で英二にGM提携の進捗状況を報告した。自工では歴代社長と会長が同じ部屋におり、当然のことながら柳沢の報告には会長の花井正八も同席した。  柳沢は最初に「私は自販の加藤会長と神尾常務に言われて、GMのスミス会長と英二社長の会談を準備しています」とまず自分の立場を説明した。ところが英二からは予想もしなかった答えが返ってきた。 「加藤さんからは確かに昨年末、デトロイトに行った時の報告を受けている。だが私はまだデトロイトに行くとは決めていない」  英二はぶっきらぼうな表情で自分にいい聞かせるようにボソボソと語り始めた。柳沢は困惑した表情を隠せなかったが、それを見て花井が助け船を出した。 「社長、そう肩ひじを張らずに、気軽にデトロイトに行き、スミス会長に会ってきたらいかがですか」  花井の説得に英二はやや戸惑いながら答えた。 「加藤さんの話では、スミス会長は『もし二月にSAE大会に出られるようでしたら、食事でもどうですか』と言ったそうだが、極めて弱い誘いの感じがした。正式な招待状もないし、果たして加藤さんの口約束を真に受けてノコノコ出かけていいものかどうか」  明らかに英二は迷っていたのである。  加藤が年末にデトロイトに行くことは直前に本人の口から直接聞いたが、その時点ではスミスのアポイントは取れていなかった。加藤が「ふらりと行ってきます」と言うのはいつものことである。もし加藤がスミスのところへ押しかけて、ディナーを強要したのであれば、むしろ相手に失礼に当たる。加藤の口車に乗り、デトロイトにスミスに会いに行き、「ところで豊田さんは何しに来たのですか」とでもいわれれば、恥をかきに行くようなものである。  柳沢は神尾から舞台裏の話は一通り聞いてはいるが、提携のシナリオまでは知らない。 「チャイさんの話では、GM社内では豊田社長のデトロイト訪問は既定の事実になっております。社長が米国に行く意思さえ確認出来れば、いつでも招待状を出せる段取りになっております」  柳沢のこの半ば苦し紛れの一言で英二は安心したのか、表情も自然と和らいだ。 「そういうことになっているのなら、私はスミス会長に会うのはやぶさかではない。仮にGMと提携するにしても、合弁生産となると米独禁法の関係で無理なのではないか。一昨年フォードに共同生産を持ちかけた時にも、独禁法の問題がさんざん取りざたされた。GMはフォードより一回りも二回りも大きい会社だ。せめて乗用車のOEM(相手先ブランドによる生産)供給やコンポーネントの供給でまとまればいいが……」  この英二の発言に柳沢は猛然と反論した。 「独禁法の厳しさはGMが一番知っているはずです。今回の提携はそのGMが熱心なのです。GMはトヨタの小型車を欲しがっています。ただし完成車の供給は、輸出規制がある以上困難です。GMは独禁法の存在を承知のうえで合弁生産を考えているのです。何か妙案があるに違いありません」  GMが小型車を欲しがっているとの柳沢の話を聞いて花井が口を挟んできた。 「合弁かどうかは別にして、GMとの共同生産車種は小型大衆車のスターレットがいい。スターレットをFFにする絶好のチャンスだ」 「スターレットのFF化には、これまで花井君が一番反対していたのではないか。君が反対するものだから図面はあっても、まだプロトタイプどころかクレイモデルすらない」  英二は苦笑いしながらスターレット開発の内幕を話したが、花井も負けてはいない。 「スターレットのFF化には開発費のほかに六百億円の設備費がかかる。今の需要見通しでは、FF化しても投下資金を回収出来る見込みがない。しかしGMが興味を持ったとなれば話は別です。むしろFF化する絶好の機会だ。FFスターレットの図面は、そこの社長の机の中で眠っている」  トヨタの最高首脳二人のやりとりを聞いていた柳沢は、共同生産車種がFFスターレットになり得るとの確信を持ち、ころあいを見計らって英二に相談を持ちかけた。 「チャイさんの方から、提携に向けてトヨタの方でもタスクフォースを早急につくってほしい、という要望が来ております。すでにGMでは発足させました。責任者はスミス会長の秘蔵っ子のジャック・スミスです。トヨタの方は今のところ、私が加藤会長にいわれて窓口になっていますが、GMのミッションがきて、技術的なこみいった話になれば、私には荷が重すぎます」  英二はその質問を予想していたのか、あっさり言った。 「君には従来通り、GMとの連絡役をやって貰うとして、自工側の責任者は海外事業室長の田村秀世常務がいいだろう。彼はフォードの提携交渉の時もメンバーに加わっていたので、米国メーカーとの交渉には慣れている」  柳沢は英二から田村の名前が出た時、一瞬嫌な予感がしたが、それを二人の首脳の前で明かすわけにはいかない。柳沢が恐れたのは、田村がトップの考えを忖度《そんたく》し過ぎて、提携を壊す側に回ることであった。  神尾は柳沢から英二がデトロイト行きをためらっているとの報告を聞き、翌日、英二の自宅に電話を入れた。 「柳沢の話では、社長はデトロイト行きをためらっているとか。加藤さんがどう報告したかは知りませんが、私が直接チャイさんから聞いている限り、スミス会長の招待は決して儀礼的なものではありません。会談に同席した米国トヨタ副社長の今井に確認したところ、スミス会長ははっきりと『英二さんを招待したい』と言ったそうです。GMはすでに会談の日程の詰めに入っております。招待の件は、今月下旬に来日するミッションが口頭で言うつもりではないのでしょうか。もし社長が招待状にこだわっているようでしたら、GMから出させるのは簡単なことです」  神尾は一気に電話口に向かって語りかけた。ここまで言われると英二としても自分の知らないところで、提携に向け交渉の下準備が着々進んでいるのを認めざるを得ない。だが疑問はまだある。柳沢はGMが秘策を持っているようなことを言っていたが、果たしてGMは本当に世界一厳しい独禁法をクリアする成算があるのかどうか。  フォード提携の際は、カーター大統領と大平首相の日米首脳会談が下敷きになっており、独禁法対策でも政治的配慮が期待できた。ただその段階にいく前に破綻してしまい、独禁法の問題は社内では本格的な対策を検討しないままで終わった。  神尾は英二が次に何を言わんとしているかは容易に察しがついたので、先手を打って話し始めた。 「独禁法については、加藤さんの指示で自販の法務部が調べています。結論を先に言いますと過去に世界第一位の自動車会社と第二位の会社が提携した例がないので、米連邦取引委員会《FTC》や司法省に申請してみないことには分かりません。しかしGMの基本的な考えは両社が提携する以上、合弁という形を取らない限り、政治的効果は期待できないということです。合弁といっても、実態はGMによるトヨタ車のライセンス生産です。合弁はトヨタにとっても好都合なのです。  合弁であれば実質的にトヨタの対米進出になります。万が一、合弁が独禁法に触れ、米国の司法当局から『ノー』の判定を下された場合、その時点で資本出資を伴わないライセンス生産に切り換えれば良いわけです。ともかく合弁生産を最初から諦める必要がないというのがGMの判断のようです」  英二は事態が次第に飲み込めてきた。最も警戒すべきは秘密が社外に漏れることである。年末に工販合併が何も決まらないまま事前に新聞に漏れたことで、トヨタ自販の社員が動揺し始めていることは、耳に入っている。工販合併はすでに肚《はら》を固めたからよかったものの、GM提携はそうはいかない。 「ところで今回の提携問題では、秘密は守られているのだろうね。年末の工販合併騒動にしても、トヨタ社内の秘密が漏れるのは、いつも自販からだ。トヨタとしては同じ過ちを二度犯すわけにはいかない。今回のGM提携がトップ会談を前にマスコミで報道されれば、提携は諦めざるを得ない。  新聞に書かれた場合のコメントは『GMとは提携交渉はやっていないし、将来も手を組むつもりはない』というものになるだろう。いったん否定のコメントを出した以上、世間を欺いて提携交渉を進められない。ましてや私がデトロイトに行き、スミス会長と会談もできない。当然、自販がこれまでやってくれた苦労は水の泡となる」  電話口で英二の語り口を聞きながら、神尾は英二の経営者としての厳しさに感服すると同時に、提携に対する熱意が次第に高まってきているのを感じた。  豊田英二がGMとの提携工作をトップ会談の前にマスコミに漏れるのを極度に警戒したのは、何ごとにも慎重な性格のほか、トヨタが日米自動車問題で追い込まれていたことによる。  一九八一年(昭和五十六年)の米国市場における米国製乗用車の販売台数は、日本車の自主規制にもかかわらず六百四十九万台と、二十年来の低水準に終わった。半面、日本車のシェアは過去最高を記録した八〇年の二一・三%から〇・五ポイント上回る二一・八%に上昇、二年連続の新記録となった。  日本車の販売台数は確かに減少したが、それ以上に米国車の落ち込みが大きかったからである。当然、米政府、議会、業界の矛先《ほこさき》は日本車、とりわけ対米進出を果たしていないトヨタに向かう。  ビッグスリー、中でもクライスラーはひとまず倒産という最悪の危機は脱したものの、再建にはほど遠く、リーガン財務長官は二度にわたり、渡辺美智雄蔵相に資金面からの再建協力を要請した。クライスラー再建問題は日本政府の問題にもなってきたのである。すでに大蔵省は通産省にも協力を要請、これを受けて安倍晋太郎通産相は省内に協力の具体策を検討するよう指示した。安倍はこの具体策を持って日本、カナダ・米国、欧州の三極通商会議の後、訪米してリーガン長官に提示することになっていた。  クライスラーが一五%資本出資している提携先の三菱自動車工業に支援を求めるのは当然だが、いかんせん三菱自工はトヨタ、日産、マツダ、ホンダに次ぐ国内第五位の中堅メーカーに過ぎず、自ずと協力にも限界がある。  業界の一部には「トヨタがクライスラーの遊休工場を買い取る形で米国に進出すれば、クライスラーの再建だけでなく日米自動車摩擦の緩和にも役立つ。まさに一石二鳥」と無責任な意見も出始めていた。トヨタとしては日米自動車摩擦のシンボルに祭り上げられることだけは、絶対に避けなければならない。  英二がGM提携に慎重な姿勢を示す一方で、マスコミに事前に漏れることを極度に恐れたのは、最初は半信半疑だった組み合わせが、自分の知らないところで着々と具体化し「ひょっとしたら実現するかも知れない」という淡い期待が芽生えてきたからである。  トップ会談の前に提携の舞台裏が明らかになれば、交渉は相手のペースにはまり、交渉のテーブルに上る前に潰れてしまう恐れは十分ある。会談に臨むには、まず相手が本気かどうか確かめなければならない。それを確認する手段の一つがスミス会長からの招待状である。  提携交渉に向けて、相手に提携の意思があるかどうか確認する必要があるとするトヨタ自工。トヨタ自販会長の加藤誠之がデトロイトを訪れたことで「トヨタに提携の意思あり」と判断して、早くも提携に向けて具体的作業に入り、一月下旬のミッションに全力投球しようとしていたGM。この時期、両社の取り組み姿勢には大きな違いがあった。     [4]  チャイは日本人以上に機微にたけているが、トップ会談は既定の事実として受け止め、招待状のことまで気が回らなかった。スミスはトヨタ自販会長の加藤に直接、「豊田英二社長を招待したい」と表明しており、後は事務ベースで日程を調整し、GMのミッションが日本に行った時、口頭で正式に申し込めば済むと考えていた。  しかし、英二の立場をスミスに置き換えてみれば、スミスも同じ注文を出したであろうことは容易に推察できた。英二の危惧は経営者として当然であるのかも知れない。そう考えると英二の胸の内が痛いほど分かった。  チャイは直ちに行動を開始した。デトロイトにいるGM会長のスミスに直接電話したのである。米国時間の十二日。スミスは朝からUAWと労働協約改定交渉に臨んでおり、夕方になってようやく連絡が取れた。  スミスはトヨタの要望をあっさり受け入れ、「招待状の文面は君が考えてくれ。出来上がり次第、私がサインをしそれを君が直接、豊田社長に渡してくれればベストだ」との注文を出した。  GMとUAWの交渉は十一日から始まったばかりだが、十二日には早くも、労使が賃下げ分を新車価格の引き下げに回すことで仮合意した。スミスが周りが驚くほどUAWとの交渉に力を注いだのには、二つの意味がある。  一つは販売に直ちに役立つとの判断である。GMは年明けから中型車の『Aカー』の発売に際して、巨額の宣伝費を投じているが、販売の出足は芳しくなかった。だがUAWの賃下げ分を値下げするとなれば、下げ幅はともかくヤンキー魂をかき立てることは間違いない。スミスは賃下げ分だけでなく、それを機に思い切った現金ボーナス作戦を展開する販売促進策を考えていた。  二つ目はトヨタとの提携が有利に働くとの判断である。仮合意ではUAWは賃下げに応じる代わりに、GMは今後、新車の生産を原則として海外で行わず、米国内を最優先させるという条件が付けられている。一見、GMに不利に見えるが、裏を返せばGMとトヨタが米国で合弁生産を始めれば、UAWは提携に反対する名目がなくなってしまう。  スミスはUAWと仮合意が成立したせいか機嫌がよく、一時間近い長話になり、最後は軽い冗談話も飛び出した。 「豊田さんに会ったら前から一度、聞いてみたいことがあったんだ。トヨタの車はどうしてアルファベットのCで始まるのかを」  クラウン、カローラ、コロナ、クレシーダ、カムリ、カリーナ。確かにトヨタ車にはCで始まる車が多い。  スミスはチャイとの電話を終えた後、ジャック・スミスと商品企画マネジャー、ビル・ラーセンの二人を自室に呼んだ。 「先ほどチャイ君から電話があり、トヨタの豊田英二社長に文書で招待状を出すことになった。招待状の原案作りは彼に任せてある。それに私が目を通しサインをして、チャイ君が日本に行く時に持って行ってもらうことにした。チャイ君に同行するのはジャック・スミス、君とラーセンの二人だ。日本での具体的な行動はチャイ君の指示を仰げ」  ビル・ラーセンはすでに二月一日付で八五年モデルのプロジェクトマネジャーに転出、その後任にジャック・スミスの就任が決まっている。三週間足らずでトヨタ提携のタスクフォースから外れる人間を、あえてミッションのメンバーに加えたのはそれなりの計算があってのことだ。  ジャック・スミスは社内で「カントリーボーイ」と揶揄されるほど素朴な風貌をしている。辛抱強い性格で決して人を怒らない。GMは伝統的に財務部門が絶対的な権限を持ち、財務出身者がトップに立つのが慣例化している。ジャック・スミスはその超エリートコースを歩み、先見性にも定評がある。社内では間違いなく将来を背負って立つ人材と見られていた。会長のスミスはジャック・スミスをトヨタ提携を機に、あえて専門の財務部門から外し、商品企画を担当させることで仕事の幅を持たせようとした。  これに対しラーセンは、ジャック・スミス同様、将来GMを支える幹部の一人と見られた時期もあったが、怒りっぽく、しかも気が短いのが災いして、すでにエリートコースから外れていた。ただし喧嘩するにはうってつけの男である。  スミスはミッションのメンバーに対照的な人間を入れることで、どんな事態にも対応させようとしたのである。うがった見方をすれば、提携の下交渉に失敗すればラーセンの責任にすればいいし、良い結果が生まれれば秘蔵っ子のジャック・スミスに引き継がせればよい。  チャイが七日にGM本社を訪れた時、会長のスミスはUAWとの事前ネゴでデトロイトを留守にしていたが、前日の十一日にジャック・スミスから、チャイを交えて作成したトヨタ提携の骨子と交渉の基本姿勢を聞いている。  チャイがスミスと長電話をして感じたのは、「スミスのトヨタ提携に対する熱意は昨年十二月二十一日から一歩も後退していない。むしろ熱くなってきている」ことである。その夜、さっそくスミスの意を汲んだ招待状の文案の作成に取り掛かった。  親愛なる豊田英二様 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    昨年十二月二十一日のトヨタ自販の加藤誠之会長との会談は極めて有意義なものでした。その後、GM社内では二月一日付で世界商品企画のゼネラル・マネジャーに就任するジャック・スミスを責任者に据え、今回私の親書を持参するチャイ君を含め、いろいろな角度から検討を進めております。    加藤会長には口頭でお伝えしましたように、豊田英二社長が二月にSAE(米国自動車技術者協会)大会に出席するため米国を訪れた際、是非夕食を共にしたいと思っております。私は二月二十四日、午後七時を希望します。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]ロジャー・スミス   チャイはスミスから英二宛ての招待状の原案を考えながら、トヨタとGMの提携はもはや後戻り出来ないところまできてしまったことを感じた。ルビコン河を渡ったのである。  考えてみると、一年前にスミスが思い立ったようにロサンゼルスまで行き、いすゞ社長の岡本利雄にホンダの買収斡旋を依頼したのは、前年の十二月にデトロイトで交した時、スミスとの雑談が発端である。 「GMは小型車戦争で完全に日本車に負けたのです。勝負がついた以上、日本メーカーを取り込んで巻き返しをはかるべきだ」  日本メーカーとの提携は軽い気持ちで、半ば冗談で言ったつもりだったが、スミスはそれを忘れておらず一人で走りだした。  スミスがホンダの名を挙げたのは、ワールドカー、『Jカー』の最大のライバルがホンダの『アコード』だったからである。「ひょうたんから駒」で、提携相手はスズキに代わったが、巨大企業同士の提携でない限り、日米自動車摩擦は沈静化しない。肝心のGMは八一年秋に超小型車『Sカー』の米国生産を断念すると同時に、新たな日本メーカーとの提携を模索する方針を打ち出した。  その矢先にトヨタとの提携案が急浮上した。スミスがトヨタ自販会長の加藤と会談してからまだ三週間しか経っていない。チャイはこの間、GMの幹部にはトヨタ提携のメリットを説き、GMに代わって提携内容まで考えてやった。そして今、英二宛てのスミスの親書を書いている。  チャイが最も警戒しているのは、ジャック・スミスとラーセンを日本に連れて行った時、トヨタ幹部の口から「トヨタはGMに協力してやるのだ」という類いの、半ばGMを見下した言葉が出ることである。  柳沢と話して気がつくのは、相手に悪気はないものの、「GMも販売不振で大変ですね」というニュアンスが言葉の端々に出ることである。トヨタの言っていることをメッセンジャーボーイのように、そのままGMに伝えていれば、ここまで話を進めることが出来なかった。  GMは痩せても枯れても世界一の自動車メーカーであり、GMマンであれば誰でも「トヨタ何するものぞ」との気構えを持っている。そのことはチャイが一番良く知っている。むろん同じ理由からGMの気構えは一切、トヨタには知らせていない。  会長のスミスがミッションのメンバーをチャイを含め三人に絞り込んだのは、社内には依然として日本車メーカーとの提携に反対する勢力が跋扈《ばつこ》していたからである。トヨタ提携はGM社内ではごく限られた人間しか知らない。三人は極秘の特命大使として動くことになった。表向きのキャップはジャック・スミスだが、実質的には�チャイ�大使である。むろん日本に行く時の実質的な肩書きは、米国伊藤忠商事の副社長ではなく、GMスミス会長の全権大使である。  英二が親書を求めたことによって、ミッションの正式メンバーが決まり、指揮系統もはっきりした。同時にミッションの性格もガラリと変わった。当初は事務ベースで提携の可能性を探るのが目的だったが、一気にトップ会談に備えた本格交渉団に格上げされたのである。スミスもチャイも「トヨタには提携の意思がある」と読んでのことである。  チャイはスミスから「私の親書は、豊田社長に直接手渡してほしい」と頼まれた以上、どうしても英二に会わざるを得ない。会わなければ、全権大使としての役目を果たしたことにはならない。 「日本に行ったら毎日でも電話をしてくれ。また二月のトップ会談の時の通訳も頼む」  スミスからこの言葉を聞いた時、チャイは気持ちが高揚するというより、逆に今後の事態の進展が心配になってきた。  GM、トヨタの交渉が順調に進めば、大詰めの段階ではトップ同士の電話連絡も必要になってくる。それをつなぐのも仲介者の仕事である。GMとスズキの場合は、最終局面で株式の譲渡価格を巡ってトップ同士が電話連絡して決めたが、事前にチャイが社長の鈴木修と話し合って合意を取りつけておいた。トヨタとGMではそうした緊迫した局面は二、三回は覚悟しなければならない。そのためにも社長の英二には早目に会っておいたほうが何かと都合がよい。  チャイは高ぶる気持ちを抑えながら、自動車業界の将来を考えてみた。  GMとトヨタの提携は舞台裏の工作は別にして、結ばれるべくして結ばれたともいえる。七〇年代の自動車産業は世界的に弱肉強食の時代で、大が小を飲み込む手段として、合併や資本提携が考えられた。三菱自動車工業がクライスラー、いすゞがGM、マツダがフォードの傘下に入ったのはいずれも七〇年代である。  だが八〇年代は弱肉強食ではやっていけなくなった。GM、トヨタといった巨大企業でも一歩対応を間違えば、たちどころに奈落の底に突き落とされてしまう。GMはすでに小型車戦略の失敗で、その巨体を持て余している。小型車部門を再建しない限り、マンモスと同じ運命をたどってしまう。トヨタも対米進出を果たし、しかも成功させない限り日本の巨大なローカルメーカーに転落してしまう。  ただしこの巨大企業同士が手を結べば、お互いの欠点を補完出来る。トヨタとGMの関係を正確にいえば「提携」ではなく「同盟」関係で、その証として合弁事業をすると意義づけることが出来る。  同盟は単に目先の利害関係から手を結ぶのではなく、NATO(北大西洋条約機構)の思想と同じと考えればよい。八〇年代を迎えた世界の自動車産業が必要とするのは、同盟の思想である。そしてNATOの旧ソ連にあたるのは、産業界に介入しようとする国家権力である。クライスラーの例を持ち出すまでもなく、自由経済を標榜《ひようぼう》していた米国企業でも、経営者が要請したかどうかは別にして国家権力が介入する時代になってきた。  GNP(国民総生産)に占める自動車産業のウエートは、日本は一〇%だが、米国は二〇%、欧州も一五%と高い。欧米各国においては、自動車産業政策を放棄するのは経済破綻を意味する。だからこそ、自動車メーカーの経営が不振になれば、国が経営に介入して、丸抱えせざるを得ない。自国の経済を守るため、やっきになって輸入車の規制に走る。  経済先進国では自動車産業の歴史は再編劇の歴史でもある。米国では今世紀の初めには二百社を超す自動車メーカーが乱立していたが、三〇年代には早くもビッグスリーに集約された。  欧州も第二次世界大戦の混乱期を経て、急ピッチで再編成が進んだ。その過程では国家が介入、英ローバー、仏ルノー、独VW《フォルクスワーゲン》、スウェーデン・ボルボなど欧州の民族系メーカーには政府が出資している。自動車が基幹産業だからである。民族系企業は一国一、二社、多いところでも三、四社に絞り込まれている。乗用車メーカーだけで九社もあるのは日本だけである。  矛盾するようだが、自由経済を守り、国家の介入を排除する手段が巨大企業の提携で、これを実現するにはまさに国家権力がつくった独占禁止法の壁を打ち破らなければならない。GMとトヨタは自由経済の下で、無駄な競争を排除し協調を前面に押し出すことで生きる道を選択しようとしている。いってみれば国家権力(独禁法)への挑戦である。  その意味でトヨタとGMは自由経済を守ることを選挙公約に掲げたレーガン政権に、国家と企業関係について切実な問題を提起したといえる。     [5]  トヨタ・GM提携の最大の難問は豊田英二の指摘を待つまでもなく、米独禁法対策である。この法の目的は経済の活力を維持することにある、大企業によるカルテル活動や市場の寡占化は排除される。米国では株式取得、合弁事業、株式の公開買い付け(TOB)も一般の企業合併と同様、「クレイトン七条」の適用を受け、米独禁当局が「一定の取引分野の競争を減殺する」と判断した場合には、合併などが事実上禁じられ、違反者は提訴される。  米司法省反トラスト局は一九六八年(昭和四十三年)に企業の合併に関するガイドラインを決めた。ポイントは「上位四社のシェアが七五%以上占める業界で、一五%以上のシェアを持つ企業が、同一%以上の企業を相手に合併する時は、反トラスト局は裁判所に告訴出来る」と定めていることである。  合併のガイドラインは企業の業務提携にも準用される。北米市場における乗用車の販売シェアはGMが四四・五%、トヨタは六・八%で、合わせると五一・三%となり過半数を超える。数字を見る限り、株式の持ち合いは論外、合弁による共同生産でもガイドラインに抵触する。トヨタとGMの提携は、誰が見ても世界中で考えられる中で、最も難しい組み合わせである。  一九八〇年(昭和五十五年)七月にトヨタとフォードの提携交渉が公表された時、日本の公正取引委員会の関係者は、否定的な見解を示した。その背景にあるのは七八年(五十三年)暮れに具体化した日立製作所と米ゼネラル・エレクトリック《GE》とのカラーテレビの合弁事業である。  当時、日立の米国市場におけるカラーテレビのシェアは三%、GEが六%で新会社のシェアは合わせても一〇%に満たなかった。ところが司法省反トラスト局は一年後の七九年十一月に、「集積度が高まる恐れがある」との理由で�待った�をかけ、最終的に流産してしまった。  独禁当局が日立とGEの提携で反対に回ったのは「両社の潜在能力が大きく、市場支配力が強まる恐れがある」と判断したからである。トヨタ、GM提携はそれどころではない。 「世界一位と二位のメーカーがなぜ独力で生き延びることが出来ないのか」  こうした素朴な疑問は誰にでもある。レーガン政権は「民間企業の力を引き出す」ことをスローガンに掲げているものの、決して過大視できない。ワシントンでは「今度の政権はメーカーと流通部門といった垂直統合には寛大だが、メーカー同士の水平統合は市場競争を弱めるので反対の立場をとっている」と解説されていた。両社が独禁当局を納得させる材料を見い出せない限り、提携は絶望的である。  だが物事には裏と表があるように、意外と独禁法の条文は厳しいものの、価格協定や市場分割の狙いがないと判断された場合には柔軟に運用される。米国の独禁法は最終的にルール・オブ・リーズン(条理の原則)によって判断されるのである。  トヨタとGMにとって幸いだったのは、米国市場が日本車の対米輸出自主規制下にあり、すでに競争が制限されていることである。合弁会社がGMの遊休工場と能力のある失業者を使って、品質の高いトヨタ車を生産すれば、大幅なコストダウンが可能となる。このコストダウン分を小売価格に反映させ、値下げすればトヨタとGMの競争は今より激しくなる。  さらに合弁会社で生産した車をトヨタも売れば、競争の面でよい結果を生むという見方も成り立つ。両社とも競争が続く措置をとれば、提携が認められる可能性がないわけではない。  米独禁当局は七六年(昭和五十一年)九月に独禁政策強化の一環として、クレイトン法に「第七A条」を追加、「合併事前届け出制」を取り入れた(施行は七八年九月)。事前届け出の対象は単なる合併だけでなく、条件次第で株式・資産の取得、合弁会社の設立も含まれる。  当該企業は提携に関する計画や資料を事前に提出して、独禁当局の判断を仰ぐことが可能になったのである。逆にいえば独禁当局に事前に探りを入れることで、当局から「独禁法違反で起訴しない」というお墨付きをもらい、その範囲内での提携を模索することができる。  トヨタ、フォードの合弁生産が表面化した時は、まだ日本車の輸出自主規制が決まっておらず、仮に両社の交渉が合意しても独禁当局から「ノー」の判断が下される可能性が大きかった。日立とGEのカラーテレビ合弁交渉は事前届け出制の端境期で、この制度をフルに活用できなかったため失敗してしまった。  GMは百人を超す顧問弁護士を抱えている。法律のテクニカルな面での対策は、弁護団の仕事であるが、最大の独禁法対策は当該企業の提携に対する意気込みいかんが分水嶺となる。GMは一月上旬の時点では、まだトヨタ提携に伴う独禁法対策に手を付けていなかった。ミッションの派遣日程はおろか、提携内容も決まっていなかったためだ。  チャイがデトロイトからニューヨークに帰ってきた一月八日、独禁法対策でトヨタとGMにとって喜ばしいニュースが飛び込んできた。米司法省が長年にわたって争ってきたAT&T(米電話電信会社)の反トラスト訴訟を和解に持ち込む一方、同じく反トラスト法訴訟で十二年にわたるIBMとの訴訟も取り下げたのである。  司法省は両社に「消費者の利益が損なわれる」として企業分割を迫っていたが、司法省が譲歩する形で解決を図ったのである。レーガン政権の独禁政策の運用緩和が本物であることが次第に明らかになってきた。  レーガン政権は就任以来、独禁法を貫徹させるか、それとも産業の活性化、コストダウン、雇用に役立つ産業政策を優先させるかの重大な岐路に立たされていた。仮に産業政策を優先させれば「革命という言葉がふさわしい産業政策の転換」である。AT&TとIBMに対する訴訟の取り下げはまさに、米政府の産業政策転換を示す象徴的な例であった。  豊田英二は一月十三日、名古屋のホテルに会長の花井正八などトヨタ自工の最高首脳を引き連れ、重苦しい気分で恒例の年頭記者会見に臨んだ。会見は名古屋を皮切りに、東京、大阪と続く。  前年末に、朝日新聞に工販合併を書き立てられ、一度は否定したものの、年明けに株式市場が開くと同時に両社の株価は敏感に反応した。兜町では、合併比率から新会社のトップ人事までまことしやかに囁《ささや》かれ、トヨタ自販社員の動揺は日増しに高まりつつあった。  沈静化していた日米自動車摩擦も再燃して、米議会の再開と同時に政治問題化する懸念も出てきた。フォード会長のコールドウェルがトヨタとの提携交渉再開に向けて来日するとの噂も飛び交っている。台湾の乗用車工場建設の国際入札も大詰めを迎えている。トヨタを巡る動きはここへきて慌ただしくなってきた。そうした中で年頭記者会見が開かれた。  英二は次から次へと出る質問にてきぱきと答えた。  工販合併問題 「工販の合併は現段階では考えていない。(合併か分離か)メリット、デメリットいずれの場合もある。役員ばかりでなく、部課長の交流など工販が緊密にやれるよういろいろ手を打っている」  日米自動車摩擦への対応 「対米進出については、先頃米上院のダンフォース議員がトヨタ自工に来られた時、工場進出を要請された。我々も昨年来、日米のシンクタンクに調査を依頼してきたが、現段階でも結論を出すに至っていない。ロサンゼルス郊外のロングビーチで小型トラックの荷台を現地生産しているが、品質面はともかく、コスト的には思うような状態にはなっていない。米国で工場運営の難しさを身をもって感じている。全米自動車労組《UAW》が賃下げに応じたようだが、これはトヨタの対米進出問題にも大いに関係がある」  フォード提携の行方 「フォードのコールドウェル会長が来日するらしいが、まだ会いたいとは言ってきてない。向こうが会いたいと言えば、嫌だと断る理由もないが、この前の提携交渉では途中でフォードが米国際貿易委員会《ITC》に提訴したり、いろいろ邪魔されたからね」  台湾合弁事業の見通し 「台湾の合弁計画は昨年来、事業計画の練り直しなど検討を重ねており、年明け後も事務ベースでの折衝を続ける予定だ。国際化比率、輸出比率などの大枠で台湾側と大きな意見の食い違いはない」  会見の発言で分かるように、この時、すでに英二の頭の中からはフォードのことは完全に消え去っていた。  GMのミッションメンバーが決まり、チャイがスミスの親書を持参して来日することは、会見翌日の十四日、マックス・ボーカス議員ら七人の米上下院議員がトヨタを訪れ英二と会談し、それを見送った後、柳沢の口から英二に伝えられた。  スミスからの親書を一番心待ちしているのは英二自身である。GMミッションのトヨタ本社訪問は、すでに二十五日と二十六日の二日間と決めていたが、この時は英二は交渉の開始直前に顔を出す程度で、後は事務当局に任せることにしてあった。だがミッションがスミスの親書を持参するとあっては、顔を出す程度では済まされない。もちろんミッションの性格が大幅に変わったことは、柳沢から報告を受けている。  さらにトヨタ提携をGMが�スミスプロジェクト�として、会長自ら指揮しているのであれば、トヨタもそれに見合った対応をしなければならない。英二は柳沢から報告を聞き終えるとその場で自分の考えを示した。 「GMミッションは予定通り、二十五日と二十六日に受け入れる。その日の夜はGMの三人と一緒に夕食をとり、じっくり話を聞く。スミス会長の親書は事前に私が受け取る。二十一日は東京にいるので花井君、それに田村君(常務)と一緒に三人でチャイさんに会う。夜は空いているので、ホテルで食事しながらでもいい。FFスターレットのプロトタイプはまだ出来ていないが、GMのミッションに開発中の他の車を見せる。どの車を見せるかは二十一日に話を聞いてから決める。工場と研究所は田村君に案内してもらう」  英二は柳沢が帰った後、取締役高岡工場長の安藤隆敏(現関東自動車工業社長)に海外出張を取り止めるよう指示した。安藤は工場建設のエキスパートで、スペイン・セアトとの合弁交渉の時も工場建設にたけていることから自工側のメンバーに選ばれた。  むろん安藤はなぜ海外出張が取り止めになったかは知らない。英二はGMとの交渉に備え、〈安藤は直接交渉に参加はしないが、工場の話が出た時に備え、本社に残しておく必要がある〉と判断したのである。  英二は会長の花井は別にして、下に命令を出す際、決して理由は言わない。副社長以下の人間は将棋の駒と同じように自由に操る。また操られる方の人間も「なぜそうなのか」という理由を絶対に聞かない。トヨタ自動車の創業者は間違いなく発明王・豊田佐吉の長男である豊田喜一郎だが、それを引き継ぎ「世界のトヨタ」に育てたのは佐吉の甥に当たる英二である。英二こそが実質的な創業者である。当然のことながらカリスマ性があり、社内では畏敬の念を持って見られている。     [6]  チャイは伊藤忠本社やいすゞとの打ち合わせがあるため、GMのミッションよりひと足先の二十日に東京に着くことにしていた。神尾は台湾プロジェクトの打ち合わせのため、入れ違いに、同じ日に台湾に出発する。二十一日の英二とチャイの会談には同席できないが、チャイとは帰国後の二十四日に名古屋のホテルで会うことにした。  神尾は二十一日の会談に常務の田村が出席することを聞いて、柳沢と同様一抹の不安を抱いており、彼に舞台裏を多少は話そうかと思った矢先、田村自身から電話が入った。 「私はフォードとの提携には疑問をもっており、積極的になれませんでしたが、今度のGMは明らかに違う。私としては絶対にまとめたいと思っています」  この一言を聞いて神尾は安心した。  トヨタがGMのミッションを受け入れる態勢は整った。あとはチャイがスミスのサイン入りの親書を携えて来日するだけである。チャイは自分が書いた親書の原案をGMの関係者がチェックし、それにスミスがサインして、再びニューヨークのチャイのところへ持ってくる段取りになっている。  GMとのUAWの労働協約改定交渉は十二日にUAWが賃下げに応じ、それを新車価格の値下げに反映されることで仮合意したが、その後、賃下げ幅や職場保証を巡り、土曜、日曜を返上して激しいやり取りをしていた。スミスはUAWとの交渉の陣頭指揮をとっており、ほとんど会長室の席を温める暇はなかった。  チャイがニューヨークのケネディ国際空港を発つのは現地時間の十九日の朝である。月曜日の十八日中に手元に親書が届かなければ持参出来ない。そこで会長秘書に電話をして、秘書をUAWとの交渉の席に強引に割り込ませ、サインをしてもらい、それをGMの会長専用機を使ってジャック・スミスにニューヨークまで持ってきてもらうことにした。サイン入りのスミスの親書がチャイの手元に着いたのは十八日の夕刻である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  親愛なる豊田英二様    昨年、十二月二十一日はトヨタ自販の加藤誠之会長の訪問をいただき、感謝しております。その後の動きにつきましては、私の代理としてこの親書を携えたジェイ・W・チャイ君から報告を受けております。豊田英二社長は二月にデトロイトで開かれるSAE(米国自動車技術者協会)大会に出席されるようですが、その時、ご多忙ではございましょうが、是非直接お目にかかり、世界の自動車産業の将来について一晩語り明かしたいと思います。よろしければ二月二十四日はいかがでしょうか。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]ロジャー・スミス   スミスのサインが入った親書の本文は最終的にチャイが書いたものと一字一句違わなかった。スミスが「Mr.Toyoda」で始まった原文をわざわざ「Dear Toyoda」に直したのは、儀礼的な色彩をなくし、より友好的なものにしたいという配慮からである。  GM会長のスミスはチャイが日本に向けて出発した日、グループ担当副社長以上の幹部を集め、緊急の経営会議を開いた。この日のテーマは「トヨタ」で、オブザーバーとしてチャイとともにトヨタミッションのメンバーに選ばれたジャック・スミスとビル・ラーセンが参加した。  最初にスミスが昨年十二月に、トヨタ自販の加藤会長がGMを訪ねてきて、トヨタから提携を打診された経緯を説明した。提携は両社折半出資による合弁の共同生産に絞り、近くジャック・スミスとラーセンがトヨタ自工の本社を訪れて下交渉を進め、二月下旬にデトロイトで豊田英二とのトップ会談を行い、その席で提携の基本線を打ち出し、その後、本格交渉に入るスケジュールも併せて報告した。むろんGMの小型車計画が挫折しつつある現状を踏まえ、トヨタ提携のメリットも十分過ぎるほど説いた。  すでに副会長のカール、社長のマクドナルド、海外グループ担当副社長のウォーターズの三人には事前に相談して、同意を取り付けてある。しかし幹部全員が賛成するとは限らない。  予想通り北米グループ担当の副社長が異議を唱えた。 「トヨタは目先の政治的な圧力をかわすため、GMとの提携を考えているのではないか」  これを契機に議論の中心は、「トヨタは果たしてどの程度本気でGMとの提携を考えているのか」に移った。スミスがチャイを含めたいわば腹心三人をトヨタに送り、そこでトヨタの真意が目先の政治的な圧力をかわすことにあるのが分かれば、ピエロになるのはGMである。反対論者の根拠はこの一点に集中した。  だがGM幹部の中でトヨタの実情はおろか、日本車メーカーの正確な動きを知っている者は誰一人としていない。議論は延々と続いたが、最後にスミスが断を下した。 「われわれは日本のことについて、これまですべてチャイ君に任せてきた。チャイ君のやったことでGMにマイナスになったことは一度もなかった。彼はすでに非公式にトヨタと折衝を始めており、トヨタは本気でGM提携を模索しているとの感触を得ている。途中経過の情報はすべて私のところに届いている。今回もチャイ君の情報を信じて、トヨタとの交渉に入る。そのために三人をトヨタに派遣する」  スミスは経営会議の席でトヨタ提携には不退転の決意で臨むことを表明したのである。  GM会長の親書を携えたチャイは予定通り二十日の夕刻、ニューヨーク発のPAN(パン・アメリカン航空)直行便で来日した。宿泊先のホテルオークラには神尾の名前で花とウイスキーが届いていた。  ホテルに着くなり柳沢から電話があり、豊田社長との会談が英二に急用ができたため、二十一日の夜ではなく、夕方五時に繰り上がり、場所もホテルオークラから東京・日比谷の三井銀行本店ビルにあるトヨタ自工東京支社に変更になったことを知らされた。同時にGMミッションに見せる開発中の新車はスミス会長からの親書を受け取り、チャイの話を聞いてから決めるという英二の意向も知らされた。  柳沢はチャイが気分を悪くするのを懸念したが、チャイは「そういうことは経営者として当然のこと。万が一、私がGMのスパイだったらトヨタは相当なお人好しの会社ということになる」と返事した。  チャイは柳沢を安心させるためそうは言ったものの、自分の責任の重さを痛切に感じた。二十一日は紛れもなく、トヨタ幹部による�首実検�である。この時チャイはGM会長の全権大使とはいえ、一介の商社マンにトヨタの最高首脳が長時間会ってくれる以上、毅然とした態度で、スミスの意向を伝えなければならないが、同時に誠意を示さなければならないと思った。チャイの言う誠意とはトヨタに媚びることではない。「話の成り行き次第でGMの極秘資料を見せる」ことである。  チャイの感覚ではGMとトヨタの提携の趣旨は、「パーティーを割り勘でしかも和気あいあいにやろう」ということである。そのパーティーでGMが提供するのは米国市場と生産設備、トヨタは製品とカンバン方式に代表される生産方式である。割り勘である以上、GMはトヨタから開発中の新車を見せてもらえる権利がある。  二十日は時差ボケと興奮した気分で眠れないまま夜を過ごした。ベッドの中でいろいろなことを考えた。 〈世界一位と世界二位の自動車会社の提携は、一年前だったら誰も考えつかなかった。仮に考えついたとしても実現性は皆無だった。タイミングは今を外したら永久に巡ってこない。GMの恐ろしいところは、操業率が五〇%を切り目先の収益が悪化しても常に将来のことを検討していることだ。八五年モデルの製品企画の責任者になったラーセンは早くも、GMが共同生産車種として考えている次期FFスターレットを計画に組み込んでいる〉  神尾はチャイと入れ違いに二十日の朝、羽田空港から台湾に飛び立ったが、前日、台湾プロジェクトの打ち合わせを兼ね、英二に電話をかけた。ここで神尾は英二がGM提携で一つ心配していることに気がついた。 「GMとの提携は両社にメリットがあるのははっきりしている。しかし、GMがトヨタから小型車の技術を買い、小型車戦略が軌道に乗れば、トヨタはGMに捨てられてしまうのではないか」  その時、神尾はチャイから聞いたことを思い出し、懸命になって英二の懸念を取り除こうとした。 「GMは目先だけでなく、長期的な展望に立った提携を望んでいます。今回の提携は自動車業界の巨人同士、いわば東と西の横綱が手を組むのですから、事業は半永久的なものにしたいというのがスミス会長の意向です」  スミスも似たような懸念を持っていた。英二がデトロイトに来た時、チャイからトップ会談の前にテクニカルセンターのほか二、三の工場を見せてほしいという要請を受けたが、即答を避けた。技術者でもある英二から「GMが自慢するテクニカルセンターといっても、しょせんこの程度のものか。工場もトヨタに比べれば余りにもお粗末」と見下されるのを恐れたからである。 [#改ページ]   第四章[#「第四章」はゴシック体] 駆け引き [#改ページ]     [1]  チャイの長い一日が始まった。  日本に着いた二十日は時差ボケと神経の高ぶりから、結局二時間くらいしか眠れなかった。昼前に、正月明けから風邪をこじらせ東京・大森のいすゞ病院に入院しているいすゞ社長の岡本利雄を見舞い、その後ホテルに迎えに来たトヨタ自販北米部長の柳沢と一緒に、九段上にあるトヨタ自販東京事務所に会長の加藤誠之を表敬した。  チャイは、柳沢はむろん加藤と顔を合わせるのはこの日が初めてだが、加藤はにこやかな顔で、昨年十二月にスミスとの会見をアレンジしてくれた礼を言った。チャイはトヨタ提携に向けGMの基本的な考えを伝えると同時に、スミスが豊田英二社長に宛てた親書を持参したことも併せて報告した。加藤はチャイの話を目を細めて聞きながら、「スミス会長からの親書はとても有り難い」と満足気に語った。  チャイは「今月二十九日に開かれるいすゞの株主総会に出席するため、近くGMのアジア・アフリカ担当副社長のマコーミックが来日します。加藤さんがスミスに会った時に議事録をとるため同席した男です。ぜひ会ってやってください」と要請した。マコーミックに加藤を表敬訪問するよう指示したのは、ほかならぬスミスである。チャイもマコーミックの口を封じるため、加藤のアポイント取りを買って出たのである。  帰り際、廊下で社長の豊田章一郎を紹介され名刺を交換した。いったんホテルに戻り、日比谷のトヨタ自工東京支社に向かったのは四時半過ぎである。  トヨタ自工東京支社は日比谷にある三井銀行本店ビル四階の全フロアを借り切っている。柳沢と一緒に役員専用の応接間に通され、約束時間の五時を回るとやや小太り気味の英二、対照的に痩身の花井、やや間隔をおいて小柄な田村が入ってきた。  チャイは米国伊藤忠商事副社長の名刺を出し、緊張しながらGM会長の全権大使として来たことを説明した。英二はチャイから渡された名刺を怪訝《けげん》そうな目付きで見ている。チャイは本題に入る前に何はさておき、スミスから託された英二宛ての親書を手渡した。  英二はその場で開封し、食い入るように読んでいる。無言の時間が過ぎ、英二の顔にみるみる間に困惑が広がっていく。手紙を読み終えると、それを花井に渡して両腕をソファに置き、両目を閉じたまま天井を向いている。そして重い口を開いた。 「私はまだ米国に行くと決めたわけではありません。加藤さんはなぜ私のスケジュールを勝手に決めてしまうのか。実はスミス会長が指定してきた二月二十四日は小石川・後楽園に建設しているトヨタ東京ビルの竣工式なのです。加藤さんはそのことを知っているはずです。困ったことになった」  困ったのはチャイも同じである。なぜこんな初歩的な手違いが起きてしまったのか。二月二十二日から始まる週に英二をデトロイトに招待する件は、スミスが直接、加藤を前に提案したものである。それ以降も神尾にも柳沢にも繰り返し話をしている。チャイは改めて工販の情報ギャップの大きさに驚かされた。  お互いに頭を抱えていても、沈黙が続くだけである。しかしチャイは相手が打開策を示さない限り、提携に向けて具体的な話を切り出すことは出来ない。  それを察したのか英二は「スミス会長の親書に対する返事は、チャイさんが帰国するまで待ってください」との妥協案を示した。  チャイは今回の提携話は、加藤さんが昨年十二月にスミスに会談を求めてきたのがきっかけであること、GMとしては提携は合弁による小型車の共同生産を考えていることなどGM側の基本構想を話した。  トヨタの最高首脳は食い入るようにチャイの話に耳を傾けていたが、会長の花井が英二の顔を見ながら突然ひとりでうなずきながらつぶやいた。 「トヨタとGMの組み合わせは、まさに天の声だ」  これに勇気づけられたチャイは、おもむろにカバンの中から数字がビッシリと書き込まれた分厚い書類を出して説明し始めた。日米メーカーの小型車のコスト比較調査である。チャイは数字を示しながら、必死になってトヨタとGMの提携のメリットを説いた。 「現在、米国は自動車不況ですが早晩回復します。GMは八五年には米国市場の小型車需要は二百万台と予測しています。そのうち四〇%にあたる八十万台はGMブランドで売りたいと思っております。しかし残念ながら、今のGMにそれだけの車を作る力はありません。日本の提携先のいすゞやスズキのみならず韓国の提携先からも調達を予定していますが、まだ四十万台ほど足りません。なぜGMが小型車を作れないかは、この調査結果を見てもらえばご理解いただけると思います」  英二も花井も日米のコスト比較調査を見ながら、チャイの話を真剣になって聞いている。チャイは独禁法の問題についても、レーガン政権になって以来緩和の方向にあり、合弁生産の可能性が皆無ではないとの見通しも示した。二人の最高首脳が合弁事業に興味を持っているのは表情を見ていれば自然に分かる。 「GMとの提携話はトヨタにとっても渡りに船。是非まとめたいのでひとつ宜しく」  チャイはこうした楽観的な答えを期待して一つの要望を出した。 「共同生産するにはトヨタがどんな車を開発しているかを知らなければ、交渉を進めようがありません。来週ジャック・スミス、ビル・ラーセンと共にトヨタ自工本社を訪ねます。その時ぜひ開発中の車を見せて下さい」  チャイは小型大衆車の次期スターレットについて、トヨタがFFに切り換えるかどうか迷っており、プロトタイプどころかまだクレイモデルすら作っていないことは承知している。見せて欲しいと要望したのはそれ以外の車である。開発中の車を見せてもらい、テストコースで実際に乗り回し、開発の責任者から説明を受ければ、トヨタ車の開発思想や作り方まである程度推測できる。  ところが英二からはまたしても期待を裏切る答えが返ってきた。 「トヨタの場合、新車のプロトタイプは作ってもすぐ分解してしまいます。これを復元するには時間が必要です。研究所に問い合わせてみなければ分かりませんが、確かこの時期はほとんどのプロトタイプは分解しているはずです。今回プロトタイプの車をお見せするのは、無理かも知れません。その代わりと言ってはなんですが、新車に関する写真や資料ならお見せできます」  チャイは明らかに失望した。しかし、ないものねだりしてもラチがあかない。時計はすでに六時半を回っている。予定では会談は一時間だが、すでに三十分近くもオーバーしている。押し問答するのも大人気ない。チャイは最後に今後の交渉姿勢を提案した。 「今回の提携交渉でお互いに�技《わざ》�を使うのだけはやめましょう。技を使えば仮に提携しても長続きしません。GMとトヨタは世界第一位と第二位のメーカーなのですから、お互い横綱相撲を取りましょう。横綱同士の相撲には�待った�はありません。一回待ったをやると、その後呼吸が合わなくなります」  チャイは二人のトヨタ最高首脳を前に緊張していた。この日の会談は入社試験の面接のようなものである。通常の面接試験と違うのは、状況に応じて時には学生になったり、面接官になったり、お互いの立場が時により入れ替わることである。  その面接試験で最低限トヨタのGM提携に対する意欲は確認できたが、具体的な成果が得られないまま終わった。期待感が大きかっただけに、逆に失望感はそれ以上に大きい。帰り際、英二から「名古屋ではゆっくり飯でも食いながらもう一度、話し合いましょう」と提案されたものの、トヨタがどうしてもプロトタイプを見せたくないと言うのであれば、ジャック・スミスとラーセンを連れてトヨタ本社に行く意味は半減する。  チャイが懸念したのは、これまでの経緯からして、二月二十四日のトップ会談が実現しなければ、提携話そのものが交渉に入る前に白紙還元してしまう恐れがあることである。  スミスはトヨタが工販に分かれていても、一つの会社と思っている。加藤が英二の親書を持参した以上、トヨタを代表してデトロイトに来たと判断していた。その加藤と合意した会談日程を、英二の都合で勝手に変更するわけにはいかない。豊田社長は予想以上に早いテンポで事が進んでいるのに驚いている様子だが、本当に提携する意思さえあれば、テンポがいくら早くとも問題はないはずである。  ジャック・スミスとラーセンが来日して、今日の自分と同じ印象を持てば、彼らはそのままストレートにスミス会長に伝えるだろう。もしトヨタ本社での話し合いの席で、豊田英二が今日と同じようにかたくなな姿勢をとり続け、二月二十四日のトップ会談もキャンセルするようなことになれば、彼らが会長に報告する前に、会談そのものを潰さざるを得ない。  スミスは極めてプライドが高く「頭を下げてまで、トヨタと提携する気持ちは毛頭ない」ことはチャイが一番良く知っている。もちろんチャイ自身トヨタに頭を下げて、GMとの間をとり繕う気はさらさらない。  会談を終えた後、チャイは柳沢と田村を交えた三人で赤坂の日商岩井本社の最上階にあるフランス料理のレストラン、「クレール・ド・赤坂」で夕食を共にした。ここでも工販の情報ギャップの大きさに驚かされた。  チャイは目の前にいる柳沢に「一体、トヨタはどうなっているんだ」と声を大にして聞きたかったが、そばに田村がいては面と向かって罵倒《ばとう》するわけにもいかない。それを察したのか柳沢は、「二月二十四日に自工東京ビルの竣工式があることは、実のところ私も今日の今日まで知りませんでした。加藤会長も神尾常務も知らないはずです」としきりに弁解した。  肝心の田村といえば「GMと提携するのが、トヨタの永年の夢でした」と前向きの姿勢を示し、「GMと提携するには、その前にフォードとの問題にケリをつけておかなければならない」と独り言を言う。  夕食は話が全くかみ合わないまま九時前に終わった。チャイは自工側のGM提携に対する意思がまだはっきり固まっていないことを身をもって知らされた。冷静に考えてみると、興奮しているのはGMだけで、肝心のトヨタはまだその段階にきていないのである。その責任の一端はチャイ自身にある。トヨタ提携を煽《あお》ったのはチャイ自身だからである。  そのことに気がつき別れ際、田村に一言だけ言った。 「これから我々はもっと冷めた目で考えてみます」  食事の前まではジャック・スミスとラーセンの来日をやめさせることも考えていたが、提携のポイントとなるトップ会談の日程とプロトタイプを見せてもらうことは宙に浮いたままになっているものの、最低限トヨタの提携に対する意欲そのものは確認出来たので、気を取り直し予定通り二十四日に来日させることにした。  ともあれ賽《さい》は投げられた。その答えは来週には出る。チャイの長い一日は終わった。     [2]  豊田英二はスミスが自分に宛てた親書を読んだ時、正直言ってびっくりした。内容は一緒に食事したいという簡単なものだが、具体的な日時まで指定されている。 〈二月二十四日の友引の日にトヨタの東京における表屋敷ともいうべきトヨタ東京ビルの竣工式を行うことは、昨年秋に決めている。それを加藤さんが知らないはずがない。加藤さんが忘れたのだろうか。それとも秘書の手違いだろうか。手違いなら致し方ないが、加藤さんがデトロイトから電話一本かけてきてくれたら、こんな無用の混乱は防げたはずである。  加藤さんからは確かに年末に「スミス会長は豊田さんが米国に来られるなら、一緒に食事でもとの誘いがあった」との報告を受けたが、時期については何も聞いていない。誘いのニュアンスがあまりにも弱かったので、柳沢が本社に来た時、「正式な招待状があれば」と相手の意思を確認するような返事をしたが、まさかこんなに早く、しかも場所と日時まで指定してくるとは思ってもみなかった。それにしてもチャイというのはどんな男なのだろう。名刺には米国伊藤忠商事副社長とあり、「私はGM会長の代理人」と自己紹介していた。韓国系米国人で日本には住んだことはないといっていたが、日本語がやたらとうまい。しかも相撲の話は玄人はだしである。それ以上に、驚くほどGMの内情を知り尽くしている。極秘と言って見せてくれた資料はGMの人間、それも相当上の人間でなければ分からないものだ〉  英二はチャイが帰った後、〈もしかしてチャイという男は、やはりGMの人間ではないか〉と思い、念の為、ホテルでGMの組織図を広げて見たが、翌週トヨタ本社にくるジャック・スミスとビル・ラーセンの名前は載っているが、チャイの名前はいくら探しても見つからない。 〈一体あの男は何者なのだろう。本当に信用してよいものだろうか。チャイが言ったことを額面通り受けとれば、トヨタにとってこんなにいい話はない〉  英二は直接チャイの身分を伊藤忠に問い合わせることも考えたが、本人が米国伊藤忠の副社長としてではなく、GMの代理人として来たと言っている以上、下手には動けない。創業者・豊田喜一郎の妹婿で、初代社長の豊田利三郎が伊藤忠出身ということもあり、繊維を通じて豊田自動織機と伊藤忠の関係は深まり、二代目伊藤忠兵衛さんにはトヨタ自工の発足直後から戦後の二十一年末まで監査役に就いてもらった。こうした関係から伊藤忠の元社長、越後正一さんとは個人的な面識があるものの、いかんせん取引がないので会う機会がなかった。  トヨタは戦後の混乱期に労働争議に巻き込まれ、倒産寸前まで追い込まれた。当時、自動車用薄板は川崎製鉄からも購入しており、伊藤忠は川鉄の指定問屋だった。しかし、トヨタが倒産の瀬戸際に追い込まれていた時、川鉄は社運をかけて千葉製鉄所の建設にとりかかっており、不良債権の発生を恐れ、トヨタとの取引を中止してしまった。伊藤忠はその巻き添えでトヨタとの関係が切れてしまった。  トヨタに見切りをつけたのはむろん川鉄だけではない。住友銀行、日本興業銀行など当時三下り半をつきつけた企業とトヨタはその後一切、取引をしていない。  倒産騒ぎの時、経理課長として金策に走り回っていたのが会長の花井正八である。トヨタは「乾いたタオルをなお絞る」式の徹底した合理化で有名だが、花井はその陣頭指揮をとっており、石田退三の「自分の城は自分で守れ」を実践してきた。企業が苦境に立たされた時、金融機関が全く頼りにならないことを身をもって知り、爪に火をともしながら蓄えた余裕資金はようやく一兆円を超した。そして今や「トヨタ王国の陰のドン」とさえいわれるような力を持っている。  トヨタ自工の六十年の歴史の中で、副社長から会長になったのは戦前、英二とともに豊田自動織機自動車部に大卒第一号として入社した斎藤尚一と花井の二人だけである。  英二と花井が「一卵性双生児」とまで揶揄されるようになったのは、斎藤が一九七二年(昭和四十七年)に代表権のない会長に就任し、事実上第一線を退いてからである。花井が代表権を持った会長に就任したのは七八年(五十三年)である。そして就任早々、「トヨタの会長は社長マイナス」とトヨタにおいての会長は社長に次ぐNo2であることを宣言して、経営の第一線からは退かずトヨタの大番頭として経営の隅々にまで目を光らせていた。  世間に花井の評価を決定づけたのは、第一次石油ショック後の、数度にわたる鋼材の値上げ交渉である。値上げの根拠を巡り、高炉メーカーは新日本製鉄会長、稲山嘉寛の唱える「価格=コスト+適正利潤」という�稲山理論�を展開したのに対し、トヨタは「価格─コスト=利潤」という�花井理論�で対抗した。  一度は稲山理論に押し切られたものの、七五年(五十年)の交渉では遂に一トン買っても、百トン買っても値段は同じという、鉄鋼側が唱える「一物一価の法則」の切り崩しに成功した。次の七七年(五十二年)の交渉では、ついに建値まで値切り、稲山をして「ああいう人が鉄鋼業界にいたら……」と悔しがらせた。  トヨタの高収益の秘密は、豊田喜一郎の愛弟子ともいうべき英二の「良い車をつくりたい」という技術者魂と、�トヨタ中興の祖�石田退三の一番弟子を自任する花井の「安く車をつくる」金銭哲学が一致したためともいえる。  英二は技術屋のせいか語彙《ごい》が少なく、表現力も乏しい。どうしても舌足らずになりがちで誤解されやすい。その点、花井は口八丁手八丁で、英二の代弁者としてうってつけである。英二が立場上いえないことも花井が代弁する形で放言すれば、ことは荒立たないですむ。  花井が社内No2としての立場を遺憾なく発揮したのが、工販合併とフォード提携交渉である。英二が本気で工販合併を考えたのは、晩年、自販の神谷正太郎の公私混同が激しくなったからである。英二としては神谷の過去の功績を考えると、たとえ神谷の公私混同が激しくなっても、面と向かって文句をつけ難い。  そうした英二の立場上の苦悩を知り、花井は意識的に「トヨタ自販は自工の子会社」と発言、自ら悪役を買って出て工販合併の地ならしをする一方、その側から自販株を積極的に買い増した。合併すれば自販株を消却しなければならないにもかかわらずである。  一方、フォード提携に際しては、本格交渉が始まった途端、外資特有の交渉のやり方に英二が意欲をなくしたと見るやこれを逆手にとり、「まとまらないよう、といって短期間で壊れないよう、引きつけておくだけで十分」というじらし戦法をとった。フォードとの提携交渉で花井の意を受けて動いたのが、常務の田村である。  といって花井は決して鎖国論者ではない。経営哲学は政治よりソロバン優先である。対米工場進出を拒んでいるのは、単独進出ではどう計算しても間尺が合わないからである。日産社長の石原俊も花井と同じ経理畑の出だが、石原は政治効果を重く見て、先に進出を表明し、その後で採算が合うよう工夫する。  花井が政治音痴といえばそれまでだが、その点、英二も同じである。二人に共通するのは政治圧力にはテコでも動かないが、いったん採算が合うとのソロバンがはじければ、米国が「ノーサンキュー」といっても進出することである。  英二はチャイの身分が分からず、GMミッションの対応に苦慮していたが、花井はGM提携に乗り気になっていた。スターレットが共同生産車種に決まれば、FF化する絶好のチャンスである。相手がGMならリスクはフォードの時よりもはるかに少ない。ソロバンをはじく前から採算が合うのは分かり切っている。 〈ここは黙ってGMの提案に乗るべき。両社の提携はまさに天の声だ〉  田村はまだ英二と花井の胸の内は知らない。豊田社長とチャイの表面的なやりとりを聞いていて、「豊田社長は(GM提携に)決して乗り気ではない。花井会長は『GM提携は天の声』と言ったが、しょせんお客さんに対するリップサービス。仮にまとめるにしても、最初は相手を揺さぶるだけ揺さぶり、その後でじっくり話を聞いてからでも遅くはない」と受け止めた。この時の田村の判断がその後、混乱に輪をかける原因となる。  チャイと会うことになっている二十一日の朝、豊田英二の機嫌は決して良くなかった。前日に一部の新聞に「トヨタ工販、対等で合併」と書きたてられ、トヨタは否定したにもかかわらず、株式市場の混乱は収まらず、トヨタ自販株が連日ストップ高を演じたためである。  前年十二月二十八日、大納会の東京株式市場で自工株の終値は千円ちょうど。自販は五百七十円で引けた。それが大晦日に合併構想が報じられ、一月四日の大発会は自工が二十円高、自販が三十一円高とともに大幅高を演じた。株価はその後一進一退をたどり、十三日の名古屋での年頭記者会見で正式に合併説を否定したことから、自工株は千円強、自販株は六百円前後と前年末の水準に戻った。  だが対等合併説が流れては、投資家の目の色が変わるのは当然である。工販の力関係はともかく、財務内容を見ると一株当たりの純資産が自工五百九十二円に対し、自販五百七十七円、同じく一株当たり純利益も自工六十九円に対し自販六十五円となっている。  これを見る限り対等合併でも少しもおかしくない。対等なら「トヨタ自販株は買い」である。対等合併説が流された二十日の終値は自工株が千十円、自販株はストップ高の六百九十円である。翌二十一日は自工株が九百九十二円と前日比十八円安と急落したのとは対照的に、自販株は一時八十七円高まで買われ、終値は三十五円高の七百二十五円で引けた。  こうなると流れを止めるのは至難の業である。対等合併説が流れた二十日、トヨタ自販は名古屋市の愛知厚生年金会館で「トヨタ自動車販売店協会代表者会議」を開いた。ディーラーの関心は工販合併の行方にある。  トヨタ自販会長の加藤誠之はそれを知ってか知らずか「今年は国内外とも厳しい。オールトヨタの総力を上げ、国内百六十万台達成を目指すとともに、南半球を中心としてグローバルな海外戦略を展開したい」と檄《げき》を飛ばした。  この段階で出席者がトヨタ首脳の口から直接聞きたいのは、目先の販売方針より本当に工販が合併するのかどうかである。それを察したのか、加藤の後に壇上に立った社長の豊田章一郎は「一部で報道された工販の合併は、現在検討していない」と重ねて否定した。ディーラーとしては豊田家の御曹司で、しかも自販のトップである章一郎が言う以上、それを信じないわけにはいかない。  英二は否定声明を出したにもかかわらず株式市場が一向に沈静しないことから、合併の発表時期を早めることを真剣に考えていた。株価が先行し、合併が既成事実化すれば自販社員の動揺が増すだけである。年頭記者会見は名古屋に続き二十二日は東京で開かれる。続いて二十六日は新車発表が待ち受けている。トヨタの部長以下の定期人事異動は二月一日が発令日だから遅くとも二十七日には内示しなければならない。  実は英二が肚の中で決めていた合併時期は七月一日である。六月期決算の自工と三月期決算の自販が一緒になるとすれば、合併期日は七月一日しかない。これから逆算すれば四月に発表して、五月に臨時株式総会を開けば十分間に合う。  合併比率は無論のこと、まだ新会社の首脳人事も決めていない。だが株式市場の思惑を排除し、自販社員の動揺を抑えるには、合併の発表を早めるしかない。土日を返上して徹夜で事務的な作業を詰めれば、何とか二十五日の月曜日の役員会には間に合う。  この日は自販も役員会がある。定例の労組との懇談会も前から設定されており、その席で合併を提案すれば、労組との信義も守ることが出来る。  二十二日昼、東京・丸の内のパレスホテルで開かれた東京での新春記者会見での質問は予想通り、質問は工販合併問題に終始した。英二は正直というべきか、嘘をつけない性格というべきか、明らかにそれまでのニュアンスと異なる発言をした。 「合併については否定も肯定も出来ません。今日のところはこれでご勘弁下さい」 「ということは、近く発表があると理解していいのですね」とたたみかけられ、「情勢次第。といってまだ最終結論に達していない」と逃げたものの、後の祭りである。実質的に合併を認めてしまったも同然である。  会見後の懇談会で花井は「トヨタ東京ビルはかなり大きいようですが、使い道はあるのですか」と聞かれ、「すでに使い道は考えている」とつい口を滑らし、小石川に建設中のビルは新生トヨタ自動車の東京表屋敷になることを暗に認めてしまった。  一月末に完成するトヨタ東京ビルは、地上十九階、地下五階建てで十六階以上が役員専用フロア。一階から八階までを関係会社の豊田通商が使い、残りが自工の事務フロアとなっているが、とうてい自工だけでは使い切れない。  その日の深夜、英二の合併のニュアンスを確認するため、大勢の新聞記者が東京・赤坂、一ツ木通りの裏手にあるトヨタ自販社長の自宅を訪れた。豊田章一郎は新聞記者を前に今後の合併スケジュールを語った。「(合併は)これから検討するが、(合併を)するとなれば、工販合同の合併準備委員会を設置して、具体的な進め方を詰めていくことになろう」     [3]  トヨタ自販常務の神尾秀雄は、合併騒動が最高潮に達した二十二日の夜、台湾から帰国した。柳沢から二十一日のトヨタ首脳とチャイとの会談で決して満足した結果が出なかったことは、国際電話で報告を受けている。  二十三日は土曜日にもかかわらず朝から出社し、出張中にたまった事務書類に目を通した後、早目に東京・大森の自宅に戻り、まず会長の花井の自宅に電話を入れた。英二に本心を聞く前に、花井から二十一日の会談の様子を聞きたかったからである。  花井とは八時過ぎに電話がつながり、英二の懸念はチャイの身分にあることが分かった。二月二十四日にトヨタ東京ビルの竣工式があるのは正直、神尾も知らなかったが、花井に自工の不手際をなじっても問題の解決にならない。  英二は間違いなくGM提携に興味を持っている。しかし招待された二月二十四日はどうしてもデトロイトには行けない。しかし行かなければ、提携交渉はつぶれてしまう恐れがある。そのことを神尾はくどいほど花井に話した。ことの重大性を理解した花井は、逆に神尾に相談を持ちかけた。 「どうだろう。フォードのときのように、今回もGMのスミス会長に日本に来てもらうわけにはいかないのだろうか」 「それは無理です。GMはフォードとは違います。どんなに隠しても、GMの会長が来日するともなれば、必ず漏れます。それ以前に今回の経緯からして、スミス会長を日本に呼びつけることなどできません。そんなことをしたらトヨタの見識が疑われます。デトロイト行きは最悪の場合、日程を変更するしかありません。それより何より、英二社長はGM提携に何を迷っているのですか。これから電話をして確かめますが、それより田村常務にはくれぐれもGMのミッションに失礼な対応をしないよう注意しておいて下さい」  神尾は花井との電話を終えると、今度は豊田市の英二の自宅のダイヤルを回した。英二の心配はやはり、チャイの身分に関することであることが確認された。神尾は花井に話したことと同じことを繰り返した。 「彼《チャイ》はスミス政権におけるキッシンジャーの役割りを果たしています。スミス会長はこと日本については、すべて彼に任せています。私が言っただけで信用できないのなら、月曜日にジャック・スミスとラーセンがトヨタに来た時に聞けば、GM社内におけるチャイさんの立場が分かるかと思います。二月のトップ会談もスミス会長が一方的に指定したわけではないのです。加藤さんが『豊田社長に会ってください』と頼んだことに対し、『マスコミの目もあるでしょうから、SAE大会に合わせれば豊田社長も米国に来やすい』ということから決めたもので、むしろスミス会長の配慮なのです」  神尾は英二の戸惑いが手にとるほど分かる。フォード提携が白紙還元になった今、英二ならずともGMとの提携には慎重にならざるを得ない。同じ過ちを繰り返せば、経営者としての見識が問われるからである。  腹の探り合いから始まり、提携交渉の意思表示をするまでには最低半年はかかる。それがわずか一カ月でトップ会談の具体的な日程も決まり、早くも意思表示を迫られている。戸惑うなというのが無理なのかも知れないが、といってまだ舞台裏を明かすわけにはいかない。現段階ですべてをさらけ出せば、壊れてしまう恐れがあるからだ。  一月二十三日の土曜日の夜。神尾がトヨタ自工会長の花井正八と電話で話している頃、GMのジャック・スミスとビル・ラーセンは予定通り来日、宿泊先のホテルオークラでチャイと三人で遅い夕食をとりながら、週明けからのトヨタ訪問の打ち合わせをしていた。  ジャック・スミスとラーセンには、トヨタは同じ日本車メーカーでもいすゞやスズキとは格が違う会社であることを繰り返し説明してきた。ただし二人にはトヨタの良い面しか報告していない。見合いの前に相手の欠点を知らせれば、結婚(提携)の意欲がなくなる恐れがあるからである。  二月一日付で八五年モデルの製品企画の責任者に就任することが内定しているラーセンは、頭の中ですでにトヨタとの共同生産車を組み込んでいる。早くもまだ見ぬ相手に惚れ込んでしまったのである。  二人は気分良く来日したが、チャイは不調に終わった二十一日のトヨタ最高首脳との会談の全容を話すことはできないが、といってすべて隠すわけにもいかない。この間チャイが絶えず気にしていたのは、英二にGMの極秘資料を見せたことが裏目に出たような感じがしたことである。  チャイが見せた資料は、昨年八月に来日した時に作成した日米小型車のコスト比較調査である。もちろんチャイはGMの極秘資料をすべて持っているわけではない。  小型車の日米コスト比較は、チャイ自身が会長のスミスから依頼され、日米の間を何回か往復して調べたものである。年明けからのGMとUAWの労働協約改定交渉は、この資料を基に続けている。資料にはGMの一九九〇年までの製品企画や需要動向も入っており、社内では誰にもコピーもさせない名実共に極秘の資料である。  これをGMの社員でもない人間が持ち歩いているわけだから、英二ならずとも訝《いぶか》るのも無理はない。ところがチャイにすれば、自分が作った資料を持ち歩いているのだから、不思議でもなんでもない。  GMがこと日本に関してチャイに全権を委任しているのは、GM社内に日本の自動車産業のみならず日本市場の動向に精通している人が誰もいないことのほか独禁法対策もある。チャイがGMの人間であれば、独禁法の関係でこれまでのように自由には動けない。伊藤忠に籍があるからこそ、GMの先兵役を果たせる。スミスはそれを十分承知しており、それを知ったうえで使っている。  世界広しといえども、外部の人間をここまで信用して使っているのは、GMぐらいなものである。GM社内でのチャイの正確な役割を知っているのは、会長とジャック・スミスだけである。  今回の訪日に際し、ジャック・スミスとラーセンが会長のスミスから言われているのは「トヨタに行った時は、すべてチャイ君の指示を仰げ」ということだけである。チャイは二人に二十一日のトヨタ首脳との会談の様子をオブラートに包みながら簡単に話し、すべては月曜日のトヨタの出方で決まるとの見方を示して散会した。  チャイは部屋に戻るなり、受話器を取り上げ、デトロイトの直通ダイヤルを回した。電話の相手はトヨタ提携のタスクフォースのメンバーにも入っている財務部のルー・ヒューズである。チャイはヒューズに、いすゞへの出資比率引き上げ交渉のため二十八日に来日することになっている財務担当執行副社長アラン・スミスの来日中止を要請した。  いすゞへの出資比率問題の実務はヒューズが担当しており、すでに大筋の話はついており、アラン・スミスが来日して岡本利雄社長との間で正式に決めることになっている。さらにアラン・スミスはいすゞとのトップ会談の後、浜松に行きスズキを表敬訪問することになっている。  チャイが中止を要請したのは、トヨタとの交渉に悪い影響が出ることを恐れてのことだ。関係が微妙な時期にアラン・スミスが来日して、次々と提携先の企業を訪問し、派手にマスコミに取り上げられれば、トヨタはいい感じがしない。  GMがトヨタとの交渉を急いでいるのは、その後にいすゞやスズキとの小型車供給交渉が控えているからである。トヨタとの交渉が短期間でまとまれば、いすゞ、スズキとの交渉もGMに有利に働く。さらにトヨタ、いすゞ、スズキから調達する小型車を同時に発表すれば、GMの系列ディーラーを安心させることができる。こうしたGMの戦略というより、苦しいお家の事情をトヨタに知らせるわけにはいかない。  アラン・スミスの来日は公式なもので、マスコミに知れるのは時間の問題である。トヨタ提携はすでにGMの中ではグループ担当副社長以上で構成される経営会議の議題に諮《はか》っているので、アラン・スミスはむろん承知している。万が一、アラン・スミスから提携先の企業に漏れないという保証はない。  ヒューズは即座にチャイの要請を受け入れ、その場でアラン・スミスの来日中止を決めた。ヒューズが会長の了解を得たうえ、月曜日に本人に伝え、日本の提携二社には「アラン・スミス副社長はGM本社の都合で来日が中止となった」と通り一遍の通告をするだけで、詳しい説明は一切しないことにした。将来のGMを背負って立つジャック・スミスに伝えるのはチャイの役目である。  この時期、会長のスミスはGMとUAWの労働協約改定交渉が期限の二十日になっても最終合意せず、局面を打開するためワシントンにかん詰めになっていた。  GMとUAWは十二日にいったんは「UAWは賃下げに応じ、それを新車の値下げに回す」ことで仮合意したが、値下げ幅で両者の思惑の違いが露呈した。GMは一台当たり千ドルから千二百ドルの値下げを予想し、それに応じた賃下げを期待していたのに対し、UAWが応じたのはたった百ドル。  UAW会長のフレーザーは苦渋に満ちたコメントを出した。 「経済問題と職場保証が合意しなかった。交渉が成立せず残念」  フレーザーは低額の賃下げでは合意出来ないことは予想していたが、UAWの全米百十一の地方組織の内、半数近くの組織が反対に回ったため、交渉チームもこれを無視できなかったのである。  一方、GMは労務担当副社長のアルフレッド・ワレンが「乗用車の販売不振に早急に対応するには妥協が必要。自動車産業は待てる状況にはない。何か新しい手を打たなければならない」とUAWの現状認識がいかに甘いかというコメントを出した。  小幅の賃下げに応じることで職場保証を求めるUAW。千ドルを上回る値下げがない限り、市場は回復しないと大幅賃下げを求めるGM。UAWは二十三日の土曜日にワシントンで代表者会議を開き、交渉期限を延期してGMと再交渉に入るか否かを協議することにしていた。  UAWはワシントンで二十三日から夜を徹して代表者会議を開いていたが、二十四日の日曜日の深夜になって経営側との交渉再開を決めた。GMは二十六日、フォードは二十九日からそれぞれ交渉を再開することになった。  ワシントンの二十四日の深夜は、日本時間の二十五日の昼である。トヨタ自工はこの日、朝九時から豊田市の本社、トヨタ自販も同じ時刻に名古屋の本社でそれぞれ取締役会を開き、七月一日をメドに両社が合併する基本方針を了承した。  この日決めたことは新会社の社名を「トヨタ自動車」(英文名は TOYOTA MOTOR CO. LTD.)とすることと、手続き上はトヨタ自工が存続会社になることの二点だけである。合併比率は対等の精神で行うが、具体的には資産内容や株価をもとに決める。会長、社長の首脳人事も今後決めるという慌ただしさであった。     [4]  トヨタの工販が豊田市と名古屋の本社で厳かに合併了承の儀式を執り行っている頃、チャイ、ジャック・スミス、ラーセンの三人は東京駅から東海道新幹線に乗り込んだ。昼前に名古屋駅に着き、そこで柳沢と合流し、昼食もそこそこに豊田市郊外にあるトヨタの迎賓館ともいうべき「トヨタ鞍ケ池記念館」に直行した。  この記念館はトヨタが生産台数一千万台達成を記念して一九七四年(昭和四十九年)に建設したもので、トヨタ車の展示館とゲストハウスからなっている。鞍ケ池は寛永年間(一六二四─一六四四年)に灌漑用に作られた池で、完成した時に領主が「池の主になって治めよ」と言って自分の鞍を投げたのが名前の由来とされる。  トヨタは人目を避けるため、あえて会談場所を工販合併騒動で混乱している本社を外し、本社から約十キロ離れた鞍ケ池記念館にしたのである。記念館にはすでに合併取締役会を終えた常務の田村が到着していた。会談に出席するトヨタ自工側の人間は田村と柳沢の二人だけである。提携に向けての初の協議は満々と水をたたえた鞍ケ池を見下ろすダイニングルーム兼用の会議室で始まった。  チャイはジャック・スミスとラーセンを田村に紹介した後、直ちに本題に入った。口火はGM側が切った。 「GMの工場を使って二千cc以下の小型乗用車を共同生産したいというのが我々の希望です。共同生産に際してはいったん工場を閉鎖します。その後でトヨタとの合弁工場として再開すれば、政治的効果は絶大です。一度、閉鎖した後にトヨタが乗り込むのですからUAWにも地元にも大歓迎されます。トヨタは�ローンレィンジャー(英雄)�になれるわけです」  だが、この日の田村の態度はわずか四日前に「GMとの提携は永年の私の夢でした」と言っていたと同じ人間とは思えないほど豹変していた。チャイが話している間、ニヤニヤ笑ってみたり、どことなく落ち着きがない。  明らかに田村は戸惑っていた。GMとの協議に際し、英二から「今日は向こうの要望を聞くだけで十分。余計なことは一切言わないよう」とクギを刺されている。海外事業室長とはいうもののGMの提案を真正面から受け止めて、それに返事する権限を与えられていなかったのである。英二が果たしてGM提携をまとめようとしているのか、それともその気がないのか、田村にはその真意が分からなかった。  田村はフォードとの提携交渉の経験で、相手を怒らせるのも交渉術の一つであると心得ている。決裂したフォードとの交渉の時は最初から軽い冗談話も出たが、GMの三人のメンバーは揃って学者然としている。固い表情を崩さず、冗談を言える雰囲気もない。しかも最初からストレートに突っ込んでくる。田村は相手の真意を探るため、意識的に相手を怒らせる作戦に出た。  GMの提案を上の空で聞き流す態度をとったのである。GM側は具体的な共同生産車種として『Jカー』とほぼ同じクラスの排気量二千cc、四人乗り小型乗用車の『コロナ』を提案したが、田村は興味を示す素振りすら見せず、返事をするどころか逆にGMといすゞやスズキとの関係を尋ねてくる。チャイはこうした田村のノラクラした態度に痺れを切らし、「トヨタが一挙に米国で共同生産に踏み切れなければ、第一段階としてまず日本で作り、完成車の形で対米輸出し、第二段階で米国で共同生産してはどうか」という折衷案も出したが、それでも田村から明快な返事は返ってこない。  温厚なジャック・スミスでさえ、「トヨタはGMとの合弁事業には一切興味がないのではないか。あれはGMがトヨタの車を作りたければ、部品を売ってやるから、自分のリスクで勝手に作ればよいという態度だ」とトヨタの真意を疑った。 「GMが何か頼みごとがあるから聞いてやる」という田村の態度に三人はイライラした。ラーセンは会談が中座した時、憮然とした表情でチャイに囁いた。 「あの人は我々のことをアフリカから来たアッセンブラーとでも思っているのではないか。あれでは話にならない。もう帰ろう」  GMミッションにトヨタの応対は不誠実と映った。最悪の第一印象である。チャイはジャック・スミスやラーセンに同調して席を蹴るわけにいかない。ここで席を立てば交渉はその時点で決裂となる。チャイは気を取り直して提携の意義を粘り強く繰り返し説明したが、話は一向に前へ進まない。共同生産の基本線が決まらないまま、話題を再び生産車種に戻してみた。 「我々が欲しいのは、千二百cc─千三百ccの小型車です」  GMが本当に欲しいのはスターレットの次期モデルだが、それを露骨に言い出すと足元を見られる恐れがある。  GMの真意を知ってか知らずか、田村は木で鼻を括ったような言い方をした。 「排気量千cc─千三百ccの車は、日本で生産してもドル換算で一台につき、二百ドルの足が出ています。それを米国で作ってどうやって採算を合わせるつもりですか」  この時チャイは頭の中で素早く計算した。 「トヨタといえどもスターレットでは赤字を出している。FR(前置きエンジン、後輪駆動)ですら、一台当たり三万円の赤字だから、ましてFF(前置きエンジン、前輪駆動)にすれば赤字幅は倍になる」  田村の不用意な一言で、トヨタの金庫を預かる会長の花井が共同生産車種にスターレットを熱心に押している理由が読めた。GMがいくらスターレットが欲しくとも、トヨタですら黒字に出来ない車を米国で大量生産するわけにはいかない。 〈最終的にはスミスの政治判断になるが、仮に提携が合弁生産の線で交渉がまとまっても、生産車種は再検討しなければならない。GMがあくまでスターレットにこだわるとすれば、合弁会社は同時に小型高級車も生産して、採算を合わせることを考えなければ……〉  チャイは頭の中で計算したことはおくびにも出さず、「二千ccがダメ、しかも千二百cc─千三百ccクラスも無理なら、千五百cc─千六百ccクラスはどうですか。我々は最初に申し上げたように二千cc以下の車が欲しいのです」と持ちかけた。  田村はにべもなく答えた。 「このクラスの車はカローラに近すぎます。カローラはトヨタのドル箱車種ですから出せません」  それでもチャイは食い下がった。 「我々はカローラを欲しいと言っているのではありません。エンジンはカローラと同じものであっても、外観のデザインを大幅に変更すれば問題ないでしょう」  これに対し田村は「カローラと競合する」との前言を繰り返すだけで、一歩も譲らない。話が全くかみ合わないのである。チャイは時間を経るにつれ、かたくなになっていく田村の態度をいくらかでも解きほぐそうとして、米国以外の海外での協力関係を持ち出してみたが、田村は興味を示すどころか話をそらし、思わせ振りに四日前と同じようにフォードとの提携交渉を持ち出した。 「実はトヨタはまだ完全にフォードと手が切れていないのです。いずれ決着をつけなければなりませんが、GMとの話がまとまれば……」  この時、三人は同時に思った。 〈トヨタはGMとフォードを両天秤にかけているのではないか〉  トヨタがフォードに断る際、万が一、「GMから共同生産を持ちかけられているので……」とGMをだしに使われたら立つ瀬がない。トヨタとフォードの関係がどうなっているのかを確認しないうちには、本格交渉の土俵には上がれない。  トヨタとフォードの交渉は乗用車では車種が折り合わず、ミニバンでも生産規模で暗礁に乗り上げて挫折したが、交渉そのものはまだどちらも正式に白紙還元を表明していない。新たな車種を見いだした上でアラブボイコット問題を解決し、さらに両社に芽生えた不信感さえ払拭出来れば、いつでも再開出来る。複雑な前提条件があるものの、交渉当事者でないGMのミッションにはその辺の事情は分からない。  三人はトヨタの交渉に際しての姿勢を疑った。トヨタが用意した資料といえば、新車のイラストだけである。田村は図面すら見せようとはしない。ラーセンの言う通り、発展途上国から来たアッセンブラーに対する扱いである。チャイはバカバカしくなり、新車を見せてほしいと言う気力さえ失っていた。  一方、田村にすれば開発中の新車を見せてくれと言うGM側の要求は、企業秘密をすべてさらけ出せというのに等しい。あまりにも無理難題である。図面の段階で共同生産車種を選び、そこで合意した後、プロトタイプを見せるのが筋である。フォードとの交渉でもそうしたやり方を踏襲してきた。  この日の協議は、実りがないまま五時過ぎに打ち切った。そして五人は豊田英二と食事をするため名古屋のホテルに向かった。  鞍ケ池記念館でGMの三人のミッションと常務の田村が、険悪な空気で提携に向けて協議をしている頃、トヨタ本社では社長の豊田英二が全トヨタ労働組合連合会委員長の梅村志郎にトヨタ工販の合併を報告するとともに、労組の協力を仰いでいた。  英二はその足で合併覚書の調印式の会場となっている名古屋観光ホテルに向かった。会場には大勢のカメラマンが待ち受けている。トヨタ自販の本社はホテルの近くにあり、社長の豊田章一郎はすでに会場に到着して、英二を待ち受けていた。  カメラの閃光の中で、緊張した二人は合併覚書に調印、その後がっちり握手した。この瞬間、年間売り上げ四兆一千億円、経常利益三千三百七十五億円、販売台数二百六十五万台の巨大企業の誕生が正式に決まったのである。  もちろん新会社の企業規模は製造業としては日本最大で、GMとの対比では売り上げはまだ三分の一足らずだが、自己資本比率は五〇・三%と遜色ない。逆に企業の安定性、収益性、生産性の面ではGMを上回っている。  英二はトヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎の従兄弟《いとこ》に当たる。喜一郎の父が発明王の豊田佐吉で、英二の父の平吉は佐吉の弟である。そして章一郎は喜一郎の長男である。英二は東大を卒業する時、担当教授から日立製作所への就職を世話され、喜一郎に相談したところ、「自動車事業を始めるので、こちらにこい」と半ば強引に発足したばかりの豊田自動織機製作所の自動車部に引っ張られ、自動車の道を歩むことになった。  豊田自動織機が定款に自動車事業を加えたのは、英二が大学に入学した一九三三年(昭和八年)のことである。最初は自転車に付けるちっぽけなエンジンの試作から始めた。当時、喜一郎は妹婿でその後にトヨタ自動車工業の初代社長になる豊田利三郎と折り合いが悪く東京に住んでいた。  英二の最初の仕事は本郷・曙町にあった喜一郎の家に下宿して、芝浦に自動車に関する研究所をつくることであった。章一郎はまだ小学六年生で、中学受験に向けて猛勉強していた。喜一郎の仕事が忙しいこともあり、中学受験に付いて行ったのが英二であり、府立一中の入学式にも�父兄代行�の資格で出席した。章一郎にとって英二は年の離れた兄であり、親代わりである。  GMの三人のミッションが、提携の糸口を見いだせないまま話し合いを早目に打ち切り、鞍ケ池記念館から名古屋に向かった頃、英二と章一郎は合併調印式を済ませ、同じホテルで記者会見に臨んだ。会見は同時刻に東京でも行った。自工会長の花井正八が兜町の東京証券取引所、自販会長の加藤誠之が大手町の経団連会館にそれぞれ出向いた。  名古屋での会見の口火は英二が切った。 「八〇年代の混迷する情勢をいかに乗り越え、発展するかを考えた時、合併が一番いいという結論に達した。この点、自工、自販で全く一致した」  これを章一郎が引き取った。 「全く同じだ。自動車戦争に対処するため、より磐石な体制をつくるということだ」     [5]  会見は一時間に及び六時過ぎに終わった。大勢の新聞記者が原稿を書くため足早にホテルを後にするのと入れ違いに、GMミッションの三人が同じホテルにチェックインした。  各人は部屋で荷物を解き一服した後、ロビーに集合した。すでに英二は待ち構えており、挨拶もそこそこに車に乗り込み、目の前に名古屋城の金の|鯱 (しやちほこ)が見えるホテルナゴヤキャッスルに向かった。キャッスルでは玄関まで五、六人のボーイが出迎え、ディナーの部屋までついて来た。  ディナーは英二が真ん中に座り、左右に田村と柳沢、英二の対面が窓を背にしたチャイで、ジャック・スミスとラーセンが両側に座った。チャイが二人を英二に紹介した後、英二はたった一時間前まで新聞記者を前ににこやかに振る舞ったのが嘘のように、厳しい表情で話し始めた。 「やはり私は夏までは米国に行けません。加藤さんがスミス会長に会って何を言ったかは知りませんが、加藤さんに確かめたところ『具体的な約束はしていない』ということでした」  英二はまだ迷っていた。話があまりにも出来過ぎているからである。加藤さんがいくら昔、日本GMに在籍していたことがあるとはいえ、初めて会ったスミス会長がすぐに招待状を寄こすものだろうか。肝心の加藤さんは約束したかどうかはっきりしないと言っている。ここはもう少し様子を見る必要がある。  チャイは英二の返事を聞いて唖然とした。再び工販の情報ギャップを露呈しただけで、GMに対する言い訳にはならないからである。 「私は今回、GMのスミス会長の名代として来ました。今日の会談内容はすべて会長に報告します。昨年十二月二十一日、トヨタ自販の加藤会長がスミス会長を訪ね、その席ではっきりと『トヨタはGMと仲良くしたい。ついてはトヨタ自工の豊田英二社長をデトロイトに連れてきたいが、会ってもらえますか』と頼み込んだのです。スミス会長は豊田さんの立場を配慮して、トップ会談の時期をSAE大会に合わせたのです。加藤さんもそれを承知し、さらにトヨタが招待状を欲しいというので、私がスミス会長の親書を持参したのです」  英二は一瞬たじろぎながら話題をそらし、切り返してきた。 「GMは一体トヨタの何が欲しいのですか」  英二が知りたいのはGMの本心である。 「GMが欲しいのはTカー、具体的に言うとシベットの後継車種です。つまり排気量千五百ccクラスの小型車です」  チャイはここで初めて具体的にGMの要求を出した。  英二の返事は「残念ながら、トヨタには今すぐGMの要望に応えられる車はありません。辛抱強く交渉しましょう」とGM側の性急な態度を諫《いさ》めるものだった。  チャイと英二の会話の合間にラーセンとジャック・スミスが質問したときは、柳沢が通訳するが、肝心のところでは田村が勝手にトヨタに都合のいいように通訳してしまう。チャイはその都度、ラーセンやジャック・スミスの言わんとすることを、正確な日本語で英二に伝えなければならない。  フォードとの関係を尋ねた時も英二は、「交渉は白紙還元ではありません。あくまで中断です」とむきになって主張する。実質的には白紙還元だがトヨタにすれば中断である。正確に言えば白紙還元したのはミニバンの共同生産である。 「アラブボイコットの問題がある限り、トヨタとフォードの交渉が復活することは絶対にないというのが、今や米自動車業界の常識です。私の知っているフォードの幹部ですらそのことを広言しています」  チャイがこう水を向けても英二は建前を崩そうとしない。  英二の表情を見る限り、かたくなな態度と裏腹に、GMと提携したくてうずうずしている様子が手に取るほど分かる。しかし言葉として出てくるのは決して前向きの発言ではない。  チャイは英二の石頭振りにホトホト困ってしまった。そして心の中で呟いた。 〈豊田社長がいすゞの岡本社長の十分の一、いや百分の一でも私を信用してくれたら、この話は必ずまとまるのだが……〉  そばで柳沢が「何とかまとめたい」という気持ちでジャック・スミスとラーセンの発言を前向きにとらえ、英二に通訳をしているのが痛いほど分かる。田村といえば〈社長はやはりGMとの提携に興味がないのでは……〉と勝手に決め込んでいる様子がうかがえる。  だが目の前の英二は、肝心な話になると「辛抱と我慢の交渉」を強調するだけである。確かにその通りだが、いかんせんGMには時間がない。トヨタから小型車を調達できなければ、早急に次の手を模索しなければならない。  提携に向けての具体的な成果がないままディナーは終わり、三人は宿泊先のホテルに戻った。柳沢は帰りの車の中で泣きそうな顔をしながら言った。 「田村さんが今回の交渉の責任者に指名された時、内心心配したのです。その危惧が不幸にして当たってしまった。神尾常務と善後策を講じるので、あと一日がまんして付き合ってください」  ホテルで柳沢と別れた後、チャイはラーセンとジャック・スミスを部屋に呼んで、今後の対応策を話し合った。ジャック・スミスは比較的冷静だったが、ラーセンは相当興奮しており、チャイの顔を見るなり精一杯の皮肉を込めて言った。 「我々はわざわざトヨタに馬鹿にされるため日本に来たのか」  そして「明日もこの調子で交渉を続けても意味がない。トヨタに行くのはやめよう」と断定的に言った。ジャック・スミスも「我々は明日トヨタに何しに行くのか」と言い出す始末である。チャイはその二人を前に「(トヨタと)喧嘩はいつでもできる。明日の出方いかんで(喧嘩するかどうかを)判断しよう」となだめて部屋に引き取ってもらった。  チャイはそうは言ってみたものの、打開策があるわけではない。交渉がこのまま終われば、スミス会長に対する自分の信用失墜もさることながら、結果的にスミスの顔に泥を塗ることになる。そうした個人的な事情はともかく、ここで提携の糸口を見い出さなければ、GMとトヨタは永久にライバルになってしまう。水面下の交渉はまさに今、胸突き八丁に差しかかったのである。  トヨタ自販の本社は名古屋にあるが、輸出関連業務の本社機能は東京に置いている。トヨタ車の輸出業務を統括する常務の神尾秀雄の自宅は仕事の関係で東京にある。国内にいる時は週の半分は名古屋に出張し、名古屋観光ホテルを定宿にしていた。  工販の取締役会で合併が了承された日の夜は海外からのお客と食事を共にして、十時過ぎにホテルに戻った。鞍ケ池記念館で行われた昼の交渉と、それに続く豊田社長とのディナーでも提携に向けての話し合いが進展しなかったことは会食の途中、柳沢からの電話で知らされた。 〈豊田社長と花井会長には、念のため土曜日に電話をして、くれぐれもGMミッションへの対応を誤らないよう頼んでおいたのに、なぜこんな結果になってしまったのだろうか〉  ホテルのロビーにはすでに柳沢が待っていた。部屋に入るなり柳沢から今日の出来事を逐一聞き、今度はチャイの部屋に電話を入れ、自分の部屋にも来てもらい善後策を講じることにした。チャイとの協議は深夜の一時半まで続いたが、結論は神尾が明朝、もう一度、豊田社長の説得を試みることである。その結果次第では、自販社長の章一郎にこれまでの経緯を洗いざらい打ち明け、まとめ役になってもらうことも考えた。  二人が帰った後、神尾はまんじりともせず一夜を明かし、英二が起きるころを見計らって、自宅に電話を入れた。 「昨日のことは柳沢から聞きました。田村常務の態度は社長の指示ですか。GM側はカンカンです。誠意には誠意を持って尽くすのが社長の信条ではなかったのですか。GMは誠意を持って対応しているはずです。最初から手練手管を使って、駆け引きを始めたらこの話をまとめるのは無理です」  英二は昨日、工販合併の儀式に振り回され、昼の交渉でGMと田村が何を話したかを聞かないまま、ディナーに臨んだ。英二は交渉の前に田村には「今日の段階では、GMの要望を聞くだけにとどめ、勝手な判断をしないように」と一言、クギを刺しておいただけである。神尾は英二の言い訳を聞いた後、尋ねた。 「GMには新車を見せなかったそうですね。なぜですか」 「君も知っての通りスターレットのプロトタイプはまだ作っていない。その代わりGMの要求を聞いたうえで、近く発表する予定の車を見せるかどうか判断しようと思っていた」  英二にすれば、GM提携は依然として雲をつかむような話である。今日は田村が会談の前に昨日の結果の報告に来ることになっており、それを聞いたうえでどの車を見せるかを決めることにしていた。 「柳沢から聞きましたが、夕食での会談もあまり実りがなかったようですね。ジャック・スミスとラーセンに会われても、まだチャイさんを信用されないのですか」 「昨夜のディナーは確かに刺々《とげとげ》しいもので、チャイさんが一人で喋っていた。ジャック・スミスもラーセンも少し質問しただけだ。それより私には、なぜGMが交渉を急ぐのか分からない。だから粘り強く交渉しようと言っておいたんだ」  ジャック・スミスとラーセンが夕食の席で無口になったのは、その前の田村との話し合いで、「トヨタにはGMと提携の意思がないのではないか」と疑ったためである。来日する前にチャイから聞いていたトヨタの姿と現実のトヨタがあまりにも離れ過ぎており、頭も混乱していた。 「ジャック・スミスは日本でいう経理本部長、ラーセンは商品企画本部長です。二人ともまだ日本の事情は分からないでしょう。しかしラーセンはともかく、ジャック・スミスはスミス会長の秘蔵っ子で、将来のGMを背負っていく人材です。トヨタとの交渉が本決まりになれは、彼がGM側の責任者になることが決まっています。それに備えてスミス会長がチャイさんに同行させたのです。GMが交渉を急いでいるのはスミス会長の方針からです。日米自動車摩擦が再燃しており、短期決戦はトヨタにとっても好都合なはずです」  英二は神尾に言われ、ここで決断した。 「分かった。今日は新型コロナの発表のため、十一時過ぎに名古屋に出かけるが、その前にもう一度、三人に会って挨拶をする。新車も見せる」  愁眉《しゆうび》が開いたのである。といってこれですべて問題が解決したわけではない。スミスからの招待状をどうするか。その点を神尾に指摘され、英二は折衷案を出した。 「二月二十四日はどうしてもデトロイトには行けないが、スミス会長には私が会う。スミスさんが日本に来られないことは花井君から聞いた。それなら真ん中をとってハワイにでも来てもらうわけにはいかないだろうか」  神尾は英二の顔が見えなくても、少しずつ軟化しているのが分かった。しかし英二の提案に即答は出来ない。 「それはチャイさんと相談してみなければ分かりませんが、そもそもスミス会長が二月二十四日を指定したのは、豊田社長が米国に来やすいという配慮からです。仮にGM側がハワイでの会談に応じるにしても、それなりの大義名分がなければなりません。これはトヨタ側も同じです」 「GMの事情は分からないが、私がハワイに行くとすれば、今年の秋に予定している現地販売代理店の創業二十五周年記念式典を半年繰り上げ、それを名目にすれば良い」  英二はようやくスミスに会う気になった。しかし単に会うだけでは意味がない。肝心なのは会って何を話すかである。神尾はそのことを遠回しで指摘した。 「社長がハワイでもデトロイトでも行くとなれば、どのような大義名分でも考えます。ただし、今回の提携話が壊れれば、GMはスミス会長の面子にかけて、米国市場でトヨタの前に立ちはだかるでしょう。ビッグスリーの中で自由貿易主義を標榜《ひようぼう》しているのは、今やGMだけです。フォードはトヨタと提携交渉するかたわらでITC(米国際貿易委員会)に提訴しました。GMに限ってはそんなことはしないでしょう。はっきりしているのはGMを敵に回せば怖いが、味方につければ頼もしいということです」  神尾の指摘を待つまでもなく、GMの怖さは英二が一番知っている。ただしGM提携に際しては、独禁法のほかにいくつかの疑問を持っていた。最大のものは、〈天下のGMともあろう会社が、なぜ頭を下げてまでトヨタの車を欲しがるのだろう〉ということである。  英二は二度にわたるチャイとの会談で、自分の心の中を見透かされないよう、細心の注意を払いながら対応したつもりだが、相手に「トヨタには提携の意思がないのではないか」と受け取られた恐れは十分ある。この辺で是正しておかなければ取り返しがつかないことになる。 「GMに敵に回られたらトヨタとしては困る。そうならないようにするにはどうしたらいいか」  英二は自分に言い聞かせるように、答えが分かり切ったことを質問した。そして神尾も英二が予想した通りの答えを出した。 「GMを敵に回さない最良の方策は、提携をまとめ上げることです。GMのミッションは昨日の田村常務の態度に不快感を持っています。社長が注意して早めに軌道修正しなければ交渉は進展しません」     [6]  神尾は英二との電話を終えると今度は、花井の自宅のダイヤルを回した。花井は前日から工販合併の記者会見に出席するため上京しており連絡がつかなかったが、名古屋のトヨタ自販本社に出社するなり電話でつかまえ、田村の態度を改めさせるよう頼んだ。  花井は二日前にも同じことを神尾から要請されたが、合併騒動に紛れ田村に「フォードの時と今回のGMとはまるで違う」ことを注意することを忘れてしまった。 「田村はとんでもないことをしてくれた。あいつは良いところもあるが、今度だけは判断を間違えたようだな。今すぐ田村に電話して粗相のないよう注意する」  神尾は電話を終えると、今度は章一郎の部屋に飛び込んだ。章一郎は朝九時に、本社の講堂に全社員を集め、合併の経緯と狙いの説明を終え、東京での新車発表会に出席するため社を出ようとしていた。 「GMのことで相談があります。詳しくは今夜、赤坂のお宅の方へ電話しますが、明日の午前中は東京での予定を全部キャンセルして、GMの三人に会ってください」  トヨタは二十七日の午後三時から、工販の専務以上で構成する「合同政策委員会」を開くことになっており、章一郎は昼前の新幹線で名古屋に戻ることになっている。  事情を何も知らない章一郎は、神尾の真剣な顔を見て昨夜、ただならぬことが起きたことを感じ取った。 「分かった。予定はすべてキャンセルするよう秘書に言っておく」  それだけ言い残して名古屋駅に向かった。  トヨタ自工とトヨタ自販の合併発表から一夜明けた二十六日。自工は各部長が部員に説明したにとどまったが、事実上吸収される自販の本社では社長の章一郎、東京事務所では会長の加藤誠之が全社員を大会議室に集め、「これからは自工でも自販でもない。新しい会社をつくる気概で仕事に当たって欲しい」とハッパをかける一方、「いままで以上にトップを信頼してついてきていただきたい」と合併への理解を求めた。  英二は神尾から電話を受けた後、早めに出社して田村を自室に呼び、GMとの会談場所となっている鞍ケ池記念館へ短時間顔を出すことを告げるとともに、GMミッションの三人へ丁寧に対応するよう申し渡した。  田村はこの朝、自宅に社内で�親分�と仰ぐ会長の花井から電話があり、同じ趣旨のことを指示された。一体昨夜、何が起こったのだろうか。田村は社長と会長の真意をはかりかね自問自答した。 〈私はフォードとの交渉で豊田社長はともかく、花井会長はハナから提携の意思がなかったことから、それを察してフォードの交渉責任者である執行副社長のポーリングと互角に渡り合い一歩も譲らず、フォードの連中に「トヨタに田村あり」ということを知らしめてやった。来月は会長のコールドウェルが来日するが、トヨタに復縁を迫ってくるのは間違いない。その席で今度こそ(提携交渉白紙還元の)引導を渡してやる。  それでもフォードはまだ会長や社長が日本に来るのだから可愛気がある。それに比べGMは小物三人を送りつけただけで、開発中の新車を見せろだのと好き勝手なことをいっている。ここで向こうのいいなりになれば、相手のペースにはまってしまう。昨日は軽くあしらってみた。これも交渉術の一つ。それでも相手にやる気があれば、そこから肚を割って話し合えば良い。私が毅然とした態度をとっているのに、今朝になってなぜ社長と会長が揃って態度を変えたのだろう〉  章一郎が名古屋のトヨタ自販本社で熱弁を振るっているころ、GMの三人はホテルをチェックアウトして、再び豊田市郊外の鞍ケ池記念館に向かった。三人は当初、名古屋に二泊することにしていたが、初日の交渉が不調に終わったため、予定を切り上げ夕刻の新幹線で帰京することにした。  前日と同じ会談場所に着くなり、ジャック・スミスとラーセンは目を白黒させた。昨夜まで傲慢な態度を取り続けていた田村が、にこやかに三人を迎え入れたからである。チャイは田村の態度をみて「神尾さんが豊田社長に相当ネジ込んだのだろう」と推測した。  十一時前には英二がひょっこり顔を出し、愛嬌を振りまいていった。 「私はこれから新車発表のため名古屋に出かけますが、今日発表する『新型コロナ』のほかに、コロナのFF仕様車と『ターセル』と『コルサ』の次期モデルを用意しておきました。テストコースで存分に乗り回してください」  机の上には新車に関する資料のほか、FFスターレットの仕様書も用意されている。田村は三人が資料に目を通している間、「なぜ昨日までのような態度をとってはいけないのか」と怪訝な顔をしている。  名古屋のホテルで開かれたコロナの新車発表の会場で英二と神尾は一緒になったが、英二は神尾に苦笑しながら話しかけた。 「田村には今朝、よく注意しておいた。ここに来る朝、GMの三人にも挨拶してきた。今頃、昼食を終えて、車を乗り回しているのではないか」  事実、三人は昼食を終えると、テストコースで三台の車を乗り回した。ターセルとコルサの次期モデルはほぼ予想した通りの車だったが、FFコロナに乗った時、「この車はすべての点でGMのJカーを上回っている」ことを認めざるを得ないほど素晴らしいものだった。  FFコロナと説明された車は、FFに切り換えた次期『カムリ』であることはすぐ分かった。カムリはトヨタが一年半前にフォードに共同提案した車である。当時はまだ仕様書が出来上がっただけで、プロトタイプは製作していなかった。三人とも「フォードがこの車に飛びついていたら、GMのJカーは今以上に惨憺《さんたん》たる運命をたどったであろう」ことを思い知らされた。  GMの三人のミッションメンバーは土壇場で来日の目的を一つ達成した。夕方の新幹線で帰京し、九時過ぎにホテルオークラで三人ともほっとした気持ちで遅い夕食をとった。ラーセンは二十七日の夕刻、ジャック・スミスはいすゞの藤沢工場を見学した後、二十八日にそれぞれ帰国することになっている。  神尾はその日の夜、約束通り東京・赤坂の章一郎の自宅に電話を入れた。章一郎からは「事態がそんなに進展しているとは知らなかった。なぜこれまで私に相談してくれなかったのか」とさんざん文句を言われたものの、その点、神尾は平身低頭謝った後で二十一日以降の動きを簡単に報告し、最後に「これから柳沢をお宅に伺わせるので詳しい話を聞いてください」と電話を切った。  柳沢はその夜、章一郎に報告したその足で、神尾の自宅に寄った。神尾が柳沢を通じて聞きたかったのは章一郎の判断である。 「トヨタとしては現役最長老の加藤さんがデトロイトに行き、スミス会長に会いその席でトップ会談を決めた以上、断るわけにはいかない。本来なら英二社長は東京ビルの竣工式を欠席してでもデトロイトに行くべきです。どうしても行けないというのであれば、私が代わりに行っても構わない。英二社長とその件で早急に話し合ってみる」  これが章一郎の見解である。  翌二十七日、チャイはラーセンを伴って、九時半にトヨタ自販の東京事務所に加藤を訪ねた。加藤は事前に神尾から報告を受けていたのか、「チャイさんにはいろいろとご迷惑ばかりかけます」と深々と頭を下げた。その後、加藤と一緒に社長室に入り、章一郎を前に二十一日に英二と花井に話したことと同じ話をした。  章一郎は熱心に聞きながら、最後に「スミス会長からの招待の件については、英二社長とじっくり話し合ってみます。返事はあと二、三日待ってください」と答えた。  二月二十四日のトップ会談はどうみても絶望的である。しかし英二の代わりに章一郎が出てくれれば、最低限、格好だけはつく。神尾から英二の意向としてハワイでの会談を提案されているが、即答は避けた。チャイ独自の判断でセットしても万が一、またしてもトヨタ側の都合で実現しなかったら、スミスに再び恥をかかせることになるからである。章一郎が英二と話し合うと言っている以上、その結果をみてからでも決して遅くはない。  神尾も同じことを考えていた。章一郎は「英二社長は竣工式を欠席してでも行くべき」と心強いことを言ってくれたが、現実的には無理である。その場合、代理としてとりあえず章一郎社長が行き、それで一回つないでおき、合併騒動が一段落した段階で英二さんに行ってもらう。これがその段階で考えられる最良の策であった。  この日は、夕方にポストTカーの対いすゞ交渉の責任者でトヨタ提携のタスクフォースのメンバーにも入っている商品企画部のトーマス・マクダニエルが来日、明日は一日中、いすゞの藤沢工場にかん詰めになってSTカーの交渉をすることになっている。チャイはこの日、トヨタ自販から帰るとマクダニエルが来日するまでの束の間、久し振りにゆっくりした一時を過ごした。  対トヨタ交渉で愁眉を開いた時期、デトロイトは緊迫した空気に包まれていた。GMとUAWの労働協約改定の交渉が二十六日から再開され、二十八日深夜までにまとまらなければ、通常の七月まで交渉を持たないことになっている。  労使とも土壇場まで追い込まれ、今回が最後のチャンスである。再交渉に臨むに際して米労働総同盟産別会議(AFL‐CIO)のカークランド委員長は二十六日、ワシントンで開かれた戦術会議で講演し「UAWとメーカーの改定交渉を全面支援する」と語り、必死になって妥結に向けムードを盛り上げていた。 [#改ページ]   第五章[#「第五章」はゴシック体] シナリオ [#改ページ]     [1]  一月二十八日木曜日。名古屋のトヨタ自販本社で定例の取締役会が開かれた。工販合併の調印式を終え、さしたる議題もなく取締役会そのものは一時間余りで終わった。  豊田英二は自販の非常勤取締役を兼ねており、海外出張でもない限り必ず出席する。北米部長の柳沢は取締役会が終わり懇談会に移って全員がお茶を飲みながらよもやま話をしているのを見計らって、常務の神尾に一枚のメモを入れた。 「二月二十四日の件(トヨタ・GMのトップ会談)で相談があります。申し訳ありませんが別室に来てもらえませんか」  柳沢からのメモを加藤に渡し、席を立ち別室に入るとほどなく、会長の加藤と社長の章一郎の二人も入ってきた。四人が揃ったところで神尾が章一郎に尋ねた。 「昨日、英二社長とスミス会長の招待の件について話し合われたのですか」  章一郎は昨日、英二とGM提携問題について話し合ったが、結論は「二月二十四日はどうしてもデトロイトに行けない。スミス会長へは私が手紙を出して謝る」ということであった。しかしこれではGMとの関係は修復できても、提携交渉そのものは前進しない。 「英二社長には謝りの手紙は出してもらうとしても、当然、二月二十四日に代わる日を提案するのでしょうね」  神尾は章一郎にたたみかけたが、「その辺は分からない」との頼りない返事である。  二人の会話をじっと聞いていた加藤が、突然話に割り込んで提案した。 「それはいけない。GMに対して失礼だ。英二君が行けなければ章一郎、お前が行け。英二君には私が後で話しておく」  加藤の指摘を待つまでもなく、章一郎は英二が訪米できなければ一時、自分がデトロイトに出掛けることも考えたが、二月二十四日のトヨタ東京ビルの竣工式は、実質的には工販合併のお披露目式でもある。この席を自販の社長が欠席すればマスコミから変に憶測される。 「合併がなければ欠席しても構いませんが、本決まりになった以上、欠席というわけにはいかないでしょう。ただし三月九日から十二日まで、ワシントンでジョージタウン大学国際戦略問題研究センター(CISI)の定例役員会があり、そこへ出ることにしているので、一日早く出発すれば、八日なら都合がつきます」  とはいえこれはあくまでトヨタ側の一方的な希望である。相手にも都合がある。一日しか希望日を出さないというのは相手に失礼である。「もっと幅を持たせ、選択の余地を与えるべき」との神尾の指摘に対し、章一郎が代案を出した。 「それなら米国にはもっと早く行き、六日、七日、八日の三日間から選んでもらったらどうだろうか」  トヨタ自販首脳の協議では、英二の代理として章一郎が行くことを決め、柳沢がチャイに相談して会談日程を詰めることになった。協議は十五分足らずで終わったが、三人が席に戻るのを待っていたかのように懇談会は終わった。  帰り際、英二は神尾に一枚のメモを見せた。スミス会長宛てに英二が書いた手紙の下書きである。内容は「せっかくご招待にあずかりながら、トヨタ側の勝手な都合で出席できず申し訳ありません。後日、改めてお会いしたいと思います」という簡単なものである。  これを見て神尾は注文を出した。 「これではあまりにも素気なさ過ぎます。もっと情を込めた文章にした方が良いのではないでしょうか」  神尾はこの段階で英二に「社長の代理として章一郎さんが米国に行くことを検討している」と言うわけにはいかない。英二に伝えるのは加藤なり章一郎の役割だからである。  英二が自宅でスミス会長宛ての手紙の文章の練り直しを始めた頃、デトロイトではGMとUAWが二十八日深夜の時間切れを前に切羽詰まった交渉を続けていた。両者の交渉では、UAWが賃下げに応じ、GMはそれを新車価格の値下げの資金に充てることで仮合意していたが、賃下げの幅とそれに伴う管理職の賃金カット率、さらに組合員の職場保証の面で対立、一時決裂しかけたが、二十六日から二十八日いっぱいの期限付きで交渉を再開した。  GMにとってUAWが出した要求の中で絶対に譲れない線が職場保証である。GMがUAWの要求に屈する形で、いったん職場を保証してしまえば、いすゞやスズキから完成車の輸入ができなくなるだけでなく、トヨタとの提携も難しくなる。  だが再開後も両者に歩み寄りは見られず、時間だけがむなしく過ぎ、遂に期限切れの二十八日の深夜を迎え、交渉は決裂してしまった。こうしてGMが描いた人件費の引き下げ→新車値下げ→販売増→雇用拡大の構図は崩れた。  GM車の販売は一月から極端な不振に陥っている。需要そのものが落ち込んでいるのに加え、消費者が新車の値下げを見越して買い控えを始めたからである。一月中旬のGM車の販売は前年同期比一七%減の惨憺たる数字である。市場は確実に冷え込みつつあった。  折しも二十九日付の「ウォールストリート・ジャーナル」紙が、ビッグスリーの一九八二年第一・四半期の需要見通しを報じた。それによると、三社合わせた販売台数は前年同期比二一%減の百二十二万台である。この数字は一九六一年以来の低水準である。  GMのレイオフはすでに十四万人に達しようとしていた。販売不振が続けばさらに増える。資金は枯渇しているものの、何らかの手を打たなければ局面は打開出来ない。GMは交渉が決裂した翌二十九日、一方的に新車の値下げを発表した。  値下げの内容は、㈰二月一日から六十日間、八一年、八二年の乗用車、トラックの全車種について一台当たり五百ドル〜千ドル値下げする㈪一月十三日から二月一日の間に購入した客に対し、三百七十ドル〜千五百ドルの現金を還付する。ただしXカーとJカーは二百五十ドル、AカーとTカーは五百ドルのリベート販売を実施する──など思い切ったものである。  UAWとGMの交渉は決裂し、表面的には痛み分けの印象を与えたが、実質的には経営側の勝利であった。UAWの幹部は賃下げに応じたものの下部組織を説得させることができなかった弱みがある。ところがGMは決裂したにもかかわらず、一方的に値下げを発表した。今後、プレッシャーがかかるのはUAWの方である。  会長のスミスは値下げに際して声明を出した。 「販売を伸ばすためには、市場を刺激する必要がある。UAWとの交渉が決裂したのは、一般労働者が厳しい事態を認識せず、交渉団に圧力をかけたからだ。現状を放置すると七月まで買い控えの恐れがある。そこで我々は思い切って値下げに踏み切った」  GMは資金難にもかかわらず身を削り、自らの手で市場開拓をはかる捨て身の作戦に出たのである。  名古屋でトヨタ自販の役員会があった二十八日、チャイはGMのTカーの対いすゞ交渉の責任者であるトーマス・マクダニエルとともにいすゞの藤沢工場でSTカー供給の話し合いをしていた。夕刻に東京のホテルに戻った直後、柳沢から弾んだ声で電話があった。 「トヨタ自販の豊田章一郎社長が、自工の英二社長の代わりに米国に行くことになりました。スミス会長との会談をアレンジして下さい。スミス会長には加藤会長がお詫びの手紙を出すそうです」  トヨタ自販が希望してきた日のうち三月六日は土曜日、七日は日曜日である。つまり三日間余裕があるとはいえ、実際に使える日は三月八日の月曜日一日しかない。それも章一郎がワシントンにいるので、スミス会長にワシントンに来てくれというトヨタにとって虫の良い提案である。  チャイは前日、加藤と章一郎に会った時、二人が前向きの姿勢を示したことから、「二月二十四日の会談は英二社長が無理でも、章一郎社長が代理として出席してくれれば、最低限格好だけはつく」と期待していただけに、自販の会談希望日を聞いてがっかりした。  仮に章一郎が英二の代理で会談に臨んでくれれば、GMは「トヨタに提携の意思がある」と判断できる。逆に断るようであれば「脈なし」の結論を出さざるを得ない。その意味で二月二十四日の会談が実現するかどうかは、提携の可能性を占うリトマス試験紙の役目を果たしていた。万が一、会談が実現しなければ、提携は八割がた消滅したも同然である。  試験紙の判定は中間である。三月八日にスミスにワシントンまで足を運んでもらうのは、チャイが直接頼み込めばスミスは多分「OK」するだろう。しかし、依然として日本車メーカーに反感を抱いているスミスの取り巻き連中が、目の色を変えて反対するのは目に見えている。トヨタにはトヨタの面子があるが、GMには「世界最大の製造会社」というプライドがある。しかもスミスはGMの歴代会長の中で最もプライドを重んじる人である。  仮にチャイがスミスからワシントン行きのOKをとったとしても、プライドの高いスミスの性格を知っている取り巻き連中に「なぜ代理の人に会うのに、わざわざGMの会長がワシントンまで出かけなければならないのか」を説明できても、説得するのは至難の業である。チャイはこれまでGMと付き合った経験から、取り巻き連中がスミスのワシントン行きを妨害することは十分想像できる。  GMは今や手負いの獅子である。身銭を切ってまで値下げに踏み切った。もしトヨタとの提携交渉が不調に終われば、米国市場でトヨタの前に大きく立ちはだかるだろう。よしんばGMが譲歩した形で交渉の舞台に上っても、GMは「この話を先に持ち出したのはトヨタ。GMとしてはまとまらなくてもともと」といった強い姿勢で交渉に当たるだろう。いずれにしても損をするのはトヨタである。  柳沢から電話を受けた後、チャイは夕食をいすゞの株主総会に出席するため来日したアジア・アフリカ担当副社長のマコーミックと済ませ、彼の部屋で十一時過ぎまで話し込んだ。  マコーミックはスミス会長の指示で、いすゞの株主総会後にトヨタ自販の加藤会長を表敬訪問することになっているが、トヨタとの関係が微妙な段階にさしかかっていることから、事情を話し表敬訪問をキャンセルしてもらった。  この一週間、トヨタの態度が余りにもおかしかったので、マコーミックには来日直前に国際電話をかけ、昨年十二月二十一日のスミス・加藤会談の議事録を持参するよう頼んである。そして夕食が終わった後、議事録に目を通したうえ、さらにマコーミックの口から再度、会談の様子を聞いた。議事録のさわりの部分にはこう書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  加 藤「(トヨタとしては)GMとあらゆる意味で仲良くしたい。私がトヨタ自工社長の豊田英二をここ(デトロイト)に連れてくれば、会っていただけますか」  スミス「それは喜んで会います。その時は三人で食事でもしましょう。豊田さんの都合もあるでしょうが、来年の二月二十二日からSAE(米国自動車技術者協会)大会が開かれます。その時なら、豊田さんも米国に来やすいのではないでしょうか」  加 藤「そうですね。二月には豊田を一緒に連れて来るので、その時は宜しくお願いします」 [#ここで字下げ終わり]  これを読みながらチャイは思った。 〈加藤さんは痩せても枯れてもトヨタを代表する人だ。豊田社長は二月二十四日のトヨタ東京ビルの竣工式は前から決まっており、加藤さんも知っていたはずと言っていたが、加藤さんがスミスに「豊田社長に会ってほしい」と頼んだ以上、英二さんは万難を排してスミス会長に会うべきだ。これが誠意というものだ。トヨタ側がスミス会長からの招待状がほしいというので、デトロイトのスミスに電話をかけ、トヨタの意向に沿った招待状の原案を考え、それをスミスの秘書に持たせ、UAWとの交渉の席に潜り込ませてサインしてもらい、それをわざわざジャック・スミスにニューヨークまで届けてもらった。にもかかわらずトヨタの態度は余りにも理不尽、慇懃《いんぎん》無礼である。トヨタは果たして、こうした仲介者の苦労が分かっているのだろうか〉     [2]  米国の自動車産業は現時点では確かに最悪だが、下期から回復に向かうというのが当時の自動車アナリストの共通した見方であった。スミスがUAWとの交渉が決裂した後、需要回復を前提に値下げという大博打に出たのは、「回復時期を早め販売に弾みをつけたい」という思惑からである。  GMの業績が急回復し、シェアが上がれば独禁法の運用も厳しくなる。GMとトヨタの提携は一年前であれば、トヨタはまだフォードと交渉をしていた時期であり、到底無理だった。GMの業績が回復した一年後では、さらに難しくなる。花井の言葉を借りるまでもなく、両社の提携は�天の声�であり、タイミングは今をおいてない。  GMがトヨタとの提携に失敗すれば、当然その代償を払わなければならない。小型車戦略の再構築である。それにはある程度の時間を必要とする。  時間稼ぎの手段として考えられるのは、政府、議会に対し八三年度で期限が切れる日本車の輸入規制の長期固定化を働きかけることのほか、オッテンジャー議員ら四人の民主党議員から米下院に提出されている米国で自動車を販売しているメーカーに対して米国製部品の調達(八五%)を義務づけるローカルコンテント法案の賛成に回ることである。  UAWはすでにこの法案が、雇用の確保につながることから賛成の態度を表明している。GMが賛成に回れば、議会を通過する可能性が強い。  UAWとの労働協約改定交渉は決裂したが、定例の交渉が七月には再開される。そこでUAWに賃下げに応じさせるには、GMは何らかの代償を出さなければならない。ローカルコンテント法案賛成は絶好の代償である。  一方、スミスは最初からトヨタの提携交渉をにらんで、UAWとの協約改定交渉に臨んでいた。トヨタが提携交渉に応じれば、七月に始まる交渉でもUAWの要求を蹴るつもりでいた。しかし交渉のテーブルに着かないとなれば戦略を再構築しなければならない。  ローカルコンテント法案が成立すれば、トヨタの対米進出は避けられない。単独進出では国内のような低コストで、しかも品質の良い車を作るのは不可能である。トヨタはそのことを知っているから対米進出をためらっているのである。  ただし、ローカルコンテントはGMにとって両刃《もろは》の剣である。法案が成立すれば米国からの脱出が不可能になる。その半面、完成車輸入がやりやすくなる。法案の盲点を利用するのである。GMのローカルコンテントは、現在九五%だが、下院に提出されている法案は八五%だから、その差額の一〇%を生かせば年間百万台の完成車を輸入出来る。  すでに決まっているのはいすゞのSTカー二十万台、スズキのMカー十万台である。韓国のセハン自動車(現大宇自動車)からも十万台程度なら輸入できる。これ以上、提携先から調達するのは困難である。  鳴り物入りで開発したワールドカーのJカーは、早々と�羊の皮を着たXカー�のレッテルを貼られ、販売はもたついている。期待の超小型車のSカーは米国生産の中止を決めた。こうなると不足分を補うには日本の提携会社を活用する以外にない。  いすゞとスズキに供給能力がなければ、次善の策としていすゞ、スズキの両社にGMが資金を出して主要コンポーネントを作らせ、それをGMの工場で組み立てることが考えられる。  この結論はどんなに遅くとも七月のUAWとの交渉の前に出さなければならない。GMが交渉を急ぐ本当の理由である。チャイは迷ったが、GMの考えと狙いを神尾に正確に話し、提携のキャスティングボートはトヨタが握っていることを強調した。 「GMの考えは良く分かりました。私が章一郎社長に言うのも変ですので、明日にでも再び柳沢を章一郎社長の自宅に行かせ、GMの意向を社長に伝え、再度二月二十四日の会談に出席するように要請させます」  神尾はこう約束して電話を切った。  チャイがあくまで二月二十四日にこだわるのは、一足先に帰国したジャック・スミスが三十日にトヨタ訪問の成果を、スミス会長に報告することになっているためである。GMは二月二十四日の会談を前提にUAWと交渉している。  スミスが来日直前にチャイに「日本に行ったら毎日でも電話してくれ」と言ったのはトヨタの出方を見ながらUAWとの交渉に当たりたいという思惑からである。しかしチャイはまだ一回も電話をしていない。日本に来てからはトヨタとの食い違いだけが目立ち、報告すべき成果がないからである。  ジャック・スミスは帰国間際、「会長にはすべて、君が言った通りのことを報告する」と言って慰めてくれたが、スミスに嘘の報告をするわけにはいかない。ある程度本当のことを言わざるを得ない。チャイはラーセンの意見を聞いたうえ、トヨタの最終態度をみて、三十日にジャック・スミスが会長のスミスに報告する前までに結論を出そうと思っていた。  柳沢が東京・赤坂のトヨタ自販社長豊田章一郎の自宅を訪れたのは一月二十九日の夜である。しかし章一郎の返事は、チャイの期待したものとはほど遠かった。 「工販合併の前ならともかく、発表後にトヨタ自販の社長が東京ビルの竣工式に出ないわけにはいかない。ここはなんとしてでも三月八日の線でまとめてほしい。八日は何が何でもスミス会長にワシントンに来てくれというのではなく、私がGMが指定した場所に行くのもやぶさかでない」  チャイは柳沢から章一郎の答えを聞いた時点で、二月二十四日のトップ会談の中止を決断した。 「デトロイトはまだ明け方だが、朝になったらジャック・スミスに電話をして、会談中止の手続きを取ろう」  会談は中止となったが、不思議なことに挫折感はさほど感じなかった。柳沢の話を聞く限り、「トヨタはここへ来てようやくGM提携に真剣に取り組み始めた」との感触がひしひしと伝わってきたからである。しかし、トヨタとの提携が一歩後退したことは事実で、デトロイトに帰れば提携反対勢力から、「それみたことか。トヨタにはGMと提携する気持ちなんかハナからなかったのだ」と非難されるのは目に見えている。柳沢と話していて、昨年十二月、スミスと会った時点で加藤は、トヨタの東京ビルの竣工式が二月二十四日にあることを本当に知らなかったことや、トヨタは決してフォードとGMを両天秤にかけていないことも分かった。  二月二十四日のトップ会談は中止されたが、提携が完全消滅したわけではない。チャイは仕切り直しをして、改めて会談日を設定し、GM社内の反対勢力を粘り強く説得しようとの決意を固めた。  神尾はこうしたチャイの気持ちに感謝した。担当が海外部門だけにGM提携は今をおいてないことは、誰よりも熟知している。ここまでくれば、局面を打開するには再度、英二を口説く以外にない。そこで柳沢にその後の経緯を簡単に報告させた後、豊田市の英二の自宅に電話を入れた。 「柳沢から話を聞いていただいたでしょうか。柳沢はチャイさんからGMのマコーミック副社長が作成した加藤会長とスミス会長の会談の議事録を見せてもらっております。加藤さんも事の重大性に驚いております」  英二はすでに柳沢から報告を受けており、対応に苦慮していた。 「GMの議事録に載っているとすれば、事は重大だ。加藤さんがトヨタを代表してスミス会長に会い『私を連れて来る』と約束した以上、やはり私がデトロイトに行かなければならないだろう」  チャイが今度の自分の行動を確認するため、デトロイトから取り寄せた議事録が思いがけないところで威力を発揮したのである。 「英二社長が二月二十四日に訪米できないというのであれば、次善の策として章一郎社長に行ってもらうのも一つの手です。自販はその線で準備に入っていますが、私はやはりここは日程を変更してでも、早い機会に英二社長が行った方がいいと思います。GM提携の機会は、今を逃したら永久に来ません。またスミス会長の招待に礼を欠くようなことがあれば、GMは本当にトヨタの敵になってしまいます」  神尾からそこまで言われて英二もようやく重い腰を上げた。英二は決断するまでは丑年生れらしく時間がかかるが、いったん腰を上げれば芒洋とした風貌に似あわず、動きは豹のように敏捷《びんしよう》である。 「二月二十四日は無理だが、日程を変更すれば三月上旬には行ける。早急に米国に行くにはそれなりの名目がなければ……」  ただ英二が行くにしても三月上旬という漠然とした日程では、GMと折衝できない。神尾はそのこと指摘したうえで話を続けた。 「チャイさんが今晩、一足先に帰国したジャック・スミスに電話して、二月二十四日の会談が中止になったことを伝えます。ジャック・スミスは三十日にスミス会長に今回のトヨタ訪問の成果を報告することになっています。出来ればその時までに、会談の日取りを決めておいた方が良いのではないでしょうか」 「それでは三月一日から五日までの間でどうだろうか。この時期ならなんとか都合をつけられる。ただしマスコミに感づかれてはまずい。月曜日までに米国に行く口実を作ってくれ」  こうして英二の米国行きが決まった。柳沢は神尾から連絡が入ると同時にチャイにその旨伝えた。チャイはデトロイトに朝が来るのを待ち、ジャック・スミスに電話を入れ、英二が米国行きを決断したことを伝え、そこまでに至るトヨタ側の事情を説明した。  トップ会談に向けての行動は一度失敗しているので、具体的な行動はトヨタが工販の調整をしたことを確かめてから起こすことにした。時期的には三月上旬であれば問題はない。それより大事なのはトップ会談の席で、二人が何を話すかである。GMは小型車の将来について時間と金をかけて徹底的に調査を進めており、その結果次第で交渉の出方が違ってくる。     [3]  神尾は週末に東京・大森の自宅で、英二の米国行きの名目をじっくり考えた。アイデアがないわけではない。一つはカナダに直接入る案。もう一つは米国トヨタのワシントン事務所の開所式を利用する案である。  トヨタはカナダにアルミ工場を建設することを表明している。昨年十二月十四日に|ブリティッシュ・コロンビア《BC》州のベネット首相がトヨタ自工を訪問した時、英二は、「ぜひBC州に工場を建設してほしい。そのため一度BC州に来て下さい」と要請されている。これに応える形でカナダを訪問すれば、誰にも気づかれずにデトロイトに入れる。  一方のワシントン事務所は前年秋にオープンしたものの、まだ正式な開所式を行っていない。二つ目の案はこれを利用するやり方だが、トヨタが開所式のセレモニーをやるともなれば、米議会の関係者を大勢呼ばなければならない。その前に米国トヨタの関係者にある程度、英二が訪米する本当の目的を知らせざるを得ない。  神尾は第一案について、柳沢にトヨタの希望する日にベネット首相との会談が可能かどうか、早急にカナダ大使館に打診するよう指示した。柳沢は週明けの二月一日の月曜日にカナダ大使館と折衝したが、あいにくベネット首相が海外出張中で、返事が遅くなることからこの案は早々と断念した。  第二のワシントン事務所の開所式は、あまりにもリスクが大きすぎる。開所式ともなれば英二の挨拶は欠かせない。この時期、対米進出について従来通り慎重な発言を繰り返すだけでは、議会関係者を失望させるだけでなく、米国のマスコミから叩かれるのを覚悟しなければならない。といってGMとのトップ会談をにおわせることもできない。英二もこの案に乗り気ではなく採用を見送った。  神尾は新たな案を考えている時、日頃親しくしている新聞記者から聞いた話を思い出した。マツダがフォードと資本提携する際、主力の住友銀行頭取の磯田一郎がとった苦肉の策である。  マツダとフォードは一九七九年(昭和五十四年)五月、米国の自動車業界専門誌「オートモティブ・ニュース」に資本提携をすっぱ抜かれ、直ちに提携を発表した。提携の噂は一年前の春先から流れていたが、「最終的にフォードのトップが来日するなり、マツダの再建を支援している住銀のトップがデトロイトを訪れない限り実現しない」というのが業界の定説となっていた。  両社の提携話が流されるたび、会社側も再建を支援している住銀もやっきになって否定したが、否定の仕方が「時期尚早」とあいまいだったことから、これを株式市場がはやしたてマツダの株価が急騰した。  七七年(五十二年)十一月にわずか百八十三円だったマツダの株価は七八年の春先には、円高と相まって四百五十円を突破した。六月には会長のヘンリー・フォード二世が国際自動車担当執行副社長のハロルド・ピーターセンなど大勢の幹部を引き連れ来日、資本提携騒動は最高潮に達した。  実は住銀がフォードにマツダとの資本提携を要請したのは、株価が上がる前の七七年秋である。交渉はとんとん拍子に進んだが、年が明けて株価が急騰したため、資金難に悩むフォードが難色を示したことから、提携交渉は暗礁に乗り上げていた。  その矢先のフォード二世の来日である。当時、住銀の頭取だった磯田はマツダとフォードとの資本提携を聞かれ、「(マツダが)フォードと提携するメリットは何もない。仮にそういうことになればアラブボイコットの対象になる」と提携に無関心を装い、盛んに煙幕を張った。  といって磯田がフォードとの提携を断念したわけではなかった。住銀は早い段階でマツダは自主独立路線は歩めないと判断していたからである。フォードも業務面で年々、マツダとの関係が深まり、資本提携に大きな関心を持っていた。  フォード二世が来日の記者会見でその辺の事情を正直に語っている。 「マツダの株価は馬鹿げたほど過大評価されている。これでは手を出す気にはならない」  裏を返せば、株価の問題さえ解決すればいつでも資本提携に応じるということである。  磯田は表向きフォードとの提携に消極姿勢を取ることで、株価が元の水準に戻るまで「待ちの作戦」に出たが、株価は一向に下がる気配がない。フォードに有利な形で資本参加の方策を見いださない限り提携話は立ち消えになってしまう。  秋口に入り住銀が考えたアイデアは、資本参加に際してはフォードが直接現金を出すのではなく、日本フォードが戦前から横浜市郊外に持っている土地を現物出資するというものである。  具体的にはマツダと横浜の土地を所有している日本フォードを合併させるのである。この案だとフォードの負担は現金出資に比べ格段と軽くなり、提携しやすくなる。ウルトラCともいえる提携案を考え出したのは、住友銀行でマツダ再建を直接担当している融資第二部次長の永田武全(現取締役)である。これをベースにした提携交渉は十月から始まり、七九年の年明け早々には事務ベースでの交渉が基本合意に達した。  ただし磯田が訪米してフォード会長のフォード二世と会い、了承を得ない限り実現しない。といってこの時期、磯田がのこのこデトロイトへ出かければ提携交渉がバレてしまうだけでなく、株価が再び暴騰してしまう。事は隠密裡に運ばなければならない。  そこで磯田が打った手が、サンフランシスコに本店がある現地子会社の加州住友銀行の頭取を交替させることである。子会社とはいえ頭取が交替すれば、サンフランシスコとロサンゼルスで交替パーティーを開くのが金融業界のしきたりである。そのパーティーに本店の頭取が出席するのは極めて自然である。  住銀は一月の定期異動の際、さり気なく加州住銀頭取が取締役の多田芳雄から赤松仁明へ交替することを発表し、二月にサンフランシスコとロサンゼルスの二カ所で交替パーティーを開くことを決めた。  磯田は二月十二日、何食わぬ顔でサンフランシスコの空港に現れた。空港には現地駐在の日本人記者が大勢待ち受けており、当然のごとく質問はフォードとマツダの提携に集中したが、磯田は「今回は加州住友の頭取交替パーティーへの出席が目的。一週間後にロサンゼルスでも同じくパーティーを開くが、時間があるのでのんびりフロリダのディズニーワールドにでも行ってくる」と煙に巻いた。  それでも信用しない記者はパーティーの翌日の十四日、見送りを名目にサンフランシスコ空港まで押しかけたが、磯田は予定通りマイアミ行きの飛行機に乗り込んだ。だが磯田はマイアミに着くや否や、直ちにデトロイト行きの飛行機に乗り換えた。  デトロイトのメトロ空港では、足早にフォードが用意したリムジンに乗り込み、ディアボーンのフォード本社に向かい、フォード二世と資本提携に向けて最初で最後のトップ会談に臨んだ。  この時のフォード二世と磯田のトップ会談で、マツダと日本フォードが合併する形での資本提携が本決まりとなった。磯田はフォード二世との会談後、再びフロリダに戻りマイアミ経由で、何くわぬ顔で今度はロサンゼルス空港に着いた。二十日のパーティー会場では周りを取り囲んだ新聞記者に自分の方から、「フロリダは思ったより暑くなかった」と語りかけ、しきりにマイアミでの行動を強調した。  神尾はこの話にヒントを得て、カナダでディーラー大会を開く案を考えた。米国での行事はいずれにせよ危険が伴う。その点カナダであればオタワからでもトロントからでも一時間あればデトロイトに行ける。  カナダのディーラー大会は昨年秋に開いたばかりだが、幸いなことにカナダトヨタの要請で今春、オンタリオ州だけのディーラー大会を開くことになっている。この開催時期を多少繰り上げるだけで、誰にも怪しまれずデトロイト入りが可能になる。  カナダは米国同様、日本車の輸入制限に踏み切っており、厳しい輸入制限下で販売を伸ばすには小型トラックの増販しかない。そのため本社の社長が出席するとなれば、ディーラーの士気は高まる。まさに一石二鳥である。  神尾は英二の了解をとったうえで一日の夕刻、チャイに電話を入れ、トップ会談を三月一日から五日の間にセットしてくれるよう正式に依頼した。GMに会談の日を選んでもらい、それが決まり次第、カナダでのディーラー大会の日取りを決める。準備期間はわずか一カ月しかないが、急がせればなんとか間に合う。  トップ会談に通訳として柳沢を同行させることは、すでに英二の了解を取り付けてある。柳沢は英二が海外出張の際、通訳として何回も同行しているので、この点、誰にも怪しまれない。  神尾は三月のトップ会談の段取りをつけると、加藤と章一郎に報告、英二の意向を伝えた。 「新聞記者はもちろん、通産省に対してもGM提携の素振りすら見せないで欲しい」  豊田英二の米国行きが本決まりになり、トップ会談の日程の再調整に入った矢先、柳沢が風邪を引き、三十九度近い熱を出し、ついにダウンして会社を休んでしまった。柳沢は今年に入ってから、GM提携の窓口役として八面《はちめん》六臂《ろつぴ》の大活躍で、睡眠時間は一日四、五時間しかとっていなかった。  柳沢に代わってトヨタ自販の秘書室の女性がチャイの宿泊先のホテルオークラへ、豊田英二と加藤誠之の二人がそれぞれGM会長のスミス宛てに出した二通の手紙の写しを持って来た。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   [豊田英二の手紙]    ロジャー・スミスさん    J・W・チャイさんが持参した手紙を拝見しました。非常に感謝しております。二月二十四日のディナーへのご招待、大変有り難く思っております。しかしながらこの時期は時間的な余裕がなく、SAE(米国自動車技術者協会)大会には出席出来ません。    一月に来日したジャック・スミスさん、ビル・ラーセンさんとはチャイさんを交え、友好的な話し合いをしました。次は私たちが一緒に会って話し合うのが何よりも大切かと思います。双方が都合つくできるだけ早い時期にお会いしたいと思います。    一九八二年二月一日 [#地付き]豊田 英二    [加藤誠之の手紙]    ロジャー・スミスさん    昨年十二月二十一日の会談は非常に有意義でした。さらに二月二十四日のディナーへの招待状も非常に感謝しております。    せっかく招待を受けたのですが、二月二十四日は私もトヨタ自動車工業の豊田英二社長も日本を離れることが出来ません。ちょうどその日がトヨタ東京ビルのオープニング・セレモニーと重なってしまったからです。    トヨタの工販合併がなければトヨタ自動車販売の豊田章一郎社長を代理出席させることも出来たのですが、現状ではセレモニーには両社の社長が出席しなければなりません。こうした事情から申し訳ありませんが、二月二十四日のディナーには出席できなくなりました。    しかしトヨタ自工の豊田英二社長は、スミス会長に会いたがっています。    もし豊田英二社長との時間調整が難しければ、トヨタ自販の豊田章一郎社長が三月九日から十二日までワシントンにおります。この時期、豊田章一郎社長にお会いいただければ光栄です。 [#ここで字下げ終わり]    一九八二年一月二十九日 [#地付き]加藤 誠之      [4]  スミス会長宛ての二通の手紙を見て、チャイは、すぐGM本社の会長秘書に連絡して、トヨタからの手紙が着いてもスミスには上げないよう指示した。トップ会談の日程の再調整をやっている矢先、二人のトヨタ首脳から内容の異なった手紙がスミスの手元に届けば、混乱に拍車がかかるからである。柳沢になぜ二人が手紙を出すことになったのかの原因を聞きたかったが、風邪で会社を休んでいるとあって、それもままならない。  実は加藤は二通の手紙を書いていた。一通が一月二十九日付、もう一通が二月一日付である。前者は英二の米国行きの決断を知らず、章一郎の訪米を前提にしたもので、後者はその部分を削除したものである。  加藤にすれば今回の騒動は元をただせば、自分の不手際から生じたことなので、その辺のことを率直にスミスに詫びたかったのである。それが何かの手違いで前に書いた手紙を出してしまった。  チャイは再びGMの会長秘書に連絡して、とりあえずスミスには英二の手紙だけを上げるよう再度指示した。  英二はその直後に加藤、花井、章一郎の三人を呼んで、「GMとの提携を模索したい。そのため私自身がデトロイトに行きスミス会長と会う」と初めて胸の内を明かした。その席で話題になったのは「GMと提携交渉に入る以上、フォードとの関係にけじめをつけておかなければならない」ことである。  フォードとの関係はミニバンで白紙還元した後もトヨタでは、常務で海外事業室長の田村が交渉の糸を切らずに、細々とパイプをつないでいた。最高首脳四人がGMとの交渉に入ることで合意した後、会長の花井は田村を呼んでフォードとの関係を早急に清算するよう命じた。  ジャック・スミスが会長のスミスに会い、訪日の成果を報告するのは当初の予定では一月三十日だったが、会長がUAWとの交渉に疲れたこともあり、二月の第一週に延期された。GMは毎月、第一月曜日にニューヨークのGMビルで取締役会と財務委員会を開く。二月は一日が月曜日なのでスミスはニューヨークにいる。他に用事がありデトロイトに戻るのは水曜日だから、ジャック・スミスが報告するのはそれ以降になる。  チャイのところへは毎日のようにジャック・スミスから国際電話が掛かって来る。一日も早く帰国するよう矢のような催促の電話で、当初の予定を三日繰り上げ、二月六日に帰国することを決めたが、チャイはその日までにトップ会談の日取りを決めておきたかった。  トヨタの希望する日の中で、最も実現性が高いのは三月一日である。ただし場所はデトロイトではなくニューヨークである。三月も二月と同じように一日が第一月曜日である。考えてみると、会談場所としてはデトロイトよりむしろニューヨークの方が適している。英二もライバル企業のお膝下で話し合うより、ニューヨークの方がいく分、気が楽である。万が一、誰かに出会ってもニューヨークならいかようにも言い訳が出来る。神尾はこうしたチャイの見通しを前提に、カナダでのディーラー大会の日程を三月三日と四日の二日間、トロントで開くことを決め、カナダトヨタ社長の東郷泰行(現米国トヨタ自動車販売会長)に準備を進めるよう指示した。ただし、日程変更があった場合に備え「カナダでの二日間は絶対に英二社長のアポイントを入れないよう」厳命した。  この日程通りゆけば英二が日本を発つのは二月二十七日の土曜日、帰国は一週間後の三月六日の土曜日となる。  スミスはニューヨークから帰った翌日の四日朝、出社するなりジャック・スミスとラーセンを十四階の会長室に呼び、トヨタ訪問の成果を聞いた。しかし二人は一体、日本で何が起きていたのか、実のところ皆目見当がつかなかった。  トヨタを訪問した最初の日は、常務の田村からアフリカから来たアッセンブラーのような扱いを受けたかと思えば、夕方には名古屋のホテルで英二と恭《うやうや》しい食事をしたものの、話は全くかみ合わなかった。翌日は田村が掌《てのひら》を返したような態度に出てきた。開発中の新車も見せてもらった。その都度チャイから説明を受けたが、どれが本当のトヨタの姿なのか、さっぱり分からないままデトロイトに戻ってきた。  スミスにはチャイと打ち合わせた通りのことしか報告できない。帰国した二人の役目はチャイの指示に従ってトヨタの要望する線でスミスと英二のトップ会談をセットすることである。  チャイは日本時間の四日深夜にジャック・スミスから電話を受け、会談は三月一日にニューヨークで開くことを決めたとの報告を受けた。チャイが一番気にしていたのは、スミスが日程変更にこだわっていたかどうかである。  しかし、ジャック・スミスの話では、会長は日程変更には意外にも無頓着だったという。ラーセンはチャイが六日に帰国することも報告したが、会長の返事は「帰国次第できるだけ早くデトロイトに来てほしい。豊田社長とのトップ会談を有意義なものにするために、丸一日時間を空ける」とチャイの帰国を待ちわびるものだった。  これを聞いてチャイはニヤリと笑った。スミスの言うことが、今の段階から分かるからである。 「トヨタ提携はすべてお前に任せてある。しっかりしたお膳立てをしてくれ。私はその通りに動くだけだ」  スミスは日本企業との提携でGMが前面に立てば、仮にまとまるにしても時間だけがかかることを百も承知している。その意味でGMの日本カードはチャイのポケットに入っているのである。  いすゞ自動車の株主総会は例年通り、一月二十九日に東京・丸の内の東商会館大ホールで開かれた。いすゞはかつてトヨタ、日産とともに自動車業界の�御三家�と呼ばれた名門会社だが、このプライドが災いして一九六〇年代前半(昭和三十年代後半)から始まったモータリゼーションの波に乗り遅れてしまった。  歴史と伝統があり、しかも十月期決算だけに、大勢の総会屋が押しかける。社長の岡本利雄は正月明けから風邪をこじらせ、病に臥せており、チャイは岡本の病気に胸を痛めていた。来日した翌日の一月二十一日は一緒に昼食をとりながら、いすゞの将来について語り合うことになっていたが、前日に東京・大森の本社近くにあるいすゞ病院に入院したこともあり、昼食はキャンセルとなった。  その代わり病院に見舞いに行ったが、思った以上にやつれていた。岡本は明治生まれの生真面目な技術者上がりの社長で、GMとトヨタの提携交渉を知らされ、それが頭の中では歴史の流れであることは分かっていても、割り切るまでには時間がかかる。チャイから「絶対に他言しないよう」クギを刺されているので、誰にも相談できず悶々とした日々を過ごし、それが病気の長期化につながったともいえる。  これまでGMといすゞは表面的にせよ、社内外に対等という印象を与えてこられたのは、すべて岡本の功績である。いすゞがGMと提携する時、社内は外資提携派と国内メーカーとの提携を模索する民族派に二分されていた。岡本は乗用車を切り捨てないために外資との提携を推進した。  こうした岡本の考えは、GM社内では周知の事実である。だからこそGMの歴代会長、社長は岡本への配慮からすべて遠慮がちにものを言ってきた。その重しがなくなれば、GMは経営権を握らなくとも、いすゞの経営に対し強気の姿勢で臨んでくるのは火を見るより明らかである。一時、株主総会の議長を務めることも危ぶまれたが、岡本は社長の責任感から病をおして総会に出席、無事乗り切った。  株主総会の前後の一月二十八日と三十日の両日、藤沢工場で開かれたGMとの一連のミーティングで懸案のSTカーの供給が本決まりになった。ただし輸出価格と時価転換社債の発行時期など資金に絡む問題については、財務担当執行副社長のアラン・スミスの来日が中止になったことから春まで延期することになった。  アジア・アフリカ担当副社長マコーミックが担当しているGMODC《オーバーシーズ・ディストリビューション》の肩代わり問題も決着した。いすゞは年間二十万台のトラックを輸出しているが、そのうち十万台をGMルートで売っている。  そのGMルートは二つに分かれている。いすゞ車を組み立て生産、それを販売するのがGMOC《オーバーシーズ・コーポレーション》、完成車の販売だけがGMODCである。いすゞ車はODCを通じて世界百カ国に輸出しているが、ODC任せでは限界がある。もっときめ細かな販売策をとるには、いすゞのODCへの経営関与は欠かせない。今後、ODCの経営は実質的にいすゞが当たることで決着した。  懸案の問題が解決した直後、二月四日付の日本経済新聞朝刊一面トップに、いすゞがGMに小型車を供給するニュースが載った。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    いすゞGMに小型車供給。八四年から年二〇万台 設備投資一〇〇〇億円、GM負担四〇〇─四五〇億。GMの出資比率四〇%へ [#ここで字下げ終わり]  これが見出しで、本文は次のようになっている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    いすゞ自動車は資本提携先の米GM《ゼネラル・モーターズ》に、いすゞが独自に開発したエンジン排気量千三百─千五百ccの小型乗用車を、対米輸出自主規制の期限が切れる八四年夏から年間二十万台規模で供給することで合意した。これに伴う設備資金は開発費を含め一千億円で、いすゞはこのうち四百億─四百五十億円をGMから導入する方針。    具体的にはGMの一括買い取りによる時価転換社債の発行を計画している。GMがこれを全額株式に転換すれば、GMのいすゞ持ち株比率は現在の三三・四%から四〇%前後に上る。これら両社提携の強化については、いすゞの岡本社長とGMロジャー・スミス会長との間ですでに基本合意が成立しており、近く細目交渉に入る。世界小型車戦争に向けてGMファミリーの小型車長期戦略が明らかになったことで、トヨタ自動車工業、日産自動車両大手としても対米乗用車輸出規制解除後の対米戦略の見直しを迫られよう。 [#ここで字下げ終わり]  通産省は自動車業界の設備投資について、能力増につながるものについては、自主規制の期間中は原則的にこれを認めない方針をとっている。いすゞの設備投資はこれに抵触する。この点について新聞では、通産省の豊島格機械情報産業局長の談話を入れている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    今後、いすゞから設備投資計画など細かい点を聞いた上で、(新規投資についても)弾力的に対応していく。 [#ここで字下げ終わり]  さらに新聞ではGMの出資比率の引き上げについても触れている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    この計画が実現すれば、米ビッグスリーが資本提携先の日本企業の持ち株比率を引き上げるのは今回が初めてとなる。GMは昭和四十六年(一九七一年)の提携当時、通産省に「今後五年間は出資比率は引き上げない」という念書を提出しているが、通産省はすでにこの期限が過ぎたことに加え、長期的に見てもいすゞの経営安定につながることからこれを認める方針である。 [#ここで字下げ終わり]     [5]  このニュースは外電がただちにキャリーしたほか、GMOCが即座に英文に翻訳して会長のスミスに上げた。スミスはこれを見てしてやったりの表情で笑った。スミスにすればUAWとの労働協約改定交渉が決裂した後だけに、七月から始まる本交渉に向けて、このニュースがUAWに対してプレッシャーになり得ると判断したからである。  すっぱ抜かれたいすゞは、副社長の佐野謙次郎が岡本の意を受けて来日中の副社長、マコーミックに「今日の新聞報道のニュースソースはいすゞではない」ことを口頭で伝えるとともに、岡本の名前でスミス会長宛てに同趣旨の手紙を出すことになった。馬鹿馬鹿しい儀式だが、官僚組織のGMを相手にする限り、こうした手続きは避けて通れない。  チャイはこの日、帰国の挨拶を兼ね、岡本を表敬したが、病み上がりにもかかわらず、株式総会を乗り切って一安心したのか、それともGMとトヨタの提携問題で心の整理がついたのか、すっきりした顔で語りかけた。 「私は病院の中で毎日、GMとトヨタの提携が成立したことを前提に、それでもなおGMグループの中でいすゞがどうしたらいいポジションを確保できるかばかり考えていた。今後のいすゞの経営戦略は両社の提携を前提に練り直す」  巨大提携に向けての障害が一つ取り払われたのである。  いすゞがGMに小型車を供給するとのニュースが新聞に報道されたその日の朝、チャイは電話で柳沢にニュースの背景を説明し、豊田英二にはニューヨークに来た際、会談の前にGMの小型車戦略について事前にレクチャーする用意があることを伝えた。  チャイが来日してからすでに半月になる。帰国前日の二月五日の夜、ホテルの自室の机の上に、GMとトヨタの資料を並べ、三月のトップ会談のシナリオを考えてみた。スミスの性格からして、英二が昨年十二月の加藤との会談の時のように「GMと仲良くしたい」という程度の申し入れであれば、がっかりしてトヨタに対する情熱はその時点で冷めるだろう。かけ声によるエールの交換は昨年十二月の段階で済んでいるのである。  会談が最低限成功したといえるのは、トヨタ側から「GMと提携したい。ついては……」と提携に向けて具体的な申し出があった場合である。一月にトヨタを訪問した時それを期待したが、トヨタ側の準備不足で不発に終わった。  三月の会談ではもう一歩進んで、提携を前提に「お互いに何ができるか」を肚を割って話せれば上出来である。  欲をいえばトヨタの申し出を受ける形で、スミスの口から合弁会社で生産する車種から、GMが提供する具体的な工場名まで出させ、英二がこれに同意すれば大成功である。後は両社が正式なタスクフォースを発足させ、共同生産に向けてフィジビリティスタディ(企業化事前調査)を始めるだけである。GMはすでに非公式ながらチームを発足させている。 「鉄は熱いうちに打て」のたとえ通り、スミスと英二の提携に対する熱が冷めないうちにまとめるのがチャイの仕事である。トップの意欲が冷めてしまえば、トヨタとフォードの二の舞になってしまう  チャイは頭の中でまとめた提携に対するGMの意向をメモにしてみた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰GMは今回の提携に際し、長期の交渉は望んでいない  ㈪トヨタは共同生産車種として排気量千三百ccのFF(前置エンジン、前輪駆動)スターレットを希望しているが、GMとしては採算の面から千三百cc車だけでなく、複数車種の生産を希望する。単独車種の場合は千六百ccクラスの小型車とする  ㈫本格交渉に際しては、GM提携に積極的な人を起用すること。反対論者を交渉の責任者に据えればまとまる話もまとまらない [#ここで字下げ終わり]  生産車種を複数にしたのは、田村の不用意な発言で、スターレットはトヨタですら採算が合わないことが分かったからである。千六百cc車というのはズバリ『カローラ』である。カローラはトヨタのドル箱車種で、トヨタが抵抗するのは分かり切っている。しかし儲かる車種を作り、バランスを取らないことには合弁会社に利益は残らない。合弁事業は提携のシンボルであり、そのシンボル事業が赤字であっては、事業の将来が危ぶまれるからである。  ただしカローラといっても、トヨタが米国で販売しているのと同じ車ではなく、足回りは同じであっても外観はGMが手直しするので、見た目には全く違う車となる。GMが欲しいのはカローラの外観のデザインではなく、それ以外の目に見えない足回りの部分である。  トヨタの抵抗が強ければカローラではなく、米国で販売していないカローラの姉妹車である『スプリンター』でもよい。交渉の余地を残すため、提案する時はいきなりカローラを出さず、千六百ccの車とぼかす考えである。  GMがどうしても譲れないのが、トヨタの交渉団にGM提携に積極的な人を起用するという項目である。露骨にいえば常務の田村を外してほしいということである。しかし固有名詞を出せば内政干渉になる。チャイもジャック・スミスもそしてラーセンも、今回のトヨタ訪問で、なぜトヨタとフォードの提携交渉が破綻したかがよく理解できた。  海外に強いフォードと海外戦略に立ち遅れたトヨタの組み合わせは、GM包囲網としては最高である。両社の会社案内を並べてざっと目を通しただけで、お互いにメリットがあるのは一目瞭然である。両社に米国のみならず世界市場で手を結ばれれば、GMは米国の巨大な一ローカルメーカーに追いやられてしまう。フォードもこうした計算は容易にできたはずである。米国ではフォードは手練手管を使い過ぎ、情勢判断を誤ったと見る向きが多い。  トヨタとフォードの提携交渉が破綻した本当の原因は、フォードがトヨタの開発した車と自社開発の二股をかけたことにあるが、田村はそれをいち早く見抜き、会長の花井の意向を受け、相手の交渉責任者で�カミソリ�の異名をとる執行副社長のハロルド・ポーリングを怒らせ、提携交渉をご破算にしてしまった。  考えようによっては、田村はGMにとって女神でもある。フォードとの交渉がダメになったからこそ、GMにお鉢が回って来たのである。GMとフォードのどちらがトヨタを味方につけるかによって世界の自動車産業の地図が大きく変わる。  GMはトヨタとフォードの関係に絶えず神経を尖《とが》らせていた。昨年春にデンソーの田邊守が、旧知のGMの部品担当副社長のルービン・ジェンセンを通じて、非公式にGMに提携を打診してきた時、スミスは「トヨタとフォードはまだ完全に手が切れていない」と判断し、GMとしては交渉の舞台に上がらなかった。  事実、両社の交渉は暗礁に乗り上げていたものの、破綻はしていなかった。肝心のGM提携にしても田邊がトヨタ首脳の了解を得て動いていたのではなく、田邊の独自の判断で打診したものである。  チャイはミニバンの共同生産が白紙還元したのを機にトヨタとフォードの関係は「完全に切れている」と判断していたが、ラーセンとジャック・スミスは今回の来日で「まだ切れていない」とにらんだ。根拠は田村の発言にある。  GMの三人のミッションがトヨタを訪れた際、田村は「A国ではフォードと、B国ではGMという具合に使い分けるのがトヨタのやり方」と口を滑らしたことから、二人は「トヨタはGMとフォードを両天秤にかけている」と反発したのである。  一月二十七日にトヨタ自販社長の豊田章一郎に会った時もラーセンはそのことだけを執拗に聞いた。チャイはトヨタは決して両天秤にかけていないことを、何度か説明して二人を納得させたが、矛先《ほこさき》はその分だけ田村に向かう。 「トヨタとフォードの縁が切れたというチャイさんの見方が正しければ、田村が我々にとった態度は実にけしからん。あの人が交渉のメンバーに入ったのでは交渉にはならない」  チャイがフォードとの縁が切れたと判断したのは、確たる証拠があってのことではない。すべて神尾と柳沢を信じてのことである。しかしジャック・スミスとラーセンが疑っている以上、トヨタに確認しておく必要がある。万が一、切れておらず交渉を続けていたとすれば、GM、フォード、トヨタの世界の自動車業界の三強が不信の関係に陥り、角を突き合わせた血みどろの戦いを展開する恐れがあるからだ。  その機会は意外に早くきた。フォード会長のコールドウェルが会長就任後初めて極東・太平洋地区の子会社、関係会社視察のため二月五日に来日、資本提携先のマツダ、主銀行の住友銀行のトップと会談した後、離日前日の十日に豊田英二に会談を申し入れてきたのである。 [#改ページ]   第六章[#「第六章」はゴシック体] 土壇場の混乱 [#改ページ]     [1]  フォード会長のフィリップ・コールドウェルは二月五日の夕刻、海外担当執行副社長のマクドゥーガルとマツダ提携のフォード側の責任者である副社長のライリーを伴って伊丹の大阪国際空港に着いた。入れ替わりに六日の朝、チャイは成田の新東京国際空港から帰国した。  コールドウェルの来日目的は、公式的には会長就任(八〇年三月)に伴う「儀礼的な挨拶」となっているが、本当の狙いは三つあった。  一つはマツダのドル箱商品、小型大衆車『ファミリア』の供給地域の拡大。二つ目がGMの『Sカー』対抗車種の供給要請。最後がトヨタとの提携交渉復活である。フォード一行は六日の土曜日と七日の日曜日は京都、奈良見物で長旅の疲れを癒し、八日の月曜日は朝から広島のマツダ本社で社長の山崎芳樹、会長の岩沢正二らと今後の提携のあり方について意見交換した。  マツダは一年前から、ファミリアをフォードに供給、フォードはこれに『レーザー』のブランドをつけて豪州を中心にアジア・太平洋地区で販売している。この車は予想以上に好評でフォードとしては、欧州共同体《EC》域外の欧州市場にも投入したい考えを持っていた。マツダにすれば供給地域を増やせば、自社の販売網と競合が激しくなるので、簡単にフォードの要望は呑めない。  フォードはまだGMが超小型車『Sカー』の米国生産を中止したことは知らない。GMがSカーを投入する以上、何らかの対抗手段を取らざるを得ないが、フォードはこのクラスの車は開発していない。頼れるのは提携先のマツダだけである。  マツダに超小型車の開発・設計を依頼して自社生産することも検討したが、市場調査の結果、米国市場で年間二十万台あると見ていたミニカー需要が十万台前後しかないことが判明した。これでは自社生産してもコスト高になるだけで、そう簡単に踏み切れない。  一方、マツダにしても事情は同じである。設備投資はゆうに一千億円を超す。フォードが年間二十万台引き受け、自社で十万台販売、生産ベースで三十万台になって初めて採算が合う。このメドがつかない限り決断できない。  八日のフォードとマツダとの会談は、結論が出ないまま終わった。コールドウェルは翌九日、住友銀行を訪問して頭取の磯田一郎、専務の巽外夫と会談、その席で正式に「マツダから超小型車を調達し、八四年型車から米国市場に投入したい」との計画を披露して、住銀に協力を要請した。磯田、巽の住銀首脳はフォードには「(マツダ)と提携してもらった」という恩義を感じているが、一千億円を超す投資が必要とあってはおいそれと確約できない。  超小型車の需要見通しがはっきりしないうえ、乗用車の対米輸出規制が八四年三月末で切れ、その後フリーハンドで輸出が可能になるのか見通しが立たないからである。最悪のケースは、「大型の設備投資をやった挙句、出来た車を持っていくところがない」ことである。  マツダの再建はフォードと提携したことでひとまず完了したが、基礎体力は依然として脆弱《ぜいじやく》である。一歩間違えば第一次石油ショックの直後にロータリーエンジン(RE)で失敗して経営危機に陥った二の舞を演じることになりかねない。  トヨタはフォードから会談の申し入れがあった時、八〇年の決算で赤字が十億ドルを超え、開発能力が低下していることから復縁を迫ってくることはほぼ察しがついていた。トヨタは昨年七月に交渉の白紙還元を一方的に表明したが、フォードはこれに強く反発。「白紙還元したのはミニバンの共同生産であって、交渉そのものはあくまで中断」という態度をとっている。  フォードには「中断である以上、いつ再開を提案しても少しもおかしくない」という意識がある。トヨタはフォードからの会談の申し入れを断ることもできたが、逆に会談は交渉そのものの白紙還元を最終通告する絶好のチャンスでもある。  フォードからの申し出は十日の午後四時半、場所はホテルオークラでということだったが、この日は二時半から同じホテルでコールドウェルの記者会見が開かれる。会見が長引けばマスコミにその後のスケジュールがばれ、会談の部屋に新聞記者が押し寄せる危険がある。こうしたことから、トヨタは会談場所をトヨタ自工の東京支社に変更するよう逆提案した。時間は午後五時である。  トヨタ側の出席者は英二のほか、会長の花井正八、常務・海外事業室長の田村秀世、それにトヨタ自販北米部長の柳沢亨の四人。メンバーも場所も三週間前にチャイが会った時とまったく同じである。英二にとって辛いのは執行副社長のマクドゥーガルがコールドウェルに同行して来ることである。マクドゥーガルには工販分離直後、フォードに研修生として留学した時、世話になっている。さらに一九六〇年にフォードと三回目の提携交渉をした際、マクドゥーガルも交渉メンバーに入っており、旧交を温めた懐かしい思い出もある。  そもそもフォードと四度目の提携を思い立ったのも、マクドゥーガルとの個人的なつながりがあったからにほかならない。共同生産の骨子をしたためた親書をデンソーの田邊守に持たせ、社長のピーターセンに届ける時、田邊には最初にマクドゥーガルに相談して、社長のピーターセンに会う段取りを付けてもらうよう指示した。  そのマクドゥーガルを前に、交渉の白紙還元を通告しなければならない。断腸の思いだが、この問題に決着をつけない限り、GM提携交渉はスタートしない。  フォードはこの時期、真剣にトヨタとの復縁を考えていた。一年半前に始まった提携交渉では開発中の乗用車から、多目的車のミニバンまでトヨタの提示した十数車種の車をあらゆる角度から検討したが、いずれもまとめることができなかった。フォードが大幅な手直しを要求したのに対し、トヨタが頑《がん》として応じなかったためである。  正直なところトヨタが提示した車の中でフォードが興味を示したのは、最初に提案された排気量二千ccクラスの小型乗用車『カムリ』と最後の多目的車の『タウンエース』の二車種だけであった。カムリはフォードが社運を賭けた『トーラス』ともろに競合するため泣く泣くあきらめたが、タウンエースをベースにしたミニバンは、最悪の場合でもライセンス生産の線でまとめたかった。だがトヨタは最後までフォードが要求した仕様変更に応じなかった。のみならず一方的に白紙還元を表明されてしまった  六日に帰国したチャイは、八日の月曜日の朝から出社した。十日はGM会長のスミスがチャイのために丸一日空けて待っている。それまでに出張期間中に山のようにたまった書類に目を通し、雑務を処理しなければならない。  十日は朝六時に家を出て七時半発のデトロイト行きの飛行機に乗る。デトロイトのメトロ空港着は九時十二分。それからGM差し回しのリムジンに乗れば、十時前にはダウンタウンにあるGM本社に着く。  十時半までの三十分はジャック・スミスと簡単な打ち合わせをしてその後、会長のスミス、社長のマクドナルド、海外担当執行副社長のジム・ウォーターズを前に訪日の報告をすることになっている。  昼食はスミスが先約があるため、ジャック・スミスととり、午後は一時すぎから今度は会長と二人だけでトヨタ提携について話し合うことになっている。夕食はジャック・スミスと二月一日付で八五年モデルのプロダクトマネジャーに転出したラーセンを交えた三人でとり、トヨタ提携の最終策を検討することにしている。  スミスが昼食の一時間を除き、丸一日空けるというのは極めて異例のことである。たとえ副社長でも会長の時間を十五分取るのですら容易でない。それを丸一日空けるというのは、スミスが今回の提携に異常なまでに関心を示すと同時に、力を入れている証拠でもある。  フォード会長のコールドウェルは、十日の午前中に通産省に安倍晋太郎通産相と通商審議官の栗原昭平を訪問した後、在日米商工会議所の昼食会で講演し、二時半からホテルオークラで記者会見に臨むことになっている。  安倍通産相との一時間にわたる会談でコールドウェルは、米国の自動車市場の見通しと長期的展望を披露した。 「米国市場は高金利の影響もあって、年末まで回復しない。世界の自動車需要はこれまでのような成長は期待出来ない。特に欧米での成長は鈍化する。この問題はフォードだけでなく、日米メーカーが共通して克服しなければならない課題である」  同じ日、東南アジアの現地販売会社を訪問していたトヨタ自販社長の豊田章一郎はインドネシアのジャカルタで記者会見し、トヨタの国際戦略について話していた。 「トヨタの国際戦略が遅れているとは思っていない。欧米の自動車摩擦にみられるように、このままだと世界各地で厄介な問題が起こりかねない。トヨタとしては現地政府の方針に従う形で、国際化に協力するなど現地化を進めたい」  コールドウェルの記者会見は予定通りの時間から始まった。日米自動車摩擦の再燃、国際小型車戦争の激化、マツダからの超小型車供給問題、トヨタとの提携交渉再開の行方などフォードを巡る問題が山積しているだけに、会場には内外のマスコミ関係者が多数押しかけた。  記者団の質問について、コールドウェルは手際良く答えた。  日米自動車摩擦の行方 「対米輸出規制の交渉の当事者は日米両国政府であり、二年目の規制数量をどうするかは日本政府が決めることだ。規制期間終了前に米国の需要が拡大しても、問題は残る」  国際小型車戦争への対応 「マツダとの関係には満足しており、今後さらに強化する。ただし千ccクラスの超小型車をマツダから供給してもらう話は、まだ結論が出ていない。需要見通しなどを踏まえ継続して協議する」  トヨタ提携問題 「現在、交渉は休眠状態にある。両社で適当な車種を選べなかったのが最大の原因である。この状態が変わらない限り交渉は進展しない。お互いにメリットのある車種を見い出すことができれば、交渉は再開されるだろう。ただしフォードとしてはあまり、将来性はないと考えている」  コールドウェルは会見で、対米輸出規制は三年の期間終了後も何らかの規制を残すべきとの考えを示唆すると同時に、GMの『Sカー』対抗車種についてマツダと検討を重ねていることを公式の席で初めて認めた。そしてトヨタとの提携については否定的な見解を表明した。  この会見の様子は三十分後に通信社が世界に向けて配信した。これを読んだ豊田英二は、「フォードはトヨタとの提携を完全にあきらめている。コールドウェル会長との会談の席では、マクドゥーガルさんを前にあえて白紙還元を持ち出すこともない」とほっと胸をなで下ろした。     [2]  コールドウェルは記者会見が終わると、部屋で休む間もなく、マクドゥーガルとライリーを伴って、日比谷の三井銀行本店ビル四階にあるトヨタ自工の東京支社に向かった。  すでに役員応接室では英二、花井、田村、それに通訳として同席する柳沢の四人が待っていた。予定された会談時間は一時間。英二は挨拶が終わると、提携話を蒸し返されるのを警戒してか米国の経済情勢、自動車の需要見通し、UAWとの労働協約改定交渉の行方など一般論を矢継ぎ早に質問した。  コールドウェルは英二の質問に一つ一つ丁寧に答え、約束の一時間はたちどころに過ぎた。時間が来て英二が話を切り上げようとしたところ、フォード側は待ちかねたように、復縁を切り出してきた。口火を切ったのは、それまで黙ってうなずいていたマクドゥーガルである。 「一昨年六月、トヨタさんの方から共同生産を持ちかけられ、ファーストモデルの小型乗用車とセカンドモデルのミニバンで合意に至らなかったのは非常に残念です。フォードとしてはサードモデルに期待しております」  これをコールドウェルが引き取り話を続けた。 「一昨年来の提携交渉は、不幸にしてまとまりませんでした。トヨタの方にその後、開発した車はありませんか」  コールドウェルは三時間前の記者会見では、トヨタとの提携に否定的な見解を表明したが、やはりトヨタとの提携はあきらめていなかったのである。ここで英二がリップサービスすれば、フォードの期待は高まる。逆にGMからは「トヨタは両天秤をかけている」と非難される。  英二は意を決して冷たい態度に出た。 「われわれは交渉の際、手持ちのカードをすべて出しました。今トヨタの方から提案できるような車はありません」  しかしコールドウェルも黙って引き下がらない。 「これは執行副社長のポーリングから聞いた話ですが、トヨタさんは早晩、スポーティータイプの小型乗用車『セリカ』を米国市場に投入するそうですね。この車を一度共同生産の車種として検討してみませんか。この種の車はフォードにないので都合がよい」  セリカはコールドウェルの指摘を待つまでもなく、社内では内々に八三年モデルとして九月から米国市場に投入準備を進めている。しかし、まだ外部には公表しておらず、英二はポーリングの地獄耳に驚かされた。 「セリカはいずれ米国市場に投入します。ただしこの車を米国で共同生産することは考えておりません。第一、米国で生産できるような設計にはなっておりません」  ここまで英二にピシャリと言われれば、コールドウェルとしても引き下がらざるを得ない。 「分かりました。車の共同生産はどうやら難しいようですね。それではわれわれに部品を供給してもらうことは可能ですか」  コールドウェルは一転、提携内容を車の共同生産から部品の供給に切り換えたのである。英二は天井を見つめ、一瞬考えてから返事をした。 「フォードは資本提携先のマツダさんから、主要部品を供給してもらっていると聞いていますが……」  フォードは資本提携を機にマツダからトランスアクスル(変速機と車軸の一体部品)を大量に供給してもらっている。さらにエンジン単体の供給の話も新聞紙上を賑わしている。英二はそのことを指摘したわけだ。 「それは事実です。しかし我々は日本の優秀な部品を沢山ほしいのです」  英二が答えに窮しているのを見て、コールドウェルが話を続けた。 「今日は提携交渉のメンバーだったライリーも連れて来ました。私は明日の朝、帰国しますが、ライリーは後一日残すので、田村さんとライリーの間で部品供給の意見交換だけでもさせてもらえませんか」  ここまで言われれば英二としても断るわけにもいかない。 「分かりました。そうしましょう」  会談は約束の一時間が大幅に延びたが、コールドウェルは英二の態度があまりにも素気ないので、途中でトヨタ側にもはや共同生産の意思がないことを悟らざるを得なかった。だからこそ最後に部品供給を持ち出し、将来の提携交渉再開に向けて細い糸だけでもつなごうとしたのである。  だがコールドウェルの希望も無残な結果に終わった。会談終了後、田村は英二から「明日、フォードからどんな提案があろうとも乗ってはならない」とクギを刺されたからである。  十一日は建国記念日で、トヨタ東京支社は休みだったが、田村は休日出勤してライリーと部品供給について話し合ったが、予想通り何の成果もないまま終わった。コールドウェルはまさに手ぶらで来日し、手ぶらで帰国したのである。  チャイはフォードとトヨタの正確な関係を会長のスミスに報告しなければならない。十日の英二とコールドウェルの会談で復縁の話が出て、万が一、トヨタがこれに応ずるような返事をした場合、GMの態度も自ずと違ってくる。柳沢には会談が終了次第、結果を報告してくれるよう頼んである。  ただし、十日は朝早くデトロイトに向かうことから、会談が長引き、自宅ヘの連絡が遅れた場合に備え、GMのジャック・スミスと会長の直通電話を知らせてある。  柳沢からの連絡は現地時間十日の朝の五時過ぎ、デトロイトに出かける前に朝食をとっている時に入ってきた。英二がコールドウェルからの復縁要請をきっぱり断ったことを聞いて、チャイは「豊田社長はいよいよGM提携に本気で取り組み始めた」と感じた。  デトロイトでは予定通り午前中、一時間半にわたり会長、社長、海外グループ執行副社長を前にトヨタの実情から開発中の車までこと細かに訪日の成果を報告した。午後は会長のスミスと二人だけでトヨタ提携の今後の見通しについて話し合った。  午前中の報告はやや形式ばったものだが、二人だけの話し合いはトップ会談に臨むに際してのGM側の対応策である。チャイは豊田英二の態度が来日中に大きく変化したことや、フォードとの関係が完全に清算されたことも併せて報告、トヨタのGM提携に対する関心が日増しに高まっているとの感触を述べた。  スミスの結論は「トヨタとの提携はなんとしてでも実現させたい。そのためにはトップ会談の席でGMの方から具体的な提携案を出す。プロポーザルの内容はこれまでの経緯を整理してジャック・スミスが責任者となっているタスクフォースでまとめさせる」というものである。  チャイがデトロイトでGM会長のロジャー・スミスとトヨタ提携を協議しているころ、日本ではとんでもない事件が起きようとしていた。  フォード会長のコールドウェルが離日前の記者会見でトヨタとの提携について「将来性はない」と語ったことで、日本のマスコミは「両社の関係は完全に切れた」と判断した。となればトヨタの対米進出は不可避である。まだこの時点ではGMとの提携交渉は一切外部に漏れていない。マスコミは対米進出イコール単独による工場建設と読み、この夜、大挙して東京・田園調布にあるトヨタ自販会長、加藤の自宅に押しかけた。  日米通商摩擦は年末に再燃、年が明けてからくすぶり続けている。経団連のPR機関である経済広報センターは、民間レベルで解決策を探るため一月に米上下両院議員合わせて十七人を日本に招いた。米議会では日本など貿易相手国の市場開放度に応じて米国の市場を開放するという相互主義法案が、通商政策の柱として台頭していた。経団連は民間レベルでの解決を目指し、日本の実情を知ってもらうため議員を招いたのである。  相互主義法案の立法化を検討しているのは、日本非難の急先鋒である民主党のダンフォース上院議員である。この法案は日本側の保護政策による経済的損失を数量化し、これに見合う輸入抑制策を米国側が講ずるというものである。たとえば自動車に関していえば、日本車の輸入に対し、日本の非関税障壁に相当する平衡税をかける輸入平衡税賦課法案がある。  ダンフォース議員と会談した安倍通産相は次のように反発した。 「相互主義の考え方は、最も塀を高くした人に皆が自分の塀の高さを合わせるやり方で、ガット(関税貿易一般協定)の精神に反する。米国がこれに踏み切れば、世界貿易に意図した以上の悪影響を与え、西側陣営の対立、貿易の縮小を招く」  これに対しダンフォース議員は「相互主義といっても、閉鎖性の程度を数字で表すこともでき、そうすれば無原則に保護貿易に進む心配はない。(日本が)牛肉の輸入を規制しているからといって、(米国が)が牛肉の輸入規制を行うというのは無意味なので、他の品目で相殺するという方法を取ることも出来る」と反論した。  ダンフォース議員らが主張する相互主義は保護貿易の拡大につながるだけでなく、日本製品の輸出を規制するため恣意的に使われる恐れは十分ある。  米議会に広がっている対日貿易制限の動きの背景には、米国の対日貿易赤字の拡大がある。八一年(昭和五十六年)の対日貿易赤字は前年を五割近く上回る百八十億八千万ドルを記録した。これは過去最高だった七八年(五十三年)を四十五億ドルも上回る数字である。  日本車の輸入は確かに規制によって台数ベースでは減少したものの、規制がカルテル化し値上げが容易になったことで、金額ベースでは一向に減らない。さらにエレクトロニクス製品、半導体、光学機器、シームレス鋼管などの輸入が大きく伸びた。これに対し、輸出は小幅の伸びにとどまった。商務省の見通しによると、八二年(五十七年)の対日貿易赤字は二百億─二百五十億ドルに拡大する。  米国の対日赤字を解消するには自動車の輸入規制強化が一番である。ダンフォース議員を先頭にした保護主義議員らの相互主義法案は明らかに、日本の自動車に焦点を合わせている。  日本車の輸出は八一年に初めて六百万台の大台を超え、その三分の一以上の二百三十万台が米国に輸出されている。生産台数もこの年には千百十八万台を記録、米国の七百九十三万台に大きく水を開け、二年連続して世界一の自動車生産国になった。  この間、日本政府が手をこまぬいていたわけではない。一月十五、十六の二日間、米フロリダ州マイアミ郊外で日本、米国、カナダ、欧州共同体《EC》の通商政策の最高責任者が集まって保護貿易主義の高まりをどう防ぐかを検討する初の三極通商会議が開かれた。  安倍通産相は三極通商会議に出席した後、ワシントンに立ち寄り、レーガン大統領をはじめブッシュ副大統領、ヘイグ国務長官、ブロックUSTR(米通商代表部)代表と個別に会談して米国側の要求に反論した。  安倍通産相は米国の苛立ちの原因は引き続き自動車にあると見て、ブロック代表との会談では日本政府として、経営危機に陥っているクライスラーの経営再建に対し、資本提携先の三菱自動車工業を通じて日本輸出入銀行融資の道を開くなど主に金融面での側面援助を表明した。  さらに帰国早々、八二年度の対米輸出台数を、摩擦を配慮して増枠せず八一年度枠と同じに抑制する考えを示し、米国政府および国内メーカーと非公式の折衝に入った。  だがそれでも日米の摩擦が解消に向かう兆しはなく、相互主義法案は直近の議会で立法化されなくとも、日本が解決に向けて何の対応策も打たず、しかも貿易の不均衡が続けば、いつかは完成車輸出も困難になる。これを食い止める唯一の手段がトップメーカーのトヨタに対米進出を促すことである。  トップメーカー、トヨタの工場進出は現地の雇用増大や部品発注といった直接効果にとどまらず、米国民に与える心理的効果が大きい。安倍通産相は一月二十九日に都内の料理屋にトヨタ最高首脳の豊田英二と花井正八を招き、執拗に対米進出を促した。だがこの席では二人とも経済性のない進出を頑として拒んだ。むろんGM提携はおくびにも出さない。     [3]  大勢の新聞記者が十日の夜、加藤の自宅に押しかけたのにはひとつの伏線があった。フォードとの提携交渉の実質的な白紙還元がコールドウェル会長の口から出たことに加え、前日の九日付の朝日新聞に注目すべき記事が載っていたからである。  経済面に載った三段見出しは「トヨタの対米進出期待 通産首脳 摩擦解消に好影響」である。本文は次のようなものである。 「通産省首脳は八日夜、トヨタ自動車工業と同販売が七月をメドに合併することに関連して『通産省としては日米貿易摩擦の解消のため、新会社が米国に積極的に進出するよう望んでおり、トヨタ側に協力を求めたい』と語った」とあり、ご丁寧にも「また同首脳はトヨタの進出拠点として、米国南部で比較的労働事情のよいサンベルト周辺が考えられると述べた」と結んでいる。  これは安倍通産相が八日夜、マスコミ各社の担当記者との懇談会で話したものだが、NHKは九日の朝のニュースで通産相の意向として流した。安倍がなぜサンベルトを挙げたかの根拠はともかく、マスコミの目から見るとトヨタの対米進出の条件が揃ったのである。  加藤は会社からの帰り際、柳沢から英二がフォードのコールドウェルからの復縁要請をきっぱり断ったとの報告を聞き、十時過ぎにほろ酔い機嫌で帰宅した。待ち受けた新聞記者を自宅の応接間にあげ、明日、大騒ぎになるとは露知らず、聞かれるまま対米進出の�持論�を披露した。  トヨタ自販常務の神尾秀雄はかねて知り合いの朝日新聞記者から十日の深夜、電話で叩き起こされた。 「(トヨタ自販会長の)加藤さんがトヨタの対米進出を表明しました。明日付の朝刊トップに入れます。間違いないですね」  夜中に叩き起こされ、やぶからぼうに聞かれても返事のしようがない。逆取材してみると、加藤が話したのは単独進出で、GMとの共同生産については一言も触れていない。それでひと安心したものの、「私の知る限りトヨタが対米進出を決めた事実はない。対米進出は基本的に自工マターの話です。従って自工の豊田英二社長に確認してから、記事にするのが筋でしょう」と答えるのが精一杯だった。  肝心の英二は新聞記者の夜回りは一切受け付けないので、英二の線から漏れる心配はない。自工でGM交渉の責任者となっている海外事業室長の田村にしても新聞記者にいくら夜討ち朝駆けされても、絶対に余計なことは話さないことで定評がある。たとえ自分の立場が悪くなってもである。  加藤の自宅には朝日新聞のほか毎日新聞、日本経済新聞の記者も来ていたという。仮に朝日が書かなくとも他の新聞が書く。そうなれば逆に書かなかった朝日の特オチになる。  特ダネと特オチは紙一重である。朝日の記者の興奮は、同席した他社の記者も同じである。神尾は深夜に加藤を叩き起こすわけにもいかず、眠れないまま朝刊を待った。  十一日付の朝日新聞の一面には大きな活字が躍っていた。白ヌキの横見出しは「トヨタ、対米進出を決断」とあり、縦五段見出しとして「85─86年完工メド、中西部、年産20─25万台 大量にロボット導入」とある。むろんトップ記事である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   「トヨタ自動車首脳が十日明らかにしたところによると、トヨタ自動車工業(豊田英二社長)は米国に乗用車工場を建設する方針を固め、近く安倍通産相に伝える。進出予定地は米国中西部、工場は年産二十万から二十五万台規模のもので、完工は一九八五、六年をメドとしている。米国進出にこれまで慎重だったトヨタが進出に踏み切ったのは、日米の貿易不均衡の大きな改善は今後も望めず、輸入規制は強まることがあっても緩和されることはない、と判断したためだが、同時にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併により、七月一日にトヨタ自動車が発足するに当たり、新生トヨタのイメージを内外に強く印象づけることを狙ったものとも見られる」 [#ここで字下げ終わり]    (朝日新聞二月十一日付朝刊)  毎日新聞は一面真ん中の五段見出して「トヨタ、米へ工場進出85年中に生産開始乗用車25万台規模」とある。経済面に解説があり、見出しには「日米摩擦、新局面も�元凶�嫌い、ついに�断�」と激しいものである。  日本経済新聞は一面題字下三段で地味に扱っている。見出しは「米国進出近く決断 トヨタ自販会長表明」とあり、次のような加藤の発言要旨を載せていた。 [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   一、強まる一方の対日批判をかわすには、トヨタが米国に工場進出する意向を表明するしかない。   一、米国に進出するとなれば、生産を開始するまで三年はかかるが、進出の意向を表明すれば米国の対日批判は和らぐはず。生産台数は年間二十五万台が採算に合う水準だ。産業用ロボットの積極導入などで、なんとか米国内生産をやっていけるのではないか。 [#ここで字下げ終わり]  三紙三様の扱いだが、日経では掲載するに際し大激論があった。取材した記者にはライバル紙が一面トップで載せるのは、分かり切っている。当然のごとくトップ掲載を要求したが、編集する側にすれば、販売会社のトップの意向だけではいかにも弱い。といって発言は無視出来ない。最終的には事実関係だけを載せることにしたのである。  神尾は翌朝、新聞を丹念に読んだ後、加藤の自宅に電話を入れてみたが誰も出てこない。加藤は六時過ぎに夫人を伴ってゴルフに出かけてしまったのである。  神尾の自宅には英二と花井から相次いで電話が入った。  英二は「加藤さんはこの時期、何を考えてあんなことを話したのだろうか。一度、私の方から聞いてみる」と言って電話を切った。  花井からは「お前がついていながら、どうして加藤さんの口からああいう発言が出てくるのか」とさんざん油を絞られた。  加藤発言は午前中の早い段階で自工が、「トヨタが対米進出を決めたという事実はない」というコメントを発表したことでひとまず決着した。  収まらないのがトヨタの対米進出を報じた新聞である。特オチした側は朝早くからゴルフ場まで加藤を追いかけ、否定された側は加藤がゴルフ場から帰るのを再び自宅で待ち受けていた。  加藤はこの日、一日中憮然としていた。ゴルフのスコアも良くなかった。日米の三つのシンクタンクに依頼した単独進出を前提とした米国工場建設の報告書は加藤の手元にも届いている。内容は極めて常識的なもので、㈰建設期間は進出表明から三年はかかる㈪生産規模は年産二十五万台が最適である㈫UAWに加盟しないとすれば、中西部が望ましい㈬生産性を高めるにはロボットの導入は欠かせない──などのことが詳しく書き込まれ、「単独進出は採算を合わせるのが極めて難しい」と結論づけていた。  加藤はこの報告書を読んだ時から、逆に単独進出は不可能ではないと判断し、GM提携が浮上する前までは、ことあるごとに英二に決断を促していたが、自工の反応は予想通り鈍かった。  前夜はほろ酔い気分で帰ったところへ「対米単独進出は」と聞かれ、リップサービスのつもりで「トヨタは米国に進出すべき」というかねての持論を披露し、新聞記者におだて上げられるままに、仮に単独で進出した場合の話をしたが、まさか新聞でこう大々的に書きまくられるとは予想もしていなかった。内心では「新聞はなんで仮定の話を、あたかも決まったように書くのだろうか」と半ば呆れていた。  トヨタの対米進出は、単独しかないとハナから信じて疑わなかったマスコミ。GMとの提携には一切触れず、仮定の話をした加藤。このミスマッチから騒動が巻き起こったわけだが、これは思わぬ副産物をもたらした。  対米進出のニュースを外電が即座にフォロー、トヨタが否定声明を出したにもかかわらず、米国の三大ネットは日本の新聞を引用して大々的に報じた。  チャイはGM首脳との一連の会談の後、ジャック・スミスと夕食を終え、ホテルに戻り何気なくテレビのスイッチを入れた時、突然トヨタの対米進出のニュースが飛び込んできた。チャイの第一印象は「加藤さんはGM提携をカモフラージュするため意識的に流したのではないか」というものである。  神尾も加藤発言を利用することを考えていた。「通産省のトヨタに対する圧力は今後ますます強まるが、加藤発言でカモフラージュ出来れば、三月のトップ会談までなんとか時間を稼げる」  通産省にすれば加藤発言は百万の援軍を得たも同然である。対米進出に関しトヨタのこれまでのかたくなな姿勢は「横綱・北の湖が渡った石橋でも渡らない」と揶揄されていた。そのトヨタがようやく重い腰を上げ、石橋を渡ろうとしているのである。公式コメントはともかく、発言がトヨタ自販の会長だけに重みがある。休み明けの十二日、通産省機械情報局長の豊島格はトヨタ自工に「対米進出についてトヨタの真意を聞きたい」と申し入れた。  この日、トヨタ自販は名古屋の本社で経営会議を開いていたが、加藤はこの席で自らの舌禍がもたらした騒動については一切触れなかったが、英二にはその前に電話で「新聞には私の真意が伝わらなかった」と釈明した。  これに対し英二は、「対米進出はトヨタにとって伸《の》るか反《そ》るかの大問題です。お互いに言動には注意して、誤解を招くような発言は慎もう」とむしろ加藤をいたわった。英二の真意は、「加藤さんは合併問題で相当疲れている。新生トヨタとしてこうありたいという願望を言ったのでしょう」と同情的だった。ともあれ対米進出騒動はあっけない幕切れとなった。     [4]  チャイは加藤発言をテレビのニュースで知った時、一瞬、GM提携のカモフラージュとなると思ったものの、その後マスコミの影響力の大きさに戸惑っていた。日本ではトヨタが正式に単独進出を否定したため騒動はひとまず沈静化したが、米国ではトヨタの否定声明は一部の新聞に小さく扱われただけである。トヨタ進出の候補地に挙げられた中西部の各州は早くもトヨタ誘致に動き出した。  チャイが最も恐れているのは、トヨタが通産省に押し切られる形で、トップ会談の前にGM提携を報告することである。  現在トヨタの中でGM提携の正確な動きを知っているのは、自工では社長の英二と会長の花井の二人だけである。常務の田村は最初の段階では知っていたが、その後、英二の方から何の指示もなく、会長の花井からは、フォードとの関係を清算するよう言われているだけで、その後の正確な進捗状況を知らされていない。  自販では会長の加藤、社長の章一郎、常務の神尾、それに柳沢の四人、工販合わせてわずか六人だけである。この六人の誰かが話さない限り秘密は保てる。だが、通産省に途中経過を報告すれば別である。日米貿易摩擦解消の切り札がトヨタの対米進出だけに、知らせれば政治の道具に使われるのは分かり切っている。  関係者が多くなれば、その分だけ外部に漏れる危険性が高くなる。はっきりしているのはトップ会談の前に新聞に書かれれば、間違いなく提携交渉は破綻することである。政治の世界なら衆人監視のもとでトップ会談をするのが常識だが、経済の世界ではそうはいかない。  GMとトヨタの提携はトップ会談が実現しない限り、具体的な交渉はスタートしない。百歩譲って会談の前に書かれても、その時点では否定のコメントを出し、陰で予定通り会談することは決して不可能ではない。しかし、GMは世界最大の企業で、しかも常に横綱相撲をとってきた会社である。同時に姑息な手段を最も忌み嫌う企業である。会長のスミスは歴代会長の中では最もプライドが高い人だけになおさらである。  トップ会談を再延期することはもはやできない。GMは三月中旬に八五年モデルを最終決定することにしている。スミスは一日の会談で一定の方向が出れば、トヨタとの共同生産車種を中期計画に組み込むことを考えている。反対に会談で期待した成果が出なければ、その時点で提携を断念し、八五年モデルは自力で調達することにしている。こうしたタイムスケジュールからみて、会談の再延期はあり得ない。  事前にトップ会談が外部に漏れれば、提携交渉は即刻中止である。それどころかチャイは「そういう話はもともとなかった」としらを切る肚を固めていた。それがGMの威厳とスミスのプライドを守る唯一残された手段だからである。  GM・トヨタ提携の具体的な動きはたった二つしかない。昨年十二月にトヨタ自販会長の加藤がデトロイトに来て、会長のスミスと会談したこと。もう一つは、一月にチャイ、ジャック・スミス、ラーセンの三人がトヨタを訪れたことである。  この二点をマスコミに指摘されても、加藤のデトロイト訪問は「表敬訪問」、三人のトヨタ訪問は単なる「工場見学」で押し通せる。  自動車メーカー首脳のライバル企業への表敬訪問は摩擦の激化とともに活発になっている。問題は話す内容である。戦略のない単に意見交換をする表敬訪問は、一気に提携交渉まで進まない。提携交渉のテーブルに着かせるには誰かがシナリオを描き、演出しなければならない。  加藤が戦前日本GMにいたことは業界の人は誰でも知っている。またスミスと手紙のやり取りをしているのは加藤自身、社内外で広言している。こうした関係から加藤がデトロイトに来たついでに、会長のスミスを表敬訪問しても誰にも怪しまれない。トヨタとGMの関係は加藤の表敬訪問を機に、チャイと神尾が戦略の面で味付けしたことからトップ会談に発展した。  技術者同士の工場の相互訪問も近年、活発になっている。GMの『Xカー』を生産しているオクラホマシティー工場は、GMがトヨタと日産の工場をモデルにして作った工場である。その工場をトヨタも日産も年間約五十人の技術者を派遣して見学させている。逆にGMも同程度の技術者を両社の工場に派遣している。  万が一、トップ会議が開かれる前に書かれれば、GMとしては「そういう事実は全くない」というコメントを出すつもりである。当然、GMはトヨタとの提携をあきらめなければならないが、書いた側は「世紀の大誤報」のレッテルを貼られてしまう。  チャイは念のため、自販会長の加藤に国際電話を入れたが、あいにく不在だったため、柳沢を通じて伝言を頼んだ。 「英二社長とスミス会長のトップ会談が事前にトヨタサイドから漏れれば、私の立場としてはこの提携交渉を潰さざるを得ない。従ってマスコミに対する発言はくれぐれも注意して下さい」  むろんGMは十日以降、社内では厳しい箝口《かんこう》令と完璧な報道管制をしいている。グループ担当副社長以上の経営幹部には、隠密裡にトヨタにミッションを派遣する直前、経営会議を開き提携に対し意見を求めたが、その後スミスはトヨタ問題を経営会議に諮《はか》っていないし、また諮る計画もない。  トヨタには通産省の圧力が日増しに強くなっているが、この間、説明に行ったのは元通産省事務次官の副社長、山本重信だけである。だが山本はGM提携を知らされておらず、古巣からいくら尻を叩かれようとも「トヨタは政治的な圧力で対米進出を決断することはない。あくまで経済の観点から決断する」と一歩も譲らなかった。  当然、これでは通産省は満足せず、トヨタ最高首脳の英二に説明を求めていた。二月半ばに開かれた工販の合同政策委員会でも、通産省からの要請が話題になったが、英二は章一郎に向かって「通産省には君の方から適当に説明しておくように」と指示した。章一郎にはこの意味はすぐ呑み込めた。  英二が今の段階で通産省には何も話せないことは十分知っていた。企業提携は自社の判断だけではまとまらない。相手のトップと会い、相手の意思を確認して初めて実現する。  用心深い英二がトップ会談の前に「GMと提携する」とは間違っても口に出せない。通産省の圧力に屈してトップ会談の予定を報告しても、仮にまとまらなかったら、恥をかくのは英二自身である。万が一、会談が不調に終われば、仮に交渉の舞台に上がってもトヨタが不利になる。  チャイは十日にスミスと丸一日話したことを翌日、神尾に報告した。神尾は十二日に豊田市の英二の自宅に行き、説明することになっている。  豊田市竹町|谷間《やげん》。地名とはうらはらに一帯は小高い丘になっており、眼下にはのどかな田園風景がつらなる。その丘の一角に豊田英二の自宅がある。玄関横に鎮座する土蔵をあしらった蔵を除けばやや大きめのごく普通の家である。隣には妻・寿子のボランティア活動の拠点となっている「憩いの家」がある。  豊田市の中心はトヨタ本社のあるトヨタ町一番地だが、トヨタ独自の地図をみると英二の自宅のある竹町谷間が中心となる。英二の庭先から東の方向にトヨタ本社と本社工場(大型トラック)がうっすらと見える。さらに放射状に北に元町工場(クラウン、マーク㈼)、貞宝工場(工機)、北西に三好工場(足回り部品)、西に堤(ビスタ、カムリ、コロナ)、下山(エンジン)、明知(鋳物)の三工場、そして西南に高岡工場(カローラ、ターセル、コルサ)、東南に上郷工場(エンジン)がある。つまり英二の自宅を中心に東西南北に巨大な工場群が張り巡らされている。しかもここを起点に円を描けば半径五キロ以内にトヨタの主要九工場がすっぽりと収まる。  こうみると�トヨタ城�の本丸は谷間にある英二邸であることが一目瞭然である。英二がここに家を構えたのは一九七六年(昭和五十一年)だから、まず石垣(工場)を築き、その後に本丸(自宅)を築いたことになる。  二月十二日の夜、トヨタ自販常務の神尾は英二の自宅を訪れた。英二邸はダイニングルームとリビングルームがワンフロアになっている。庭先には長さ十五メートルのプールがあり、英二は夏ともなれば毎朝、このプールでひと泳ぎしてから出社する。夜は来客がない限り十人分の椅子が並べてあるダイニングルームの長テーブルで本を読んだり、テレビを見たりしている。  リビングルームには応接セットがあり、壁には孫と一緒に撮った家族の写真が飾ってある。そして床には愛読書が積み上げられている。子供が大きくなり独立して親の元から離れてからは、書斎よりもダイニングルームやリビングルームで読書する機会が多いからだ。  神尾はリビングルームでスミスとチャイの会談結果と今後の見通しをGMの言葉として報告した。GMの業績は第三・四半期から回復するので、独禁法との兼ね合いで、それまでにトヨタとの交渉をまとめ上げ、合弁会社を設立しておく必要がある。米連邦取引委員会《FTC》へ認可申請するのはその後である。合弁会社の設立を急ぐのは、GMの業績が向上すれば、独禁法が大きな壁となって立ちはだかる恐れがあるからである。  GM社内では米独禁法についての検討は進んでいるが、トップ会談が開かれる現段階で言えるのは、独禁法は極めて主観的なもので、どの企業に適用されるか分からないことである。最大の標的は当然GMだが、提携の内容次第ではトヨタ、場合によってはいすゞに飛び火する可能性もある。  トヨタは独禁法についてはGM任せという�洞ケ峠�を決め込んでいるようだが、チャイに言わせれば完全な間違いである。米国は日本と違い政府が民間企業の経営に介入しない代わりに、民間企業の頼みごとも聞かない。米政府のクライスラーに対する資金援助は例外中の例外である。GMはその辺のことは十分承知しており、政府を動かして独禁法の運用を緩和させてまでトヨタと提携することは考えていない。  独禁法対策は提携交渉を発表し、それをまとめ上げ、合弁会社を設立した後の出たとこ勝負にならなざるを得ない。FTCと司法省への根回しは交渉と同時並行となる。  提携は「いかにしたら独禁法に抵触しない提携策を見い出せるか」にかかっている。ただし提携は双方に利益がなければ成立しない。総論で合弁による共同生産で合意しても、各論ではお互いの利害が相当違ってくる。三月一日のトップ会談はGMとしては「総論を出来るだけ短くして、各論に長い時間を割く」ことを希望している。各論というのは、提携して共同生産に踏み切った場合の工場、合弁形態、生産車種である。  神尾が一通り話し終えると、英二が重い口を開いた。 「GMがそこまで前向きにしかも真面目に考えているなら、トヨタも本気で取り組まなければならない。各論に時間を割くのは私も賛成だ。できればトップ会談で生産車種、生産時期、合弁会社の出資比率など合弁事業のアウトラインを決めたい」  神尾は英二がそこまで踏み込んで言うとは予想もしていなかった。今度は神尾が抑える役である。 「トップ会談で細部まで決めるのが理想ですが、たった一回の会談でそこまで決めるのは無理です。一日は最低限基本線を確認できれば良いのではないでしょうか。具体的なことはタスクフォースに任せれば良いと思います」  最後に神尾はチャイから注文されたことを切り出した。 「GMは一日の会談が成功し、提携の基本線が出た場合でも正式なアナウンスは、一カ月待ってほしいと言ってます」  GMが一カ月待ってほしいというのは、UAW対策にその程度の時間がかかるという意味である。 「そんなに待てば、必ず米国側から漏れる」  英二は首をかしげた。トヨタにすれば自社内の根回しさえ済めば、発表時期は多少早くとも構わない。根回しは英二が帰国後、まず自工の常務会で報告し、次に工販の合同政策会議にかけ、その後、通産省に報告することである。英二がトップ会談とカナダでのディーラー大会を終え、帰国するのが三月六日の土曜日。それから一週間あれば社内の根回しは済む。     [5]  GM社内の手続きはトヨタほど時間はかからない。ロジャー・スミスがいくらワンマン経営者とはいえ、デトロイトに帰った後、最低限、社長のマクドナルドと執行副社長およびグループ担当副社長などの十四階の住人《エグゼクティブ》だけには報告して了解をとらなければならない。  むしろ時間がかかるのがUAW対策である。合弁は当該工場を一時閉鎖しなければならないからである。それに伴うUAW対策には慎重を期さなければならない。GMが一カ月待ってほしいと言うのは、その辺の事情を指してのことである。  正式なアナウンスについては「トヨタは社内の根回しさえ済めば、早ければ早いほど良く、GMは遅ければ遅いほど良い」という違いはあるが、それほど決定的な違いではない。  チャイがデトロイトを離れた十一日、GMはトヨタ提携に向けての最終方針を固めた。提携の具体的なプロポーザルはGM側から提案することになった。それを叩き台に会談に臨んだ方が有意義であるとの判断からである。チャイの仕事は独禁法を睨みながら、双方に利益のあるゲームプランを考え出すことである。ゲームプランを現実にするための英二宛ての招待状は、十二日付で出した。  GMもトヨタ同様、決定したら動きだすのが早い。最初に打った手が工場閉鎖のアナウンスである。それを十六日付の「ウォールストリート・ジャーナル」紙が伝えた。  見出しは「GMが二工場無期閉鎖、Jカーなどの販売不振で」とある。日本の通信社はこれをキャッチして配信、日本の新聞はニュースバリューが分からず、ベタ記事で報道したが、日本でGMの狙いを理解出来たのは、英二をはじめとするトヨタの一部の関係者だけであった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  [ニューヨーク一六日時事]十六日付米国ウォールストリート・ジャーナルによると、GMは前輪駆動の新しい小型車および中型車であるJカーとAカーを生産する工場二カ所の無期限閉鎖に踏み切ることになった。   新型車の販売不振によるもので、Jカーのキャバリエおよびシマロンを生産しているカリフォルニア州のサウスゲート工場が三月五日から、Aカーのセレブリティおよびシエラを生産している同州フレモント工場が四月一日からそれぞれ閉鎖される。これによりJカーの生産は一六%、Aカーは一八%削減される。二工場合わせて、五千五百人の労働者が無期限レイオフされる予定。このほかGMは他の一部工場での操業短縮を計画している。 [#ここで字下げ終わり]  JカーもAカーも不振に陥っているだけに、この工場閉鎖を不思議がる人はいない。むろんGMはこのニュースの背景をUAWには説明していない。  GMがこの時期に西海岸の工場閉鎖に踏み切るのは、今をおいてないとの判断からである。トヨタとの提携が仮に三月一日のトップ会談で合意しても、工場が再開し稼働するのは早くても二年後である。米国の自動車市場は今年の第三・四半期から上昇するのは目に見えている。JカーもAカーも確かに現在、販売不振に陥っているが、市場が上向きに転じれば、両工場とも早晩フル稼働となる。そうなった場合、工場を分離するのはもはや不可能である。合弁会社の工場は西海岸でない限り収益を上げることができない。  ただしこの決定は、三月一日の会談が成功しトヨタ側の意思が確認された場合のみ実行に移される。万が一、提携交渉が事前に漏れ、トップ会談が不可能になったり、トヨタ側に提携の意思がないことが分かれば、白紙還元される。むろん両工場の閉鎖は一時的なもので、JカーとAカーの需要が回復し次第、工場は再開されることになっている。  GM会長のスミスは、豊田英二とのトップ会談さえ実現すれば、トヨタとの提携が成立すると信じて疑わなかった。根拠は客観情勢がトヨタに不利になりつつあったからである。  西海岸二工場の閉鎖は、スミスのトヨタに対する暗黙のメッセージである。財務出身らしく計算ずくのことだが、工場閉鎖の引き金になったのは十一日にフォードとUAWの労働協約改定交渉が賃金問題で暫定合意したことにある。  UAWとフォードの交渉はGMとの交渉が決裂した後も粘り強く続けられ、両社の努力が実り合意に達した。合意の内容はUAWが賃下げに応じる代わりに、フォードは工場閉鎖を取りやめるというものである。フォードは年間十億ドルの賃下げの見返りに、UAWに一定期間職場保証したのである。  UAWに職場を保証した以上、フォードは米国から逃げ出せない。米議会には海外の自動車メーカーに米国製部品の現地調達を義務づけるローカルコンテント法案が提出されており、フォードは米国での生産を有利に進めるためには、法案賛成に回らざるを得ない。これにGMが加担すれば、法案は成立してしまう。そうなればトヨタも日産も米国市場から撤退するか、赤字覚悟での単独進出しか選択肢はなくなる。  トヨタがGMとの提携を選択すれば、GMは当然ローカルコンテント法案に反対に回る。二工場閉鎖はGMがトヨタに突きつけた「匕首《あいくち》」でもあったのだ。  無論トヨタはGMのこうした深慮遠謀は知らない。しかし英二はGMが西海岸二工場を閉鎖するとのニュースを見て、安閑としていられなくなった。三月一日のトップ会談は刻一刻と近づいている。そうした矢先、自工社内に一つの噂が広まった。 「うちの会社が近く米国で行動を起こす」  トヨタ自販会長・加藤誠之の対米進出の失言がようやく収まりかけた時期だけに、首をかしげる向きもあったが、逆に中堅幹部の間に「単独進出を含め何か米国でやらなければ、トヨタは取り残されてしまう」という危機感が強まりつつあった。  噂の根拠はあった。英二がスミスとのトップ会談に備え猛勉強を始め、毎日のように関係各部署に対し、米国の最新自動車事情やビッグスリーの現況に関する資料の提出を求めていたからである。英二のやり方は他人には一切相談せず、必要な資料だけ取り寄せ、すべて自分で考えて結論を出すことである。各部署に対する資料提出の要求がこのところ頻繁になり、社内ではそれが「近く行動を起こす」という噂になったのである。  確かに英二の自宅には書斎はおろか応接間までGMに関する資料が山と積まれていた。神尾が十二日に豊田市の自宅を訪れた時も膨大な資料を見せつけられた。そして英二は言った。 「GM提携に関しては社内では一切考えず、資料を家に持ち込んでいろんな角度から研究している」  社内にいるとき英二が考えているのは、工販合併に伴う人事構想である。この時期、合併を公表したものの、社長以下の経営トップの人事もまだ手つかずのままだった。人事はすべて英二が決める。  会長の花井が人事に口を挟もうものなら、「その問題は私が決めます」と突き放した言い方をする。ましてやGM提携については誰も口を挟む余地がない。英二にとって唯一の情報源は、柳沢が入れるチャイからの伝言だけである。英二にすれば人事構想は会社でも考えられるが、GM提携の構想は自宅でしか練れない。四人の子供が全員独立した現在、大きな家には妻と二人しか住んでいない。GM提携は書斎にこもらずダイニングルームにある長テーブルに資料を広げ、腕を組んで考える日が続いた。  果たしてトヨタはスミスが出すプロポーザルにどんな回答を用意しているのか。それは英二のポケットの中に入ったままで、社内では誰も知る由もない。  英二は二月二十七日に東京には寄らず、名古屋郊外の小牧にある名古屋空港から成田経由でニューヨークに行くことにしている。カナダでディーラー大会を開くことは役員には知らせているが、変に憶測を呼ぶことを恐れ、今回だけは英二の海外出張を外部に公表しないことにした。  トロントで開くカナダ・オンタリオ州のディーラー大会は、あくまでGM会長スミスとのトップ会談のカモフラージュのために開くのであって、積極的にアナウンスをすれば馬脚を現す恐れがある。大半の役員はディーラー大会出席が目的で、ニューヨークを経由するのは週末にそこで休養するためと考えていた。  ニューヨークでのトップ会談の準備は、チャイが着々と進めていた。英二が宿泊するホテルはマンハッタンの中心、マジソン街に面するヘルムズレー・パレスをチャイの名前で予約した。  会談場所はGMが主に安全の面からニューヨークで三カ所用意しておき、その日の午後、その中からスミスが選択することになっている。  ニューヨークでの行動はすべてチャイ任せである。それを聞いても英二はなお注意深く、柳沢に「ニューヨークでは間違っても知っている人に会わないよう、食事は三食ともホテルの部屋に運んでもらう」と冗談半分に言った。  英二はスミスとの会談がなければ、三月初旬、スイスのジュネーブで開かれる「第二回世界自動車会議」に出席することにしていた。この会議は英「ファイナンシャル・タイムズ」紙が主催するもので、世界の主要自動車メーカーのトップがゲストスピーカーとして招待されている。  今回のゲストスピーカーは日本ではトヨタ自工社長の豊田英二、米国はクライスラー会長のリー・アイアコッカ、欧州はフィアット会長のジョバンニ・アニエリの三人が予定されていた。  会議は三月一日と二日の二日間開かれるが、英二はこれをキャンセル、代理としてトヨタ自販常務の神尾が出席することになった。神尾は英二と同じ二月二十七日夜、成田からジュネーブに向かう。 [#改ページ]   第七章[#「第七章」はゴシック体] 未知との遭遇 [#改ページ]     [1]  提携交渉に携わっているトヨタとGMの関係者の間に、日ごとに緊張感が高まってきた。GMの会談出席者は会長のスミスのほか海外グループ担当副社長のウォーターズ、ジャック・スミス、それにチャイの三人が決まっており、場合によっては社長のマクドナルドが出席することになっている。  会談での通訳はすべてチャイがすることで双方が了解している。チャイ一人にしたのは「柳沢さんには英二社長の相談相手に徹してもらった方が、英二社長も心強いのではないか」というチャイの配慮からである。ジャック・スミスと共に一月に日本を訪れたビル・ラーセンは、予定通り二月一日付で、一九八五年モデルのプロダクトマネジャーに転出、トヨタ・プロジェクトのメンバーからは外れたが、提携が成立すれば仕事の面で大きく関係してくる。  トヨタとの提携交渉の最高責任者は会長のスミスだが、実務ベースでのチーフネゴシエーターは、ジャック・スミスである。GMは会談の成功を前提にトヨタ側にもネゴシエーターを早く決めるよう催促しているが、まだ返事は来ていない。英二は肚の中で生産技術担当副社長の森田俊夫の起用を決めたものの、トップ会談前に社内で公表するのは時期尚早と判断していた。  チャイは会長のスミスと頻繁に電話で話しており、両社のトップ二人が近視眼的な話をしない限り、提携に対する総論ではまとまるとの感触を日増しに強めていた。  スミスはすべてを数字で割り切る性格である。これに対し資本提携先のいすゞ社長の岡本利雄は「義理と人情」の浪花節の世界に生きている人である。百八十度も性格の違う二人がこれまで、表面的とはいえ友好的にやってこれたのは、スミスが年長者の岡本を立ててきたからにほかならない。チャイは英二の性格はスミスと岡本の中間ではないかと勝手に想像していた。  英二とスミスはこれまで二度会っている。一度は米国で開かれた国際会議の場。もう一回は東京のホテルで開かれたいすゞ・GM提携十周年の記念パーティーの席である。二人とも顔見知りではあるが、挨拶を交わした程度でじっくり話したことはない。  スミスは日頃から、トヨタをわずか三十年足らずで、自分の会社を脅かす世界第二位の自動車会社に育て上げた英二の経営手腕に敬服している。英二も、五十四歳の若さで世界最大の会社のトップに登りつめたスミスの行動力には注目していた。  チャイはこれまで何回となく、GMとトヨタが基本的にライバル関係にあるからこそ、相手の力を認め合い、そのうえで手を結ぶ必要性を説いてきた。  ただしトップ同士の個人的な信頼関係とビジネスは別である。両社とも世界のビッグビジネスであると同時に、世界で最もエゴの強い会社でもある。逆にそうしたエゴがあったからこそ、世界の自動車業界の頂点に立てたことも事実である。  このトップ二人が会談の席でエゴをむき出して話をすれば、決裂するのは火を見るより明らかである。会談におけるチャイの役割は二人の意見に食い違いが出た場合、それを中和させることである。  両社のトップ会談に臨む態度が整っていく一方で、提携の成否はやはり独禁法が大きな壁になりつつあることが明らかになった。世界最大でしかも最強といわれるGMの顧問弁護士団は、全知全能を傾けてこの問題に取り組んでいたが、資本出資を伴わない共同生産なら何とか厚い壁を乗り切れるとのメドをつけていた。しかし、GMとトヨタが五〇%ずつ出資して合弁会社を設立して共同生産する方式はいくら検討しても抜け道が見付からず、「やはり難しいのではないか」という見方に傾きかけていた。  緊迫した情勢は逐一、柳沢を通じて英二に報告されている。スミスは独禁法の壁がいくら厚かろうとも、今の段階で合弁方式を断念するつもりはない。そしてスミスは「GMとトヨタのどちらかが主導権を握る形での合弁会社なら独禁法の網をかいくぐれるのではないか」という案を思い付き、弁護士団にそれを検討するよう指示した。  具体的にはGMが主導権を握った形の合弁会社を設立すれば、実質的にはGMがトヨタに生産を委託することになる。逆にトヨタが主導権を取れば、トヨタがGMの設備をリースし、GMはそこから買うことになる。いずれにせよ提携の大前提は、絶対独禁法に抵触しないことである。  GMの弁護士団が独禁法をシリアスに受け止めているのは、GMが八一年度の決算で工場の操業率が五〇%を割ったにもかかわらず、三億三千万ドルの利益を出したことによる。  実際はかなりの赤字だったが、「会長就任早々、二年連続の赤字決算だけは避けたい」というスミスの意向を反映し、財務部門が減価償却のやり方を変更するなどやりくりしてとり繕った数字である。二月十八日に発表したライバルのフォードの業績は十億ドルの赤字だっただけに、GMの黒字が余計目立った。  独禁法については両社とも�未知との遭遇�である。トヨタも社内で密かに検討させているが、日本で過去の判例を研究するのが精一杯。具体的なことは皆目見当がつかない。  チャイは会談の席で独禁法の対策には、さほど時間をかけない心積もりである。独禁法の問題で袋小路に入ってしまえば、会談が決裂する懸念があるからだ。  会談で最低限決めなければならないのは、提携方式である。会談は夕方六時半から始め、ディナーに約一時間半ほど充て、その後三時間程度の話し合いを計画している。  スミスは独禁法の問題がクローズアップされるにつれ日毎に表情が厳しくなり、「場合によっては、日を改めて再会談という事態もあり得る」との決意を固めていたが、英二からは「一日の会談にどんなに時間がかかり、深夜になろうと構わない」という頼もしい答えが返ってきた。  確かに独禁法は大問題には違いないが、チャイは事態を楽観視していた。 「独禁法に神経質になってきたということは、それだけ両社が提携に強い意欲をもってきた証拠。たとえ独禁法の壁がいかに厚かろうとも、両社の提携に対する意思が強い限り、独禁法の壁を打ち砕くことができる」  二月半ばすぎ、スミスはアトランタで開かれている全米ディーラー大会に出席していた。そしてウォールストリート・ジャーナルの記者を前に聞かれるまま「GMは小型車で日本の提携先であるいすゞやスズキに期待している。供給交渉は最終段階にさしかかっている」と語っていた。その記事は二十二日付で掲載されたが、スミスはスミスなりにトヨタとの提携を必死になってカモフラージュしていたのである。  GMとトヨタの世紀のトップ会談を一週間後に控え、両社の関係者が神経を張りつめていた二月二十一日。読売新聞の一面わきトップに一風変わった記事が載った。 「トヨタ・ベンツ提携、インドネシアでトラック 世界戦略の第一弾」というのが見出しである。  内容はインドネシアのエンジン国産化に際し、五社に認可が下り、トヨタは排気量二千cc、ベンツが大型用をそれぞれ受注したというニュースを受けたものである。トヨタは現地で二千ccのエンジンを搭載した小型トラックのほか、月間百台程度の大型トラックもKD《ノックダウン》生産している。この事業を継続するには、当然のことながらベンツからエンジンを購入しなければならない。  ベンツから大型エンジン売却の打診があったのは事実だが、仮に実現しても邦貨換算で月間一億円程度のコマーシャルベースの商談である。だが時期が時期だけに、記事は盛り上げている。 「両社は一九七五年ごろから技術情報の交流を行うほど�緊密な関係�を保っているが、トヨタが欧州に進出する場合、ベンツと手を組む以外ないとの考えもトヨタ側にあるため、国際的な自動車業界再編の中で、両社が今回の提携を契機に全面提携に発展する可能性もある」  このくだりがなければ、しょせん経済面のベタ記事である。ベンツ提携はともかく「トヨタは国際戦略で追い込まれている」というのは、業界でもマスコミの世界でも常識になりつつあった。だからこそ、ちょっとしたトヨタ首脳の発言が国際戦略に結びつけられ、憶測を交え大々的に報じられる。  通産省からは加藤発言を機に連日、「トヨタの最高首脳から直接、対米進出についての考えを聞きたい」という矢のような催促である。トヨタは通産省出身の副社長の山本重信を前面に立てて釈明しているが、通産省が先輩をいくら責め立てても、一向に埒《らち》が明かず、日増しに苛立ちが募っていた。  この時期、通産省はトヨタに対し二つの見方を持っていた。一つは予想通りの�三河の田舎大名�で政治感覚が分からず、対米進出問題を純経済的にとらえ、進出する意思が全くないという見方。もう一つはトヨタ自販会長の加藤誠之に代表されるように、自販に進出の意思があっても自工が依然として踏ん切りがつかないケースである。  肝心のトヨタ自工首脳が何を考えているのか、日米通商摩擦が険悪化しているにもかかわらず、最高首脳の真意は一向に伝わってこない。といって通産省が指をくわえているわけにもいかない。三月には日米外相会談のため桜内外相が訪米することになっている。その結果次第で五月に鈴木首相とレーガン大統領の二回目の日米首脳会談が開かれるかどうかが決まる。政府としてはできれば桜内外相の訪米までに日米経済摩擦を沈静化させておきたい。     [2]  その矢先にトヨタから、トヨタ自販社長の豊田章一郎が事情聴取に応じるとの返事がきた。章一郎はトヨタ自工の非常勤取締役も兼ねており立場上、トヨタの対米進出について責任のある発言ができる。まだ公式に発表されていないが、七月一日に発足する新生トヨタ自動車の初代社長に章一郎の就任が内定していることは通産省も薄々知っている。通産省としては自工の公式発言とは別に、新生トヨタの社長になる章一郎の口から「私の考えは加藤さんと同じ」という言葉が出るのを期待していた。  機械情報産業局長の豊島格は、今回はあくまで非公式にトヨタの考えを聞くのが目的なので、トヨタ首脳の気分をいくらかでも和らげるため会談場所に省内ではなく、皇居前のパレスホテルの一室を用意した。  トヨタとしては、GMとのトップ会談の後なら、ある程度通産省の希望に沿える回答をすることも可能だが、会談前では通産省の機情局長といえども話せない。事情聴取の時期をトヨタ側が指定すればかえって怪しまれる。章一郎と通産省首脳の会談は二月二十六日に決まった。  豊島は自動車課長の西中真二郎を伴ってホテルに来た。そして章一郎を前にトヨタが対米進出しなければ将来、日本車が米国で売れなくなる状況に追い込まれることを、多少脅かしを交え得々と説明した。豊島がカラーテレビの対米輸出規制の例を挙げ、自主規制が現地生産を促進させたことなども話した。  これに対し章一郎は、カラーテレビと自動車では投資規模が全く違うと反論すると同時に、対米進出を急いで決定しても、失敗すれば取り返しがつかなくなるので軽々しく決断できないことを延々と述べた。  章一郎はGM提携を口に出すどころか、対米進出に関し通産省に期待を持たせる発言も出来ない。会談直前に英二と加藤の二人から「揚げ足を取られるような発言は絶対にしないように」とクギを刺されているからである。  豊島がいくら半月前に新聞で報じられた加藤発言をタテに進出を促しても、章一郎は「あれは加藤さん個人の考え」と突っぱねるだけである。面子にかけてトヨタから対米進出の言質を取りたい通産省。GMとのトップ会談を三日後に控え、「引き続き検討中」として逃げ切りたいトヨタ。官民の息づまるような会談であっても、勝負は最初から決まっていた。通産省の期待は完全に裏切られた。  通産首脳と章一郎の会談が行われた三日前の二十三日。神尾は柳沢から出された海外出張命令書にハンコを押した。柳沢も心得たもので、書類の出張の目的の項には「カナダのディーラー大会出席」とだけしか書いてない。むろん米国経由とも書いてない。これでは最終決裁をする経理部長も「柳沢君は自工の豊田英二社長のお供で、直接トロントに行く」と判断しても少しもおかしくない。  英二の米国行きは社内でも完全に伏せてある。神尾は最低限、英二は副社長だけにはスミスとのトップ会談を知らせていると思っていたが、その様子は一向にない。自工で海外事業の最高責任者である専務の辻源太郎ですら神尾に「トヨタの海外戦略について、英二社長は一体何を考えているのかさっぱり分からない」とぼやくほど徹底していた。これほど徹底しておれば、社内であえて箝口令をしく必要もない。  緊張感は自販にも芽生えていた。章一郎は柳沢に「チャイさんと電話連絡する時は、(社内でも誰かに聞かれるとまずいので)自分の机の上の内線電話を使わずに、面倒でも会議室の直通電話を使うよう」厳命した。その一方で神尾に対しても「社内で連絡をとる時でも、内線電話で話さず、面倒でも自分の部屋に呼んで要件を伝えるよう」指示した。  そのことは二人ともすでに今年に入ってから実行している。章一郎が細々した指示を出すことは、それだけ真剣になってきた証拠とみて、神尾は「分かりました。とにかく注意しましょう」と苦笑しながら返事をした。  翌二十四日は冬型の低気圧が張り出し、東京は朝からみぞれが舞うあいにくの天気だったが、昼前から小石川・後楽園のトヨタ東京ビルで竣工式と盛大な披露パーティーが行われた。地上十九階、地下五階の名実共に「新生トヨタの東京表屋敷」である。  パーティーには安倍通産相をはじめとする役所の関係者や日産社長の石原俊など同業他社の首脳が多数、お祝いにかけつけた。本来ならこの日はデトロイトで、スミスと英二のトップ会談が開かれている日である。英二はそんなことはおくびにも出さず、出席者に愛嬌を振りまいていた。  パーティーの席で新聞記者がトヨタ首脳に聞く話といえば対米進出である。各首脳とも聞かれることをあらかじめ想定していたかのようにそれぞれの持ち味を生かし、尻尾をつかまえられないような話し方をした。  豊田英二社長 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   「今日はめでたい日だ。難しい話はやめよう」  花井正八会長   「クライスラーはともかく、GMとフォードは必ず立ち直る。なにしろ過去の遺産が大きい。トヨタの米国進出、そんなものはまだ決まっておらんよ」  山本重信副社長   「トヨタの米国進出は絶対に政治的な圧力に屈した形で決めてはならない。出るか出ないかの判断基準はあくまで経済性だ」  豊田章一郎自販社長   「米国はまだ何もないよ」  加藤誠之自販会長   「トヨタが米国進出すべきというのは、私の持論であってトヨタの方針ではない」 [#ここで字下げ終わり]  トヨタ東京ビルの竣工披露パーティーは、何事もなく平穏無事に終わった。  豊田英二はトヨタ東京ビルの披露パーティーが終わると、東京駅の八重洲口のホテル国際観光で休息した後、三月一日のトップ会談に同席する自販北米部長の柳沢と打ち合わせを兼ねホテルで夕食をとり、八時過ぎの新幹線で帰ることにしている。  英二は食事をしながら、日頃の疑問を目の前の柳沢に何気なく話した。 「私には今もって、チャイさんの立場が分からない。本当に間違いない人なのだろうか」  英二が一月二十一日にチャイに会ってから、どうしても拭い去れない疑問である。これまで三回会ったが、どのような質問をしても明快な返事が返ってくる。GM社内の事情にも驚くほど詳しい。それだけで果たして信用していいものだろうか。それを率直に柳沢に投げかけたのである。 「私は毎日のようにチャイさんと国際電話で話しています。GMはトヨタとの提携に関し、完全にチャイさんを窓口にしています。チャイさんがいなければ、GMとの提携交渉は短期間でここまできませんでした。それは社長も分かっているはずです」  柳沢は英二の疑問を解消させるため、自信たっぷりに返事をしたが、英二はそれでは納得しない。 「GMといえば良きにつけ悪しきにつけ官僚組織の会社だ。そのような大組織が、今回のような企業の将来を左右する大問題で、コンサルタント会社でもない第三者を使う必要があるのか。私にはそれがどうしても理解出来ない」  トヨタは同族色の強い会社だが、年々組織が肥大化、大企業病にかかりつつある。それを打破する手段の一つが工販の合併である。しかし経営の中枢への第三者の介入だけは断固として阻んできた。フォードとの提携交渉の際にもコンサルタント会社など使わずに、相手のトップに直接提携を打診した。柳沢は英二が何を疑問視しているか、すぐ分かった。 「GMがチャイさんを使うのは、今回が初めてではありません。十年前のいすゞとの資本提携の時もそうでしたし、昨年のスズキとの提携も、チャイさんの世話になっています。GMにすれば、こと日本に関してはチャイさんにすべて任せているようです」 「確かにそうかも知れない。しかし、私はチャイさんがいすゞやスズキとの提携交渉でどんな役割を果たしたのかは知らない」  英二にこう切り返されては、柳沢は意地でも具体的な事例を挙げ、チャイを理解してもらう以外にない。 「今朝、米国トヨタからフォードがUAWに同調してローカルコンテント法案に賛成する態度を決めたという情報が入ってきました。この情報はチャイさんが二週間前に私に知らせてくれたものと同じです」  柳沢がむきになってチャイを弁護すればするほど、英二が反論してくる。 「チャイさんの情報の正確さには、私も感服している。君は完全に信用しているようだが、それをもって私も信用していいという証拠にはならない。ほかに私が一〇〇%信用しても良いという証拠でもあるかね」  柳沢が自工の社員であれば立場上、英二に反論しにくいが、柳沢は工販分離後の自販に入社した社員である。工販合併が決まったとはいえ現段階では英二は、まだよその会社の社長であり遠慮はいらない。 「一月にチャイさんが日本に来た時、スミス会長の親書を持ってきました。その中に確かチャイさんの名前が入っていたのではないですか」  柳沢はこの事実を持ち出せば、さすがの英二でも信用せざるを得ないのではないかと思った。 「親書の中に確かにチャイさんの名前はあった。しかし書いてあることといえば『この手紙をチャイ君に持たせる』ということだけだ。書面に『交渉はチャイ君に一任する』と書いてあれば、私も信用する。チャイさんからもらった名刺の肩書きは米国伊藤忠商事の開発担当副社長というものだ」  英二はチャイの人間性というより、あくまでチャイの身分に疑問を抱いているのが柳沢にも分かりかけてきた。 「一月の親書も二月十二日付の招待状もすべてチャイさんが起案したものです。二度目の時はチャイさんが書いた下書きを電話で読んでもらいました。スミス会長のサイン入りのものと一字一句違わなかったはずです。それでもダメですか」  英二はこの柳沢の答えに再び反論してきた。 「それは分かっている。私が知りたいのはチャイさんのGM社内での立場だ。招待状の中でスミス会長が、チャイさんの立場に一言触れておれば私も信用する」  柳沢は半分泣きたくなった。しかしここで妥協して沈黙してしまえば、五日後に控えたトップ会談がギスギスしたものになる。そして意地になり、多少開き直った言い方をした。 「スミス会長としてもチャイさんがGMの社員でない以上、交渉の全権を任せるとは書けないのではないでしょうか。手紙とはいえ万が一、何か問題が起こった時には証拠能力があります。しかし考えて見ますとチャイさんがGMの人間でないからこそ、一度キャンセルされたトップ会談を短期間で復元できたのではないでしょうか」  ここまで話したところで、新幹線の乗車時間が迫り、柳沢は英二を説得できないまま二人の会話は打ち切られた。柳沢にとって辛いのは神尾から、「英二社長と話したことはどんなに嫌なことでも、チャイさんに逐一、しかも正確に報告せよ」と厳命されていることである。     [3]  英二が恐れているのは、トヨタが恥をかくことである。自販が推進するGMとの提携に乗ってはみたものの、片方ではトヨタは誰かに騙されているのではないかという気持ちがどうしても拭い去れない。  英二はGM提携に際しては慎重なうえにも慎重を期して臨もうとしていた。フォードとの提携に関しては自ら提携のシナリオを描き、トップダウンで交渉に臨んだが、結果は失敗に終わった。それだけにGMとの交渉では失敗は許されない。同じ過ちを犯せば今度は自分の経営手腕が問われるだけでなく、トヨタの社会的信用も失墜する。  GM提携に際しては事務ベースで詰められるだけ詰め、それからトップ会談を開くのが理想的である。それには最低一年はかかる。現実は昨年末にトヨタ自販会長の加藤がデトロイトでスミス会長に会ってから、わずか三カ月足らずでトップ会談である。  加藤の話によると、デトロイトでの会談の雰囲気は、共同生産まで進むほど友好的ではなかった。にもかかわらずチャイが提案してきた提携内容は、一気に合弁による共同生産で、内容は決してトヨタに悪くない。むしろトヨタの内情と立場を見透かしたような提携内容である。この乖離《かいり》をどう埋めればよいのか。  英二の不安は提携内容が余りにもトヨタに良すぎることである。そこから「誰かに騙されているのではないか」という不安が芽生えてくるのである。その胸の内は柳沢にしか打ち明けることが出来ない。しかし、ここまできた以上、もはや後戻りはできないことも分かっている。  チャイは柳沢から英二の危惧を聞いて、半ば呆れながらも、いら立ちの気持ちが込み上げてきた。英二が自分の立場に疑問を抱いているのは薄々感づいていたが、そこまで問題視されているとは思ってもみなかった。  帰国の前日、伊藤忠商事の常務で名古屋支店長の松井隆治から電話があったのを思い出した。用件は「デンソーの田邊守副社長から『お宅のチャイさんとはいうのはどんな男か教えてほしい』という依頼があったが、どういう返事をしたらよいか」ということであった。  その時は軽い気持ちで「チャイというのは、『昔からGMに滅法食い込んでおり、それ以外とり柄のない男だ』と言っておけばよい」と生半可な返事をしておいた。チャイは英二が身元調査を田邊に頼んだと思い込んでいたが、実は調査を依頼したのはトヨタ自販会長の加藤である。  柳沢からは「会談の席でスミス会長からチャイさんの立場を説明してもらえれば、英二社長も納得する」との提案があったが、チャイにはその気はない。むしろ「社長がそんなに不安なら、交渉のテーブルに着かなければよい。疑問があれば自分で直接スミスに聞けばよいでしょう」と突き放した言い方をしていた。  チャイは現時点では自分のプライドを犠牲にしてまで、両社の提携をまと上げるつもりはない。GMからはもちろん、ましてやトヨタからビタ一文貰っているわけではない。にもかかわらず乗り出したのは、スミスから「具体的な提携案を考えてくれ」と頭を下げられたからである。世界最大企業のトップから直接頭を下げられたら、悪い気はしない。  その点、トヨタとは何の利害関係もない。昨年十二月にトヨタ自販の加藤がスミスとの会談を希望した時は、クリスマス休暇に入ったスミスを強引に引っ張り出し、英二が正式な招待状がほしいと言えば、専属秘書をUAWとの交渉の場にまで潜り込ませ、サインをもらい、それをジャック・スミスにニューヨークまで届けてもらい日本に持参した。二月二十四日のトップ会談が、トヨタ側の不手際でキャンセルになり、三月一日に延期になった際も、GMを何とかごまかして実現にこぎつけた。  英二のニューヨーク入りについても日本人と絶対に顔を合わすことのないホテルを予約、ボディーガードの手配までしている。さらに会談が長引いた場合に備え、その間、豊田夫人の夕食や買い物に付き合う女性まで手配している。トヨタに感謝されることはあっても、恨まれる筋合いはない。  そこまでしてスミスと英二を会わせようというのは、単にスミスから頭を下げられたからではなく、「世界の自動車産業は強い企業が提携しない限り生き残れない」というチャイ自身に戦略的な発想があっからこそである。提携実現に向け、これまで個人の利益を犠牲にして、トヨタのわがままをすべて聞き入れてきた。  行きがかり上、一日の会談には出席するものの、豊田英二が自分の立場を信用しないというのであれば、一日のトップ会談以降、提携交渉から完全に手を引くことをも真剣に考えなければならない。チャイが手を引けば両社の提携は一日のトップ会談が実現しても絶対にまとまらない。  チャイが自分の置かれている立場を利用すれば、提携を潰すことは赤子の手を捻るよりやさしい。スミスに「トヨタとの提携をあきらめ、小型車戦略は歯を食いしばって、いすゞとスズキだけでやりましょう」と進言すれば、間違いなくスミスはその気になる。  スミスの心が変われば、GMはトヨタの前に立ちはだかるだろう。GMがトヨタを陥れるのは簡単である。現在の政治状況を勘案すれば、トヨタの対米進出は避けられない。一日のトップ会談後、米国の新聞にリークすれば、トヨタは一方的に交渉を打ち切ることはできなくなる。GMに提携の意思がなければ、トヨタはGMにボロ工場を高い値段で売りつけられるのが関の山である。  ただスミスに「私はこの提携交渉から手を引く」と言えば、「それなら交渉の前面に出なくとも、GMの参謀として参加してほしい」と言われるのは分かり切っている。  英二はなぜその辺のことを理解できないのか。チャイは歯痒かった。チャイのGMにおける立場は、「前例がなく多分誰にも理解出来ない」ことはチャイ自身一番よく知っている。  今後、チャイが手を引くかどうかは別にして柳沢には、「英二社長には、私が過去二カ月間やってきたことを、信用してもらう以外にない」とやり場のない怒りを抑えて返事をした。  柳沢もそのことは十分承知しており、時間が経てば、英二社長にもチャイの立場を分かってもらえると信じているが、それが遅ければ遅いほどトヨタに不利になる。だが今の段階ではどうすることも出来ない。  トヨタ提携に関してGMは会長のロジャー・スミス、ジャック・スミス、それにチャイの三人は一枚岩である。チャイはトヨタに関する情報とトヨタ首脳の考えを毎日のように、デトロイトにいる会長のスミスに電話で報告、スミスが不在の時はジャック・スミスと緊密に連絡を取り合ってトップ会談の準備を進めてきた。スミスには英二の懸念を正直に報告した。 「私はどうも豊田英二社長に信用されていないようです」  これを聞いたスミスは電話口でゲラゲラ笑いながら言った。 「それは決して悪いことではない。君はGMの人間以上にGMのことを考えてくれている。その人間がトヨタに信用され過ぎ、トヨタの手先になってもらっては困る」  スミスのこの一言でチャイの立場が決まった。スミスにここまで言われれば「三月一日のトップ会談以降手を引く」とは言えない。チャイは当初、両社の提携交渉では中立的な立場に立ち、その立場を利用しながら強引にまとめる方向に引っ張るつもりでいたが、三月一日以降はGM側の一員として交渉に当たる肚を固めた。  チャイはトップ会談の冒頭で、自らの立場を日本語で豊田社長に説明し、それを柳沢に通訳してもらいスミスに伝えることにした。この決定を一番喜んだのは誰あろうスミスである。チャイは最初の目論見は崩れたものの、今後の提携交渉に際しては、GMの利益を最優先して考えればよいので精神的には相当楽になる。  一つの気がかりは、交渉がヤマ場を迎えた時、両社の間にエゴが出てきてトップが直接話し合わなければならない事態が予想されることである。本来であればチャイのような中立的な人間が介在しておれば解決しやすい。GMといすゞ、GMとスズキの提携がうまくいったのはチャイが両社のトップに直結していたからである。とはいえ今から将来を心配してもいたしかたない。将来のことは出たとこ勝負である。     [4] 「私はスミス会長の顔を二回見ている。二人だけでじっくり話したことはないが、特徴のあるあの赤砂色の顔は絶対に忘れていない」  寒が過ぎたとはいえ春にはまだほど遠い二月二十七日の土曜日の昼過ぎ。トヨタ自工社長の豊田英二はこう自分に言い聞かせ、夫人の寿子を伴って豊田市竹町谷間の自宅を後にした。名古屋市郊外小牧の名古屋空港に向かう車の中での表情は、緊張のせいか隣の夫人を寄せつけないほど険しかった。  小牧と成田の間には火曜日と土曜日の週二便JAL(日本航空)が飛んでいる。英二は名古屋十四時三十分発成田行きの984便に乗り、成田空港で柳沢と合流した。ラウンジで一休みした後、今度は十八時三十分発ニューヨーク直行のPAN(パンアメリカン航空)800便に乗り継いで日本を後にした。  それから一時間後、トヨタ自販常務の神尾秀雄が夫人を伴って、同じ空港から「世界自動車会議」に出席するためジュネーブに飛び立った。  東京とニューヨークの時差は冬時間のため十四時間ある。豊田夫妻と柳沢を乗せたジャンボ機のボーイング747、ニューヨーク行きのPAN800便は予定通り、その日の夕方六時過ぎニューヨーク郊外のジョン・F・ケネディ空港に到着した。英二は飛行機の中でも殆ど無口で通した。  空港ではタラップの下までGMが用意したリムジンが待っており、一般乗客の前に英二夫妻と柳沢の三人が降り、出迎えたチャイの案内でそのままリムジンに乗り込んだ。リムジンはまず空港内にあるVIP専用の税関に入り、三人はそこで入国手続きを済ませた。GMがVIPを迎える時にいつも使う手で、これだと手続きも簡単なうえ、誰にも会わずに済む。  四人を乗せたリムジンはフルスピードでラッシュアワーでごった返すマンハッタンへ向かった。チャイが予約したホテルのヘルムズレー・パレスはマジソン街に面した五十丁目の角にあり、かつて大財閥だったヘンリー・ピラードの邸宅を大富豪のヘルムズレーが買い上げてホテルに改造したものである。旧館はヨーロッパのお城のような形をしていることからパレスの名をつけた。英二夫妻の宿泊するのはオープンしてまもない五十五階建ての新館である。  スイート・ルームの応接間はちょっとした会議も出来るほど広い。各部屋のテーブルにはチャイが差し入れた色とりどりの花が飾ってある。英二夫人の寿子は部屋に入るなり、「花がとてもきれい」と長旅の疲れにもかかわらず寛《くつろ》いだ表情を見せた。  夫人がベッドルームで長旅の疲れを癒している間、英二と柳沢とチャイの三人は、応接間でニューヨークでの日程の打ち合わせをした。そこでチャイは改めて英二のワンマンぶりに驚かされた。 「一日の会談結果は花井会長や自販の章一郎社長に国際電話で報告するのですか」  チャイは今後のトヨタの対応を探るため英二にさり気なく尋ねてみたが、英二からは予想もしなかった返事が返ってきた。 「私はそんなことはしない。花井君も章一郎君も今回のことは、こと細かなことまで知らない。ただし帰ったら自販の加藤さんを含めた三人の意見は聞きたいと思っている」  今度は逆に英二がチャイに質問した。 「GM社内では誰と誰が、明後日の会談を知っているのですか」  チャイは正直に答えた。 「GM社内で一日のトップ会談を知っているのは、スミス会長と同席する海外グループ担当副社長のウォーターズ、ジャック・スミスの三人のほかマクドナルド社長と一月に私と一緒に日本に行ったビル・ラーセンの五人だけです。顧問弁護士団も近くトップ会談があることは薄々知っていますが、独禁法との関係で具体的な日取りは知らせておりません」  チャイはGMから外部に漏れる心配はないことを強調したつもりだが、英二の心配は別のところにあった。 「いすゞの岡本社長はどの程度知っているのですか」 「いすゞはGMと資本提携している会社です。GMとしてはいすゞの存在を無視するわけにはいきません。岡本さんにはこれまでの経緯をかいつまんで報告しています。ただし一日のトップ会談の件は知らせておりません」 「すると岡本さんから漏れることはないのですね」  ここまできてチャイは英二が何を警戒しているかが分かった。英二は一日の会談が事前に外部に漏れることに対し、異常なまでに神経質になっていたのである。チャイは英二がトヨタの情報がGMのみならず、いすゞにも筒抜けになることを恐れているのだと判断した。そこで英二を安心させるためこう答えた。 「岡本さんはGMとトヨタの提携を半分あきらめています。しかし提携の発表は遅ければ遅いほどよいと思っているはずです。なぜなら提携の内容いかんで、いすゞの立場が変わってくるからです。私は岡本さんに余計な心配をかけまいとして、一日の会談を知らせませんでした」  英二はこの答えを聞いて安心したのか、それまでの固い表情がみるみるうちに和らいできた。それを見て今度はチャイが質問した。 「豊田社長はなぜこれまでGMの件を、花井会長や章一郎社長に相談しなかったのですか」 「私が花井君や章一郎君に詳しい話をしなかったのは、今年に入ってからマスコミの取材攻勢が激しかったからです。中途半端な報告をすれば必ず外部に漏れてしまう」  誰にも話さないというのは、誰にも相談しないということである。チャイは英二の強靭な神経に驚くと同時に、トヨタがわずか三十年でGMに次ぐ世界第二の自動車会社にのし上がった秘密の一端が分かったような気がした。 「対米問題では通産省から相当圧力がかかっているようですが……」  チャイは結論が分かり切った質問をしてみたが、英二からは予想通りの返事がきた。 「通産省が米国に出るわけではありません。トヨタはこれまで通産省のいいなりになったことは一度たりともない。米国問題にどう対応するかは、私が決めます」  チャイは英二の意思の強さに通産省がてこずっているのが目に浮かんだ。しかし、明後日の会談が成功すれば、結果的に通産省の目的はひとまず達成される。 「GMでは一日の会談で最低限、総論部分で合意すれば、直ちに正式な交渉チームを結成して提携に向けての具体的な作業に入りたいと思っております。その責任者には引き続きジャック・スミスが就きます」 「それについてはトヨタに異論はありません。トヨタ側の人選は私が帰国してから花井君や章一郎君の意見を聞いたうえで決めます。また役員会には、当分かけないつもりです」  英二が長旅で疲れていたこともあり、話はそこで打ち切り、柳沢と簡単な打ち合わせをした後、ホテルを後にした。  チャイは自宅に帰ってから、眠れないまま日米通商摩擦を分析してみた。現在、問題になりつつある相互主義法案はワシントンでは「成立する」との見方が半ば常識になりつつある。ローカルコンテント法案もUAWにフォードが同調した今、GMがこれに相乗りすれば成立する。  議会は日本に農産物やタバコの市場開放を求めているが、これはあくまで議員の選挙向けのポーズに過ぎない。仮に日本が米政府の圧力に屈して市場を開放しても日米間に横たわる巨額の貿易収支のアンバランスは一向に解消されない。  米国が目先、問題視しているのは自動車だが、長期的には半導体である。自動車とりわけ小型車については、日米の格差が埋め切れないほど開いてしまった現状では、米国政府は当面、自主規制以上の措置は取れない。  その時期にGMとトヨタの提携が具体化すれば、独禁法の問題があるにせよ長期的には自動車産業の再生に役立つ。米国が絶対に譲れないのは自動車産業より半導体産業である。半導体は軍需に直結しているので、日本からの輸出が一定の数量を超せば、米国は決定的な措置を取るだろう。  結論は「トップ会談までこぎつけた以上、今後よほどのことがない限り、GMとトヨタの提携は成立する」ということである。ただし客観情勢は日が経つにつれトヨタよりGMに有利になりつつある。  トヨタが「手っ取り早い対米上陸」や「安上がりの対米進出」を考えているとすれば、GMにうまい具合に利用され、ボロ工場を高く売りつけられるのが関の山である。  チャイは独禁法との絡みで、これまで米国伊藤忠の副社長として中立の立場で行動してきたものの、今後はGM側の交渉団の一員としてGMの利益を最優先に考えなければならなくなった。しかし一方的にGM側に立てば、話はまとまらない。形式上はともかく、まとめ上げるにはトヨタの利益も尊重しなければならない。チャイは自分の置かれている立場が、これまで以上に微妙になっているのを自覚せざるを得ない。  一方、GM社内ではこのところ土曜、日曜の休日を返上して顧問弁護士団が連日会議を開き、独禁法の問題に取り組んでいた。そして三月一日にニューヨークで開かれる取締役会と財務委員会の後、会長のスミスに中間報告することになっている。  会議ではメモを作成してもコピーの禁止はむろんのこと、証拠が残らないように会議が終わり次第、メモは全部シュレッダーにかけるという徹底振りである。弁護士団はそれほどこの問題には神経をピリピリ尖らせていた。     [5]  トヨタ自動車社長豊田英二とGM会長ロジャー・スミスの会談は三月一日午後六時半からGMニューヨークビルの近くにあるプライベートクラブの「リンクス・クラブ」で開かれた。GMはその日のために三カ所の会談場所を予約しておいたが、取締役会と財務委員会を終えたスミスが、最終的にリンクス・クラブを選んだ。  マンハッタンはセントラル・パークの東側五十九丁目より北に広がる地域は、超一流の高級住宅街として知られるアッパー・イーストサイドとなる。そのクラブはミッドタウンの五番街とマジソン街の間にそびえる五十階建てのGMニューヨークビルから歩いて五分の所にある。マジソン街から六十二丁目の東に入った三軒目の三十六番地である。  アッパー・イーストの入り口にある五階建ての建物は高級住宅地に似合わず小さくて古く、しかも薄汚れている。五階はどう見ても屋根裏部屋である。料理も決しておいしいという評判があるわけでもない。昼は米国経済を動かすエグゼクティブクラスのビジネスマンの情報交換の場として賑わっているが、夜は人影もまばらになる。  にもかかわらず、最終的にスミスがその場所を指定したのは、マンハッタンのど真ん中にあり、便利なうえにセキュリティの面で問題がなく、しかも人目につかないからである。英二が宿泊しているホテルからも直線で一キロ足らずで、夕方、ラッシュアワーにかかっても十五分もあれば着く。  トヨタとGMのトップ会談はあくまで非公式なもので、二人がじっくり話し合うのが目的である。リンクス・クラブはまさにその条件をピッタリ満たしていた。  チャイは五時過ぎにヘルムズレー・パレスに英二と柳沢を迎えに行き、最後の打ち合わせをした後、六時半ちょっと前にリンクス・クラブに到着するようホテルを出た。車のなかでは英二は気が張りつめているせいか、無口で通した。  リンクス・クラブにはすでにロジャー・スミス、ジム・ウォーターズ、ジャック・スミスのGM側出席者三人が到着していた。緊張しながら三階のダイニング・ルームに入ると、スミスが上機嫌で英二に握手を求めてきた。  英二が手を差し出すと、スミスは大袈裟なジェスチャーで右手を差し出した。巨人たちの最初の握手である。この握手が単なる儀礼的なもので終わるのか、それとも世界の自動車産業を震撼させる提携に発展するのか、すべてこれから始まる会談の成果いかんにかかっている。  スミスの手を握りながら英二は、瞬時に判断した。 〈この顔は間違いなく、昨年七月にホテルオークラのいすゞ、GMの提携十周年記念パーティーで会った男と同じ顔だ〉  食事が始まりホスト役に徹したスミスが、趣味の鹿狩りや鴨狩りを身振り手振りで、おもしろおかしく話し、英二を盛んに笑わせた。  緊張した英二の気持ちも次第にほぐれ、スミスの話につられたのか、「私は日本の経営者として珍しくゴルフをしない。だから日本の企業社会では、この面で少し異端児扱いされている。しかしゴルフをしない分だけ、水泳をして体を鍛えている」と泳ぐ真似をしながら、おどけてみせた。  食事が終わりになりかけた頃、二人はすっかり意気投合し、双方が「鹿狩りをしましょう」「水泳をしましょう」と言い合うまでになった。デザートが出され、本題に入る前にチャイが神妙な顔付きで口火を切った。 「私が今回の交渉に携わり、今日もこの席に出ているのは米国伊藤忠商事の副社長としてではなく、むろん個人的な立場でもありません。私はGMのスミス会長のブレーンの一人として、会長から頼まれて日本に行き、トヨタに提携を打診しました。従って今後の交渉でも、引き続きGM側の一員としてやっていきます」  チャイが英二に向かって日本語で話し、それを柳沢が英語に直してスミスに伝えた。スミスは柳沢の英語を一つ一つうなずきながら聞き、通訳が終わると話し始めた。 「チャイ君のいう通りです。彼は私の個人的なブレーンの一人です。これからもGM側の人間としてみて下さい」  英二は初めてスミスの口からチャイの立場を聞かされ、納得した表情で語った。 「正直言って私は、チャイさんの立場を相当気にしていました。ここではっきり立場が分かって良かったと思います」  すでにデザートの器も下げられ、目の前のテーブルには水の入ったグラスしかない。食事も終わり、部屋に誰も入ってくる心配もない。出席者全員に真剣な表情が戻り本題に入ると、冒頭スミスはGMが用意していたプロポーザルを真剣な表情で話し始めた。 「GMとしてはトヨタ自動車と共同生産を希望しています。生産車種はカローラ級の排気量千六百ccの小型乗用車です。生産基地としてGMは、三月五日付で閉鎖する西海岸のサウスゲート工場もしくは四月一日で閉鎖を予定している同じ西海岸のフレモント工場を考えております。  共同生産に際しては、独禁法との絡みもありますが、すべて平等の思想を取り入れてやっていきたいと思っています。この思想を貫徹するには出資比率五〇%対五〇%の合弁方式しかありません。しかし独禁法の関係でそれが困難な場合でもこの思想を生かした別の方式を考え、どんな困難を乗り越えてでも両社の提携を実現させたいと思っています」  スミスが共同生産車種として挙げた車は、カローラそのものというのではなく、あくまで千六百ccの小型車を強調するためカローラ級と表現した。GMがほしいのはTカーのシベットの後継車種である。トヨタがこれに同意しても、カローラと足回り部品を共通化するだけで、外観はカローラとは似ても似つかない車になる。  生産基地もこの日初めて西海岸の遊休工場を提案した。このプロポーザルがトヨタに受け入れられれば、GMは遊休施設を活用できるだけでなく、カンバン方式に代表されるトヨタの生産システムも学ぶことが出来る。  スミスが話しチャイが通訳をしている間、英二はいつもの癖で腕を組んだまま目を閉じてじっと聞き入っている。通訳が終わると英二は素朴な質問をした。 「世界最大の自動車会社のGMが、なぜこれほどまでにトヨタとの提携に熱心なのですか」  この質問にスミスは言葉を選びながら、GMの苦渋の決断の背景を説明した。 「GMはまだ外部には公表してませんが昨年秋、主に採算の面から社内で『Sカー』と呼んでいるミニサイズカーの米国内生産を断念しました。しかしこのサイズの車は米国市場で一定の需要があります。そこで需要に見合った分だけ、日本の提携先であるスズキから完成車の形で輸入することにしました。Sカーより一回り上のTカーについても日本の提携メーカーから輸入することを検討していますが、まだ数が足りません。  GMが日本の提携メーカーに資金援助すれば、なんとか生産してもらえますが、現在の日米自動車摩擦を考えた場合、年間百万台単位で日本から完成車を持ってくるのは不可能です。そこで我々は昨年十二月にトヨタ自販の加藤誠之会長がデトロイトに来られたのを機に、トヨタとの提携を模索しました。トヨタにとってもGMとの提携はメリットがあると判断したからです。  現在、日米通商関係は最悪の状態にあります。ワシントンで討議されている相互主義法案は議会を通過する恐れが十分あります。外国の自動車メーカーに部品の現地調達を義務づけるローカルコンテント法案は、成立に向け全米自動車労組《UAW》が声を大にして叫び、フォードもこれに同調しそうです。この法案が成立すれば、日本メーカーは大変な事態になります。  われわれは今回の提携がトヨタにとっても、大きなメリットがあると判断しました。私はトヨタとGMは、米国市場で相互補完の関係が成り立つと信じています」  GMがトヨタとの共同生産で考えた規模は年産四十万台から五十万台である。フレモントとサウスゲートの二つの工場を使えば楽に生産出来る。しかしのっけから年産四十万台、五十万台を提案すればトヨタが尻込みする恐れがあることから、あえてプロポーザルでは生産規模には触れなかった。  独禁法については顧問弁護士団が知恵をいくら絞っても抵触しないという確信が持てず、プロポーザルでは合弁の精神を謳い上げることにとどめ、仮に独禁法の壁に突き当たっても、白紙還元せず交渉を継続させることを提案した。スミスはそれを踏まえ、トヨタの立場を配慮して今回の提携がGMのみならずトヨタにとってもメリットが大きいことも要所要所で強調した。  ところが英二は意に反して即答を避けた。チャイは即答しないことをある程度予測していたが、スミスにとっては予想外である。 「スミス会長の提案は、非常に興味あるものですが、トヨタにとって重大な問題です。この席で私の一存では即答するのは困難です。社内でもいろんな人に相談しなければなりません。我々としてはスミス会長の提案は真剣にしかも前向きに検討します。最終的な返事は今月末まで待って下さい」  英二は口から出る言葉と裏腹にスミスの提案を受け入れる肚を固めつつあったが、それをおくびにも出さない。チャイは素早く英二の表情から心の内を読み取った。  英二が即答をしなかったのは、GMを焦らすというよりも、何事にも慎重な性格に由来している。別に格好をつけているわけでもない。英二としては正式な返事をする前に会長の花井、自販社長の章一郎、同会長の加藤の意見を聞き、自分の判断が間違っていないことを確認してから返事をしたかったのである。  スミスは即答を期待していただけに、それが裏切られ多少がっかりしたが、英二と同様、それを一切表情に表さない。二人は世界の自動車産業のあり方、米国市場の需要見通しなどについても意見を交わした。  時計の針はすでに十時を回っている。リンクス・クラブは営利目的の施設ではないので、十時になると自動的に暖房が切れてしまう。三月とはいえニューヨークの気温は夜ともなれば、零度近くまで下がってしまう。暖房の余熱があるというものの、室内も急激に温度が下がり始めた。しかし英二もスミスも暖房が切れたのを知ってか知らずか、それを話題にせず今後のスケジュールについて話し合った。 「私たちは今日、四時間近く話し合いました。私は大変有意義な会談だったと思います。しかし、今日の会談で合意したことは何もなかったわけですね」  スミスが英二の目を見ながら確認するように言った。スミスのセンスからすれば、「米国流ならトップ同士が膝を付き合わせ、しかも長時間話せば大体話が決まる」  しかし現実は目の前の英二は即答を避けた。スミスは自分に言い聞かせた。 〈多分これが日本流なのだろう〉  英二が即答を避けたため、二人の間に火花が散るといった場面はなく、会談は和気あいあいに終始したが、ことの重大性は時間が経つにつれ、英二の方に重くのしかかってきた。 「先ほど今月末までに返事をすると言いましたが、それより早くスミス会長の期待に副《そ》えるような結論を出したいと思います」  英二が最初に結論を月末まで待ってほしいといったのは、それなりの計算があってのことだ。  スミスとのトップ会談を終え、トロントで開かれるディーラー大会に出席して日本に帰国するのは、日本時間の六日の夕刻である。この日は土曜日なので東京のホテルで旅の疲れを癒し、翌七日の日曜日に豊田市の自宅に帰ることにしている。  八日の月曜日はトヨタ自工の常務会と専務以上が出席する経営会議が開かれるが、トヨタ自販会長の加藤や社長の章一郎は出席しないので、この席で報告するわけにはいかない。  経営会議の日に自販の最高首脳二人と会長の花井を自室に呼んで話すことも可能だが、あいにく加藤は八日からフィリピンへ出張、章一郎はジョージタウン大学国際戦略問題研究センター(CISI)の定例役員会に出席するため、同じ日の夕方に米国に出発する。  トヨタの最高首脳四人が揃うのは十五日の月曜日である。この日は名古屋で工販合併の調印式を行うことになっている。その時、三人の意見を聞きその後、工販の副社長と通産省に報告し、それから交渉団の人選を進めるとなれば、GMへの返事はどうしても月末にならざるを得ない。  だが英二が肚を固めしかも工販の最高首脳三人の意見を聞けば、二十日前にはGMに返事ができる。その後、ただちに提携合意書《レター・オブ・インテッド》の作成にとりかかり、桜の咲くころに合意書に調印すれば、四月早々に第一回の提携交渉のテーブルに着ける。ここで英二は決断した。 〈帰国後、なるべく早い機会に加藤、花井、章一郎の三人に相談し、新聞発表して提携交渉に入ろう〉  その英二の肚を見透かしたように、スミスが今後のスケジュールを提案した。 「GMとしてはトヨタから前向きな回答があれば、直ちに基本構想を盛り込んだ提携合意書を交わし、日米で同時発表したいと思っています」  むろん、英二に異論はない。 「私どもとしてはそれで結構です。そうした事態が一日も早く来るよう、我々も前向きに検討したいと思います」  トヨタとGMの世紀のトップ会談はここで終わった。スミスの言葉を借りると、この日の会談で合意したことは何もなかったが、二人の肚は完全に固まった。最後に二人は再び固い握手を交わし、右手で握りあった手に左手を添え二度、三度と上下に振った。世界最大の自動車メーカーと第二位の企業が、自らの生き残りを求めた「巨人たちの握手」であった。 [#改ページ]   第八章[#「第八章」はゴシック体] カリフォルニアの青い空 [#改ページ]     [1]  トヨタとGMのトップ会談は終わった。暖房の余熱もなくなり、出席者はその時初めて暖房が切れているのを話題にした。リンクス・クラブを出たのは十一時近くになっていたが、会長のスミスをはじめとするGM側の三人は深夜にもかかわらず、専用機でデトロイトへ帰った。  チャイは英二と柳沢の二人をホテルまで送り届け、自分もそのままホテルに泊まり翌朝、朝食もそこそこにカナダのディーラー大会に出発する豊田夫妻をニューヨーク郊外のラ・ガーディア空港まで見送った。英二は昨夜の会談に満足していた。リンクス・クラブからホテルに帰る車の中でも機嫌が良く、珍しく多弁になっていた。一夜明けても多弁はやまず、チャイはトップ会談が成功したことを確信した。  柳沢はトロント行きの飛行機の中で、英二から一枚のメモを渡された。メモは例によって箇条書きで、十項目にわたり昨夜のトップ会談の要点が記されてある。柳沢は会談の間、必死になって議事録用のメモを取っていたが、英二のメモはそれ以上に手際よく要点だけをまとめてある。 〈社長は昨夜は多少興奮して、眠れないまままとめたのであろう〉  柳沢は英二が年老いても記憶力が衰えない秘密は、その日のうちに自分の頭の中で整理し、メモにして残しておくことにあると推測した。  提携に向けてのボールはスミスが投げ、今、豊田英二の手の内にある。このボールを投げ返してこない限り、GMとしては動けない。また動く必要もない。独禁法、UAW、議会のいずれの対策を取り上げても、GMが合意以前に公表しても何の利益にもならない。  英二は予定通り、二日の午前中にトロントに入り、前夜ニューヨークでスミスとトップ会談に臨んだことはおくびにも出さず、カナダ・オンタリオ州のディーラー大会に出席した。カナダも米国同様、日本製乗用車の輸入規制に踏み切っており、英二はディーラーのトップを前に「乗用車の落ち込み分は小型トラックの増販で補ってほしい」と檄《げき》を飛ばした。  その頃トヨタ自販常務の神尾秀雄はジュネーブにおり、英ファイナンシャル・タイムズが主催する世界自動車会議に出席していた。この会議にはクライスラー会長のアイアコッカも神尾と同じくゲストスピーカーとして招かれ、「クライスラーが生き残るためには将来、他のメーカーと合併せざるを得ない」との持論をぶっていた。  アイアコッカはクライスラーが経営不振に陥る直前、自ら「グランド・デザイン」と名づけた世界規模での業界再編成のシナリオを描き、第一弾として西独フォルクスワーゲン《VW》との合併を画策した。  水面下での交渉はアイアコッカとVW社長のシュミュッカーのトップ会談から事務ベースまで含めると、会談時間は何百時間にも及んだ。一時は調印寸前までこぎつけたが、その直後に第二次石油ショックが発生、クライスラーの経営不振が一気に表面化し、VWが合併に二の足を踏んだことからあっけなく白紙還元してしまった。欧米の巨人たちは儀礼的な握手をしただけで別れてしまったのである。  米国政府のクライスラー再建委員会のメンバーには、クライスラーを清算会社として残し事業部門をGMに吸収してもらい、GMの一部門として発足させ健全な経営状態に戻り次第、情勢に応じて再び分離させる案を真剣に考えている者もいた。  クライスラーとともに経営不振にあえいでいるフォードは、GMとトヨタのトップ会談が開かれる前日、二月二十八日の深夜になってUAWとの労働協約改定交渉をまとめ上げ、正式調印にこぎつけた。  合意内容は基本賃金の凍結と有給休暇の返上である。フォードはその見返りとして、㈰部品外注に伴う工場閉鎖を今後二年間しない㈪社歴十五年以上の時給労働者のレイオフ(一時解雇)に際しては、基本賃金の半額を保証する──の二点を約束した。三月一日から実施し、有効期間は八四年九月までである。フォードはこの三十一カ月の間に十億ドルの人件費を節約出来る。  スミスと英二がリンクス・クラブで提携に向け話し合っていたほぼ同じ時刻。三月二日の東京株式市場の株価は、市場が開くと同時に下げ続け、今年に入って最大の下げ幅を記録、日経ダウ平均はあっさり七千四百円を割り込んでしまった。暴落の直接の原因はこの日発売された米国の週刊誌、ニューズウィークが「米経済、大不況に突入か」というショッキングな特集を組み、これをきっかけにまず一日のニューヨークダウが下落、東京市場もこれに敏感に反応したのである。  ワシントンでは二日に米下院エネルギー・商業委員会の商業・運輸・観光小委員会の公聴会が開かれ、前夜ニューヨークでGM、トヨタの巨人たちが握手したことを知らずに、海外自動車メーカーに対するローカルコンテント法案(自動車生産公正行動法案)を巡り、激しい論戦を戦わせていた。  公聴会では提案者のオッテンジャー議員が法案提出の趣旨を説明、続いて委員会のメンバーで法案の共同提案者でもあるミカルスキー議員が、絶叫調で米自動車産業の危機を訴え、証言者に法案への同調を迫った。  証人として出席したUAW会長のダグラス・フレーザーは「この法案が成立すれば八万人の雇用が確保される」として賛同したものの、USTR(米通商代表部)の次席代表マクドナルドは「外国メーカーに米国部品を義務づけるやり方はレーガン政権の通商政策に反するだけでなく、ガット(関税貿易一般協定)の規約に抵触する」と反対した。  法案は下院ですでに百人の賛同者を得ていたが、米国政府関係者が反対の姿勢を示したことで、今後の審議が微妙になってきた。その一方で、同じ日に民主党のディンゲル下院議員と共和党のヒリス議員が共同で日本車を含む輸入車の台数を米国市場の一〇%に制限する輸入車規制法案を下院に提出した。  下院の公聴会は三日も開かれ、今度はUSTRのブロック代表が出席して、「部門別の相互主義法案には反対だが、包括的相互主義を推進していく」ことを明らかにした。マクドナルド次席代表もその日の会見で「日米貿易問題解決のため日本側が六月のパリ・サミット(先進国首脳会議)までに包括的な対応策を打ち出さなければ、ガットに提訴する」と発言した。  三月二十日には桜内外相が訪米して、ワシントンで日米外相会談が予定されている。米国政府の建て前はあくまで保護主義に反対だが、本音は日本側から市場開放策を含め、摩擦解消に向けての対応策を出させることにある。  日本政府は外相会談までに何らかの対応策を出さなければ、パリ・サミットで袋叩きにあうのを覚悟しなければならない。政府はサミットの前の五月に鈴木首相とレーガン大統領との日米首脳会談を密かに計画しているが、手ぶらで鈴木首相を米国に送り出すわけにはいかない。  UAWが、最優先としなければならないのは雇用の確保である。そこでフォードとの交渉妥協を受け五日になって、GMとの労働協約交渉を再開することを決めた。正式には十一日にGMの組合代議員大会を開いて決めるが、再開の方針は非公式に会社側に通告している。  GMは一月末にUAWとの交渉が決裂して以来、すでに七カ所の工場閉鎖を発表している。第一弾として西海岸のサウスゲート工場は予定通り五日に閉鎖した。GMのすさまじいばかりの工場閉鎖旋風に驚いたのがUAWである。当然、交渉が再開されてもGMの提案内容は前回より厳しくなることが予想された。  豊田英二はトロントでのディーラー大会が終わると、バンクーバー経由のカナディアン航空で帰国の途についた。カナダにいる時もスミスとの四時間に及ぶ会談の中身を、一つ一つ思い出し、整理したメモを見ながらGM提携がトヨタにとってどういうメリットがあるかを計算していた。  日本が近づくにつれトップ会談の興奮がこみあげ、それを抑えるため後ろの席にいる柳沢に向かって、眼下のアリューシャン列島を指しながら得意の地勢学を披露して気を紛らわしていた。     [2]  トヨタとGMのトップが確認し合った今後のスケジュールは、豊田英二が帰国次第、まず自工会長の花井正八、自販会長の加藤誠之、それに自販社長の豊田章一郎の三人にスミスとの会談を報告し、異存がない場合にはGMに提携の意思を表明し、それを踏まえて双方で提携合意書を交わし日米で同時に発表、その後具体的な提携交渉に入る──というものだった。  だが現実には往々にして当事者たちの思惑を超え、意外なほど早いスピードで走り出す。英二とロジャー・スミスのトップ会談が実現する過程もそうであったが、「握手」以降の展開もまた、それに劣らず予期せぬ展開を見せる。  豊田英二夫妻と柳沢の三人が一週間の慌ただしい旅を終え、成田空港の土を踏んだのは三月六日土曜日の夜である。  それから二日後の三月八日午前三時過ぎ。東京・神宮前にある通産省機械情報産業局長、豊島格の自宅玄関のベルがけたたましく鳴った。日米貿易摩擦が激化して以来、豊島の自宅には毎夜、新聞記者が訪れるが、さすがに日曜日はよほどのことがない限り、訪れる者はいない。八日は月曜日で、しかも真夜中の午前三時を回っている。夜回りにしては遅すぎるし、朝駆けにしては早すぎる。  豊島は眠い目を擦りながら、パジャマの上に毛糸のセーターを羽織り玄関に出た。外には案の定というべきか、顔見知りの日本経済新聞記者がおり、豊島が用件を聞く前に「今日付の朝刊です。読んでおいてください」と言っただけで、暗闇の中に去って行った。インクのにおいの残った新聞は二つに折られている。豊島はその新聞を開いた途端、眠気が一瞬にして吹き飛んだ。  最初に飛び込んできたのが「トヨタ・GM提携交渉」という、横見出しに黒地に白抜きの大きな活字である。その下に「ニューヨークでトップ会談」とある。五段の縦見出しは「米国内で共同生産」「トヨタ小型車、年五〇万台」「月内にも合意書、世界寡占体制に拍車」とある。  豊島は見出しに目を通した後、本文をむさぼるように読んだ。前文は次のように書かれてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    世界最大の自動車メーカー、米GM《ゼネラル・モーターズ》のロジャー・スミス会長と日本最大手トヨタ自動車工業の豊田英二社長は、今月初めニューヨークでひそかに会い、両社が米国内で小型乗用車を共同生産することについて話し合いを始めた。会談内容は明らかにされていないが、共同生産の叩き台はGM側から示され、それを巡って突っ込んだ話し合いをしたといわれる。米国に合弁会社を設立し、トヨタの開発した小型乗用車をGMの遊休工場を活用し、年間五十万台規模で生産する案が有力である。    提携の意思が確認され次第、合意書《レター・オブ・インテッド》を交わし、その後、具体的な計画を詰める。GM─トヨタという世界を代表する二大メーカーの提携は、いわば国際自動車再編成の決定打ともなる動きであり、これを機に自動車業界は世界的にも一段と寡占体制を強めることになろう。両社の提携実現には独禁法などの制約も予想されるが、日米産業協力の形でトヨタが念願の対米進出を果たすことは、米国政府から劇的な措置を迫られている日米間の緊張緩和のために有力な材料になることは間違いない。 [#ここで字下げ終わり]  そして本文にはこれまでの経緯と狙いをかいつまんで書いてある。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    GMとトヨタの提携は昨年十二月、トヨタ自動車販売の加藤誠之会長が訪米した際、デトロイトのGM本社にスミス会長を表敬訪問し、提携を打診したのが発端。このほど開いたGM、トヨタのトップ会談はカナダのディーラー大会に出席する豊田社長がその直前にスミス会長を訪れる形で実現した。    両社はトップ会談の結果をそれぞれ持ち帰り、社内で再検討し、提携の意思が確認されしだい月内にも提携の基本構想を盛り込んだ合意書を交わす段取りになっている。その後、合弁会社の資本構成、生産車種、工場、生産開始時期など提携の具体化に向けて本格的な交渉を開始する。    トヨタがここへきてGMとの提携交渉に入るのは、米自動車産業の不況が長引き、対米輸出抑制の長期化が予想され、米国内生産は避けられないという判断からだ。だが単独進出は「品質とコストに自信が持てない」(豊田社長)ことから依然としてメドが立たず、米フォードとの共同生産構想も利害がかみ合わないまま早々と挫折してしまった。この意味でGMとの提携はトヨタにとって対米進出の最後の切り札となる。またGMとの共同生産は米自動車産業再生への日米産業協力のモデルケースになることから、トヨタ、さらに日本政府としても前向きの姿勢で臨み、実現する公算が大きい。    一方、GMは米ビッグスリーの中ではいち早く小型車開発に取り組んだものの、昨年五月、鳴り物入りで発売したワールドカーの第一弾、『Jカー』(排気量千八百cc)は前評判と裏腹に不振で、小型車戦略の見直しを迫られている。すでに千ccクラスの『Sカー』については米国内生産を断念、千─千三百ccミニカーについては日本の資本提携先のいすゞ自動車、鈴木自動車工業の二社から完成車の形で輸入することになっており、GMとしては小型車戦略を日本の自動車メーカーを全面的に組み込んだ形で展開する決意を固めたといえよう。    GMはトヨタとの共同生産車種として、ミニカーとJカーの間の排気量千六百cc前後のFF(前部エンジン、前輪駆動)式小型車を想定している模様。生産規模は米国で一万一千店のディーラーを抱えるGMの販売力から見て、年産五十万台前後と見られている。共同生産の工場は、エンジンなど主要部品を日本から持ち込むとすれば、今月五日に無期限閉鎖したカリフォルニア州の『サウスゲート工場』(Jカーを生産)など西海岸地区の遊休工場が有力視される。逆に米国での部品調達率が高ければ五大湖周辺の工場が浮上しよう。    GM、トヨタが提携を実現させるうえで米独禁法が最大の壁になることは間違いない。この点、両社とも今後の交渉では独禁法に抵触しない範囲での提携を模索せざるを得ない。両社とも対等の精神による共同生産を目指しているが、独禁法とのからみで両社提携の内容が変わってくる可能性もある。 [#ここで字下げ終わり]  新聞記事はここで終わっている。見出しを見た時は「まさか」という気持ちが強かったが、読んでいくうちにここまで書き込んであれば、真実であることを認めざるを得ない。豊島は何度も読み返し、朝になるのを待ち切れず電話の受話器を持ち上げた。  最初にダイヤルを回したのが安倍通産相の自宅である。日本経済新聞にトヨタとGMの提携の記事が載っていることを報告し、「事実関係を早急に確かめる」ことを約束して、次に通産省OBでトヨタ自工副社長山本重信の名古屋の自宅に電話を入れた。  むろん山本の自宅にはまだ新聞が届いておらず、豊島が読み上げてやった。山本にとっても「寝耳に水」の出来事である。今度は山本が豊島に事実関係を確かめることを約束して電話を切った。その頃になってようやく夜が明け初め、豊島の自宅に新聞が配達された。  三月八日早朝の豊田市竹町谷間。前日までは春を思わせる暖かさだったが、この日は再び冬型の気圧配置に戻り、空気は澄み切っていた。英二は新聞記者がいくら夜討ち朝駆けをかけても自宅では絶対に会わない。その朝、大勢の新聞記者はそれを承知で英二の自宅につめかけた。英二が自宅の玄関から出てくるのを待ち構えるしかGM提携のニュースを確認する手段がないからである。  英二は朝は用事がない限り、新車の試運転を兼ね自らハンドルを握って出社する。時計が八時を回ると玄関の戸を開け、待ち受ける新聞記者の前に悠然と姿を現した。 「(GMとの提携交渉が)新聞に出ているね。まだまだ(これからの問題)だよ」  英二は新聞を片手に庭先で即席の記者会見ににこやかに応じ、事実上、新聞報道を認め、通勤用に使っている真っ赤なセリカに乗り込んで、トヨタ自工本社に向かった。  それより先、豊橋市郊外の旧国道一号線沿いの旧家に住む会長の花井正八の自宅にも新聞記者が押し寄せたが、花井は「私は何も知らんよ」と軽く一蹴、迎えのセンチュリーに乗り込んだ。事実、花井は英二からはまだ報告を受けておらず、会談が成功したのか失敗したのか知らない。  マスコミへの対応が仕事の広報マンは、多少うんざりした表情で出社した。トヨタの対米進出はこの一年間、新聞・雑誌に書きまくられ、その都度否定声明を出すといういたちごっこを繰り返している。今回も「またか……」と重い足取りで会社へ出てきた。  案の定、英二を迎えたトヨタ自工社内は、蜂の巣を突っついたような大騒ぎとなっていた。広報部の電話はマスコミ各社からの問い合わせで鳴りっ放し。秘書室にも通産省や取引銀行から問い合わせが殺到した。しかし、トップからは何の指示もないので手の打ちようがない。自工は午前中に常務会と専務以上が出席する経営会議を予定していたが、常務会は急遽取りやめとなった。  ライバル日産自動車社長の石原俊は東京・高輪白金の自宅に朝駆けに来た新聞記者に事実関係を確認すると、東銀座の本社ではなく、芝公園近くの慈恵医大病院に直行した。血圧が異常に高くなったためだ。  その後、石原は日本自動車工業会の会長として「貿易摩擦が高まっているおり、両社の提携交渉はタイミングも良いし、摩擦緩和の効果も大きい」という当たり障りのないコメントを出した。ただ肚の中では「両社の提携が米国内にとどまるのならそれほど脅威ではないが、提携範囲が世界に広がれば手の打ちようがない」と世界一位と二位メーカーの結び付きに恐怖を感じた。  すでにGMと資本提携しているいすゞ社長の岡本利雄は、複雑な思いで八日の朝を迎えた。トヨタとGMのトップ会談が開かれることは一月には知っていたが、あえて異論を唱えなかった。いすゞ一社で世界の自動車業界の流れを変えることが出来ないことを熟知しているからだ。  岡本がいつもより早目に大田区雪谷の自宅を出て、大森の本社社長室に主な役員を集めて体制固めをやっている頃、岡本の斡旋でGMグループ入りしたスズキ社長の鈴木修がおっとり刀で駆けつけてきた。  修は岡本からの説明である程度納得したのか、「今回のことはうちとGMの提携に直接関係ありせんよ」という言葉を残して成田空港に向かった。修は九日にデトロイトで、GM会長のスミスと小型車『Mカー』の供給について話し合うことになっている。八日の朝はその挨拶を兼ね岡本を訪ねたのである。  伊藤忠のライバルで、総合商社の中では同じ旧三井財閥の二木会のメンバーとして最もトヨタに近い三井物産会長の池田芳蔵は新聞を見て�しまった�と思った。 「あの種の国際提携は本来であれば、三井物産が仲介しなければならない」  この時、池田は提携の黒子として伊藤忠の社員が動いているのを知らなかったが、八日朝の悔しさは忘れることができず、一カ月後、自らの会長退任に際し社内テレビでトヨタ・GMの提携劇を引き合いに出し、物産マンの奮起を促して経営の表舞台から去った。     [3]  チャイは現地時間の日曜日の午後三時半、日本時間の午前五時半にいすゞ自動車企画部次長の関和平からの電話でトヨタとGMの提携交渉が日本の新聞で報道されたことを知らされた。関には全文読み上げてもらい、直ちにデトロイトのジャック・スミスの自宅に電話を入れ、一日のトップ会談が日本の新聞にすっぱ抜かれたことを報告、善後策を協議した。  そうこうするうち東京の伊藤忠の本社から新聞のコピーがファックスで送られてきた。それに目を通した後、いすゞ社長の岡本の自宅に電話を入れた。チャイは新聞を見て岡本の体が悪くなることを心配したが、思ったより冷静だったので一安心した。浜松の鈴木修の自宅にも電話を入れたが、東京出張中でつながらず、ニューヨークの自宅に電話をくれるよう伝言を残した。  トヨタ自販北米部長の柳沢は朝から何度かチャイに電話をしているが、いつも話し中でイライラしていた。電話がつながったのは日本時間の九時近くになってからである。柳沢は開口一番「今日の新聞報道はGMから漏れたのですか」と尋ねた。チャイは「私たちが今しなければならないのは、どういう経緯で新聞に出たかを詮議するよりも、これからの対策を立てるのが先決ではないのですか」と柳沢を諭した。  トヨタ自工は、九時から経営会議を開き、その席で英二が簡単にGMスミス会長との会談を報告、副社長の山本重信が電話で通産省に説明し、その間にマスコミに配布する声明書を作成することになった。英二はすでに自宅から東京にいるトヨタ自販会長の加藤と社長の章一郎に電話して、了承を得ている。  機情局長の豊島は山本から電話でトヨタとGMの提携交渉開始を確認すると、その足で大臣室に飛び込み、安倍通産相に事実関係を報告した。安倍の機嫌は決して悪くなかった。事務次官の藤原一郎はトヨタから正式な連絡がある前の朝の定例記者会見で「(両社の提携)交渉が順調に進むことを期待する。ただ提携の方法によっては米独禁法上の問題が出る」と語り、すでに両社の提携交渉を既定の事実として受け止めていた。  柳沢から再びチャイのところへ電話があったのは一時間後である。トヨタが作成した声明書の下書きを聞きながら、チャイは「トヨタは実質的にGMの提案を受け入れた」ことを確信した。トヨタが作成した声明文の素案を多少手直しして、英文に直し、「GMと協議するので、少し時間がほしい」と言って電話を切った。  声明書はトヨタが一方的に出すわけにはいかない。あと数時間もすれば米国でも大騒ぎになる。今度は米国のマスコミがGMに殺到する。GMとしても声明書を出さざるを得ない。チャイがジャック・スミスに連絡し、会長のスミスの了解を得てトヨタに返事したのは、日本時間の十一時を回っていた。  この間、トヨタの広報はマスコミ各社からの問い合わせに「何しろ相手があるので、もう少し待って下さい」と汗だくで対応していた。声明書が出たのは夕刊の早版が刷り上がる昼前である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   トヨタの声明    トヨタ自動車工業の豊田英二社長は三月一日、ニューヨークにてGMのロジャー・スミス会長と面談した。両社は米国における小型車の生産協力についても話し合った。内容については両社(トヨタ・GM)でそれぞれ、検討することを約束した。    その内容は発表出来る段階ではない。 [#ここで字下げ終わり]     トヨタ自動車工業 トヨタ自動車販売  同じ時間にGMも声明書を出した。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   GMの声明    ロジャー・スミスGM会長とトヨタ自動車工業の豊田英二社長は先週、ニューヨークで会い、米国内で小型車を生産することに関して、両社の間で取り決めの可能性について話し合った。両社はさらに話し合いを深めることで合意した。 [#ここで字下げ終わり]     ゼネラル・モーターズ  午後になりトヨタ自工の東京駐在専務の小野博康が豊田市から急遽、東京に戻り通産省を訪れ、正式にGMとの提携交渉開始を報告した。小野が新装なった小石川・後楽園のトヨタ自工東京支社に帰った頃には、すでに夕刊が配達されていた。殆どの新聞が一面トップでトヨタとGMの提携交渉のニュースを後追いしていた。  夕方に通産省の大臣室で通産相と新聞記者の懇談会があり、安倍は夕刊を前に上機嫌で語った。 「トヨタとGMの提携交渉の話は、大変結構なことだ。対米乗用車輸出自主規制の二年度目の台数を決めるより効果が大きい。日本の新聞がこれだけ書きまくれば、米国に対するPR効果も絶大だ。近くトヨタ首脳に会い、内容をよく聞いてみたい。ただ現時点では米国の独禁法以前の段階だろう。トヨタからは『GMから生産協力があった』と聞いている。独禁法についてはGMはそれなりの成算があるのだろう。本当は豊田英二社長をここ(大臣室)に呼んで、劇的な効果を狙いたかった。舞台は用意してあったのに……。とにかく明るい話題だ。トヨタも単独進出より、この方が出やすいのだろう」  トヨタ自販常務の神尾はこの日、ジュネーブで開かれた世界自動車会議を終えパリに移動した。新聞に報道された直後に柳沢からトップ会談の報告を受け、その日の午後、仏外務省に挨拶に行ったが、相手の高官から「トヨタとGMが提携するというのは本当か」という類いの質問攻めにあった。神尾が「本当だ」と答えると、誰もが「信じられない」という顔つきをした。  日本の自動車業界を震撼させた「長い一日」が終わろうとしていたころ、米国は月曜の朝を迎え、ABC、CBS、NBCのテレビの三大ネットが東京発のビッグニュースを流し始め、衝撃は全世界に広がり始めた。  GMのライバルでかつてトヨタと共同生産の交渉をしたことのあるフォードは、「一切論評をしない」というコメントを出した。フォードの真意は、「論評をしない」というより不快感のあまり「論評をしたくない」ということであっただろう。  フォードは海外展開ではGMに先行しているが、米国内では大きく水を開けられている。米国で、そして海外でGMとトヨタに手を組まれたら、日産同様手も足も出なくなる。  日本では同業他社は別にして、安倍の懇談会の席での発言に代表されるように、今回の提携劇は摩擦解消に役立つとの観点からおおむね好意的に受け止められた。翌日の各紙の社説も「成功させたいトヨタ・GM提携」(読売)、「トヨタ、GM提携を歓迎」(サンケイ)、「トヨタ、GM提携の戦略的意味」(日経)、「トヨタ・GM提携交渉がはらむ問題」(朝日)といった具合である。  好意的な見方の前提にあるのは「トヨタは二度と同じ過ちを犯さないだろう」という東洋的な発想である。ところが米国では日本とは全く逆の反応が出た。米国の新聞を代表するニューヨーク・タイムズは、「トヨタは日米貿易摩擦が厳しい折から、時間稼ぎのためにGMとの提携交渉に入ったのではないか」との懐疑的な見解を示した。  もっと辛辣なのはワシントン・ポストの報道である。「両社の提携交渉は人を元気づける出来事ではない。両社とも批判を和らげるための素振りを見せているだけであって、長期にわたって多額の資金をこの共同生産に投資したいとは思っていないという兆候がある」。  米自動車産業のアナリストも「トヨタの例の手がまた始まった」とか「GMはトヨタの罠にはまった」と酷評する者もいた。  マスコミの評価はともかく、GMもトヨタも今回の合弁事業は「伸《の》るか反《そ》るか」の大事業であることは十分承知している。トヨタは今回の提携交渉に失敗すれば、対米進出は夢のまた夢に終わってしまう。GMも日本の資本提携先企業の二社を頼りにしてはいるものの、米国で共同戦線を組むには企業規模が余りにも違い過ぎる。トヨタ提携がGM再生のカギを握っている。  トヨタとGMは、ことビジネスに関しては利害が一致する。しかし独禁法がある限り、どっぷりとつかることは出来ない。  GMは会長のスミスが強い危機感を持っているものの、大半の従業員は依然として「自動車産業の中心は永遠にデトロイト」と思っている会社である。反対にトヨタは「自動車の中心はデトロイトから三河に移った」と思っている会社である。両社に共通しているのは「巨大な田舎会社」であることである。総論で利害が一致しても、各論に入ればエゴがむき出しになるだろう。  チャイは米国時間の三月七日の午後、いすゞの関から電話がきてから、ほぼ丸一日一睡もせず、電話で話し続け、その合間にトヨタとGMの提携を報じた日米の新聞に眼を凝らしていた。そして自信ありげに自分にいい聞かせた。 〈巨人たちは間違いなく自分たちの意思で握手した。しかし儀礼的に握手しただけでは提携は実現しない。交渉をまとめ合弁事業をスタートさせるには、独禁法をはじめとする山のような問題を一つ一つ解決していかなければならない。気の遠くなる作業であるが、両社の利害を調整して、合弁工場の開所式で、再び巨人たちを握手させなければ、世界の自動車産業の流れは変わらない。それを出来るのは自分以外にない……〉     [4]  GM会長のロジャー・スミスとトヨタ自動車販売会長の加藤誠之がデトロイトで会い、トヨタとGMの巨大提携の端緒を開いてから一年後の一九八二年(昭和五十七年)十二月半ば過ぎの某日──。冬至《とうじ》が間近に迫った東京の西の空は、午後四時を過ぎると夕焼けで真っ赤になり、四時半を回ると暗闇が押し寄せる。それを待ち兼ねたように渋谷区広尾の日赤病院裏手にある住友銀行の迎賓館「住友広尾荘」に、長身でやや神経質そうな顔をした一人の外国人ビジネスマンが大型車の「フォード・リンカーン」で乗りつけた。広尾荘は三階に車寄せと正面玄関のある五階建ての高級マンション風の建物である。普通のマンションと変わっている点といえば建物の一角に交番があることである。  玄関先まで出迎えたのは頭取の磯田一郎とこの年の一月に専務から副頭取に昇格した巽外夫である。長身の外国人はまず磯田と、続いて巽と握手を交わした後、勝手知ったる我が家に来たかのようにつかつかと応接間に入った。そこには若い時分にスポーツで鍛えたことがすぐ分かるがっしりした体躯、背丈も外国人にひけをとらないほどの大男が待ち受けていた。  磯田はおもむろに男に向かって話しかけた。 「石原さん。ご存じでしょうが、こちらがフォード社長のピーターセンさんです」  ピーターセンに紹介されたのは日産自動車社長の石原俊である。そして二人は磯田と巽の目の前で握手を交わした。  四人は応接間での話もそこそこにダイニング・ルームに移り、食事をはさんで真剣な表情で話し合いに入った。ピーターセンは一九八〇年(昭和五十五年)六月にトヨタとの提携交渉のため来日して以来、二年半ぶりの日本だが今回も前回と同じようにお忍びの来日である。会談の目的は事前に住銀が石原に知らせてある。  マツダとフォードの資本提携を画策したのは紛れもなく磯田だが、アイデアを出し実務面を仕切ったのが巽である。一九七九年(昭和五十四年)二月に磯田がデトロイトを訪れ、当時会長だったヘンリー・フォード二世と資本提携に向けて最後の会談をした際、フォード二世が出した条件はたった一つ。 「巽さんが将来にわたり、マツダの経営に目を配ってくれるという条件なら、資本参加します。それでなければ……」  むろん磯田は無条件でこれを呑んだ。それほど巽はフォード二世に信頼されていた。ピーターセンと石原を会わせようとしたのもむろん巽のアイデアである。  新聞報道によるとこの時期、GMとトヨタの提携交渉は暗礁に乗り上げていた。しかし巽は直感的に「この組み合わせは、最終的に実現する」と読んでいた。巨大提携が実現すれば、窮地に追い込まれるのがフォードである。  巽が心配しているのはフォードの経営悪化もさることながら、マツダの将来である。万が一、GM・トヨタの連合軍の前にフォードが屈するようなことがあれば、マツダの将来性はない。といってフォード単独では巨大連合には対抗出来ない。巽の考えは「巨大提携には巨大提携で対抗する以外にない。小異を捨て大同につく」ということである。そうなるとフォードの相手は日産しかない。  問題は提携の中身である。日産はすでにテネシー州スマナーに小型トラック工場を建設、同じラインに小型乗用車の「セントラ」(日本名、サニー)を流すことを検討していた。どうみてもフォードと日産の間で乗用車を共同生産するのは無理である。  日産が乗りやすくしかもフォードと競合しない車となれば限られる。巽が共同生産車として提案したのは、トヨタとの提携交渉で白紙還元した多目的車のミニバンである。フォードはトヨタとの交渉の際に、徹底的にミニバンの市場調査を行い「将来有望」との感触を得ていたが、いかんせん業績が低迷し資金が枯渇して開発まで手が回らない。マツダもミニバンの開発には消極的である。たとえ両社が共同で開発し、米国で共同生産しても世界の自動車業界の流れを変えることは出来ない。一方、日産にはこの年の八月に発売したばかりの六人乗りのミニバン『プレーリー』がある。巽の狙いはフォードと日産を結びつけることであり、ミニバンはその手段に過ぎない。  住銀を仲介役としたフォードと日産のトップ会談では、米国で両社がミニバンの共同生産を模索することで基本合意、日産のプレーリーを叩き台に提携交渉に入ることになった。  米国のマスコミから「トヨタはまた例の手を使った」と酷評されたトヨタとGMの提携交渉の第一回目は、四月十四日から三日間の予定で豊田市のトヨタ自工本社で始まった。  GMの交渉責任者は二月一日付でワールド・ワイド・プロダクト・プランニング・マネジャーに就任したジャック・スミスである。交渉団は顧問弁護士を含め総勢十人。この中には米国伊藤忠の副社長であるJ・W・チャイも入っていた。チャイが交渉に出る時のGMでの肩書きはストラテジ・アドバイザー、「戦略補佐官」である。  トヨタ側の責任者は生産担当副社長の森田俊夫で経理、法務などの担当役員がその下についた。  共同生産の大枠は三月のトップ会談の席上、スミスがプロポーザルの形で出している。交渉はこれをベースに進められ、一回目の話し合いで早くも共同生産車種は、『カローラ』の姉妹車である『スプリンター』をベースにした排気量千六百ccの小型車にすることを決めた。  交渉は豊田市、デトロイト、サンフランシスコと場所を移しながら月一回のペースで進められ、秋を待たずに生産は西海岸のフレモント工場、スタート時の生産規模は年産二十万台、合弁形態は両社の折半出資とするなど共同生産の骨子が次々と決まった。秋口にはロジャー・スミスをして「トヨタとの共同生産構想は九〇%固まった」と言わしめるほど順調に進んだ。  ただしこの種の交渉で難しいのが、残りの一〇%である。案の定、大詰めの段階にさしかかり、GMが提供するフレモント工場の資産評価額を巡り、両社の利害が真っ向から対立した。七億ドルを主張するGMと一億ドル以下に値切ろうとするトヨタとの評価額があまりにも離れ過ぎ、トヨタ社内には「工場の評価額がトヨタが主張する線で歩み寄りがみられなければ、決裂もやむなし」という強硬意見が出始めた。  事務ベースでの交渉は、工場の評価額以外でも大詰めの段階で利害が対立した。こうした中で活躍したのがGMの交渉団の一員となったチャイである。交渉が暗礁に乗り上げるたび水面下で独自のルートを使い、両社の交渉責任者と本音ベースで話し合い、「トヨタに対してはGMの一員として、GMに対してはトヨタの立場を代弁して」という最初の信念を貫き、肩書きと立場を離れ、中立を保つことで何とか両社を歩み寄らせようと腐心していた。  この年の七月、工販合弁を機に新生トヨタの会長に退いた豊田英二は、三月のトップ会談以降、実務ベースの交渉には一切口を挟まなかった。英二が例外的に口を出したのが、社内の空気が決裂に傾きかけた晩秋である。 「交渉がまとまらなければ、決裂もやむを得ないだろう。といって対米進出は避けられない。君たちは今GMとの交渉を白紙に戻し、単独で進出する自信があるのか。一時の感情で決裂の方針を私に進言してきても、会長にはそれを拒否する権利がある。交渉というのは粘り強く進めるものだ」と社内の強硬派を諭した。  交渉団はこの一言で、英二のGM提携にかける姿勢が不退転であることを察知した。英二は難局を打開するため、副会長の山本重信を使者にたてスミス宛てに親書をしたため、これに応える形でスミスも譲歩案を提示したことで、工場の評価額でも両社に急速に歩み寄りがみられた。  交渉は紆余曲折を経て年明け早々、基本合意に達し、一九八三年(昭和五十八年)二月十四日、両社はそれぞれの役員会で合弁計画を了承した。  合弁事業の内容は、㈰折半出資で資本金二億ドルの合弁会社を設立する㈪生産車種はトヨタが開発したFF(前置きエンジン、前輪駆動)、排気量千六百cc級のカローラ姉妹車をベースにした車で、年産二十万台とする㈫生産場所はカリフォルニア州にあるGMの遊休工場のフレモント工場を合弁会社が買い上げる㈬八四年後半から生産を始め、全量GMのシボレー部門で『シボレー・ノバ』の名前で販売する㈭提携期間は最長十二年とする──などである。  住銀がフォード社長のピーターセンを日本に呼んで日産社長の石原に会わせ、ミニバンの共同生産を提案したのは、まさにGMとトヨタの交渉が暗礁に乗り上げていた時期である。しかし皮肉なことにこの会談がその後のフォードの行動を縛り、結果的にトヨタ・GMの提携を前進させることになった。  トヨタとGMは役員会が計画を了承した四日後の二月十八日、GM会長のロジャー・スミスと豊田英二が生産予定地のフレモント工場で提携合意書の調印式を行った。両社は直ちに正式の申請書の作成にとりかかり、提携覚書、計画案、会社経歴書などを添え、四月四日に連邦取引委員会《FTC》に「事前届け出」を提出した。  両社の合弁計画はFTCの審査に委ねられることになったが、クライスラー会長のアイアコッカはこれを待ちかねていたように、FTCに合弁計画に反対する意見書を提出した。  フォードも副社長のマッキャモンが下院のローカルコンテント法案に関する公聴会で「両社の計画は独禁法に明確に違反する」として、FTCが計画を阻止するよう要請した。  アイアコッカは「FTCが阻止しなければ、独自に独禁法違反で裁判所に提訴する」と吠えたてたが、フォードは結局FTCに意見書も出さず一応、「巨大企業の共同生産には反対」という声明を出すにとどまった。フォードとしては日産とミニバンの共同生産交渉に入ったばかりであり、ここでクライスラーに同調すれば、「明日は我が身」になるのを恐れたのである。  通常、FTCの審決は二カ月程度で出るが、FTCは業界および世間の反対の声を配慮してか、慎重に審議を重ねた。両社に相次ぎ追加資料を求め、水面下の段階から交渉に携わってきた北米部長の柳沢などは、手帳からメモに至るまで資料をごっそり持って行かれた。  FTCは年末になってようやく同意審決案を提示、両社はこれをあっさり受け入れたことから、FTCは十二月二十三日のクリスマス・イブの前日に九項目からなる同意審決を三対二で暫定的に採択した。 「この合弁計画は競争を制限する可能性よりも、競争力のある小型車を米国で生産することで米国民にもたらす利益の方が大きいと判断する」  FTC委員長のミラーの発言である。世界一厳しい独禁法の番人である米の司法当局は「巨大提携は米国の消費者の利益に適う」との判断を下したのである。  両社は直ちに新会社、「ニュー・ユナイテッド・モーター・マニファクチャリング」(NUMMI)を設立、初代社長にはトヨタ社長の豊田章一郎の実弟、常務の豊田達郎を起用することを決めた。社名は一九一八年にGMに合併された「ユナイテッド・モーターズ」に因《ちな》んで付けられた。ユナイテッド・モーターズはGMに吸収されたが、ニュー・ユナイテッド・モーターはGMから分離・独立したのである。  クライスラーは依然、強硬姿勢を崩さず年明け早々、「GMとトヨタの合弁計画は独禁法に違反する」としてワシントン連邦地裁に中止を求める訴訟を起こした。自動車業界ではフォードもこれに同調すると見ていたが、遂にフォードは動かなかった。正確にいえば動くに動けなかったのである。     [5]  一九八四年(昭和五十九年)は年明けから異常な天気が続いた。日本列島は異常寒波ですっぽり覆われ、東京は二月と三月に記録的な大雪が降り、四月に入っても低温の日が続いた。例年なら三月半ば過ぎに桜の開花予想が出されるが、この年は四月になっても蕾は膨らまず気象庁を慌てさせた。東京で桜の開花宣言が出されたのは、気象庁の観測史上最も遅い四月十二日であった。  東京に桜の開花宣言が出された日、FTCはワシントンで本委員会を開き、トヨタとGMの合弁計画を最終承認した。それから一週間後の十九日の朝、GM会長のスミスは夫人のバーバラを伴って桜が満開のトヨタ本社を訪問した。バーバラはかつてGMの広報部に勤務しており、二人は大恋愛の末結ばれた仲である。スミス夫妻にはマコーミックに代わってアジア・アフリカ担当副社長に就任したバートン・ブラウンとジェイ・W・チャイ、GMOC《オーバーシーズ・コーポレーション》執行副社長のヘンリー・レナードが随行した。トヨタ会館のVIP玄関には会長の英二、社長の章一郎以下の主だった役員が出迎え、直ちに今後の合弁事業などについてトヨタ首脳と話し合いに入った。午後はフレモント工場のモデルとなる高岡工場を見学、夜は夫人同伴の会食に臨み親交を深めた。  スミスは翌日、東京の日本記者クラブ主催の記者会見に応じ、「激化する国際自動車戦争時代に生き残るメーカーはどこか」との意地悪な質問に対し、「エレクトロニクスや冶金学などの最先端技術を大胆に駆使し、人材を活用できるメーカーである。私はその社名を知っているが、その名は諸君の判断に任せる」と会場を沸かせ、GMの経営に自信のほどをみせた。  トヨタとGMの合弁事業は正式にスタートした。フレモント工場の改造は突貫工事で進められた。プレス工場などはFTCの審決が出る前に建設に着手、最も頭の痛い労務問題もフォード政権下で労働長官を務めたウィリアム・アッサリーを顧問にスカウトしてUAWとの交渉役になってもらったことが功を奏し、GM時代にレイオフされたUAWの労働者を優先して採用した。  六月には生産活動の核となる工場のグループリーダー、チームリーダーを中心とした第一陣の研修生二十五人が来日、高岡工場でカンバン方式の実習に取り組み始めた。実習は翌年二月まで続き、トヨタで学んだ研修生は二百五十七人に達した。  FTCの正式認可を得てからちょうど八カ月後の十二月十二日。品質確認車と呼ばれる待望の第一号車の『シボレー・ノバ』がライン・オフ、十八日に工場関係者だけでささやかなライン・オフ式を行った。  米国伊藤忠副社長のジェイ・W・チャイとトヨタ自動車販売常務の神尾秀雄が共通の友人の紹介でホテルオークラで会い、何気なく世界一位と二位のメーカーの提携を話し合ってから三年一カ月後である。  工場の開所式は翌年の四月四日、カリフォルニア州特有の抜けるような青空の下、トヨタ・GMの合弁会社、NUMMIの工場として生れ変わったフレモント工場で盛大に行われた。開所式にはイースター休暇を利用して地元ロサンゼルスに帰るレーガン大統領の出席も予定されていたが、政務多忙でワシントンを離れることが出来ず、前日に英二が急遽ワシントンを訪れ、ホワイトハウスにレーガン大統領を表敬訪問し、合弁工場の開所式を報告した。大統領がホワイトハウスで外国の私企業のトップに会うのは異例のことである。 「日米自動車産業の良い点を組み合わせ、国際的にも優れた生産システムを作り上げ、米国自動車産業の活性化に貢献したい」  お祝いにかけつけた日米政財界人五百人と従業員千五百人、総勢二千人の前でまず英二が挨拶した。  これを受けてスミスは「この事業はトヨタとGM、それにUAWが新たな挑戦のため手を結んだもので、東洋と西洋の英知が結集したものだ」と結んだ。  そして二人は二千人の前で固い握手を交わした。 [#改ページ]  エピローグ 時は確実に刻んだ  晩秋に入り、朝晩の冷え込みが気になりだした一九九二年(平成四年)十月三十日の友引。東京・虎ノ門、ホテルオークラの大宴会場「平安の間」で、招待客二千人を超す盛大なパーティーが開かれた。トヨタ自動車の新社長就任披露宴である。産業界は第一次石油ショックを上回る不況の波にさらされ、経費削減の一環として社長就任パーティーを取り止める企業が相次いでいただけに、トヨタのパーティーがひときわ目立った。  一九九二年は奇しくも日本を代表するトヨタ、日産の二大自動車メーカーのトップが揃って交代した年である。トヨタの世代交代を印象づけたのは、入り口で金屏風を背にした晴れの席で名誉会長に退いた豊田英二が会長、副会長、社長の次に並んだことである。  三カ月半前の七月十七日の大安。日産も同じホテルで新社長就任パーティーを開いたが、取締役を外れて相談役となった石原俊は、遂に金屏風を背にしなかった。  時は確実に刻み、八〇年代を賑わした巨大提携の主役も脇役も次々と経営の表舞台から去って行った。トヨタ、日産の社長就任パーティーはまさに八〇年代の血みどろの国際小型車戦争とそれに伴う巨大提携劇で主役、脇役を演じた役者の同窓会の雰囲気を醸し出していた。  GM提携を推進したトヨタ会長の豊田英二は、その実績を背景に経団連副会長に担ぎ出され、一部に経団連会長の声もあがったが二期四年であっさり財界活動から手を引いた。代表権のない取締役名誉会長は社内序列四番目というものの、実質的なトヨタの創業者だけに社内ではなお隠然たる力を持ち、経営の隅々にまで目を光らせている。工場回りは欠かさず、英二の靴の底には常に金属の切粉がついている。組み立て工場だけでなく、油に塗《まみ》れた鋳物工場にまで足を運ぶからである。  工販合併後に新生トヨタの初代社長に就いた豊田章一郎はちょうど十年社長を務め、その座を実弟でNUMMIの初代社長を務めた豊田達郎に譲った。章一郎は社長在任中に「トヨタモンロー主義」を打破するため豊田、東京の二本社制を採用するなど社内の改革に取り組んだ。二期目に入った経団連副会長も板に付き、次期�財界総理�も射程内に入っている。新社長の経営手腕は未知数だが、いずれにせよ「豊田家のトヨタ」は達郎が最後となる。  トヨタの大番頭として今日の発展の基盤を築き、GM提携を推進した花井正八と加藤誠之の旧工販を代表する二人の元会長は、新生トヨタの誕生を機に第一線から退き、徐々に関係会社の経営からも離れ、現在は終生顧問として余生を過ごしている。その二人より年長で神谷正太郎をトヨタに紹介した岡本藤次郎は工販合弁とGM提携を見届け、一九八三年(昭和五十八年)に九十五歳で大往生を遂げた。  ジェイ・W・チャイとコンビを組んで舞台裏でGM提携を画策した神尾秀雄は、新生トヨタでは副社長を務めた後、相談役となり七十歳を過ぎた現在、トヨタを代表して名古屋商工会議所の副会頭として財界活動に精を出している。その一方でジャパン・インドネシア石油社長、千代田火災海上保険会長としてなお経営の第一線で活躍している。  提携交渉の窓口役だった柳沢亨は提携が成立した後、カナダトヨタの社長に転出、現在は豊田通商の専務としてトヨタの海外事業を側面から支援している。  GMミッションが初めてトヨタ自工本社を訪れた時、常務・海外事業室長として最初に対応した田村秀世はその後監査役に回り、現在は愛知県、蒲郡市及び中京地区の有力企業が出資して設立した第三セクター「蒲郡海洋開発」の社長として渥美湾の埋立て事業に取り組んでいる。二十一世紀にはそこにマリンレジャーとリゾートの施設を作るという。  GM提携の交渉メンバーはいずれもトヨタを去った。副社長で責任者だった森田俊夫は光洋精工社長を経て、現在同社の相談役である。フレモント工場の評価を巡りGMと激しくやり合った経理担当取締役の豊住崟は、ダイハツ工業に転出、現在社長としてダイハツの再建にあたっている。独禁法対策を任された法規部長の塚田健雄は、トヨタの関連会社ながら畑違いの日本移動通信の社長に就任した。交渉の大詰めの段階で英二の名代として交渉に参画した元通産省事務次官の山本重信は副会長を経て日野自動車工業の会長に就任、現在相談役である。豊田達郎の下で副社長としてNUMMIを軌道に乗せた東款は、花井が骨を折って設立した新電電、日本高速通信の副社長である。  トヨタとGMの提携のシナリオを自らの手で描き、それを演出したチャイはその後も伊藤忠、トヨタと英国の大手通信事業会社C&Wが手を結んだ国際通信事業、いすゞと富士重工業の合弁による米国での共同生産、伊藤忠、東芝の米タイム・ワーナーへの資本参加、イトーヨーカ堂の米サウスランド社(セブン‐イレブンの総本山)の買収など、世界を舞台にした提携・買収劇に携わっている。  その一方で、一九八四年(昭和五十九年)にいすゞの非常勤役員に就任、八七年(六十二年)には、外国人として初めて総合商社の本社役員となり、現在専務・北米総支配人を兼務しながら伊藤忠インターナショナル(旧米国伊藤忠商事)会長として総合商社のリストラクチャリング(事業の再構築)の采配を振るっている。トヨタの新社長就任パーティーのあった十月三十日。チャイはひょっこり会場に現れ、トヨタ首脳と旧交をあたためていた。チャイが手掛けた国際提携の一つ、タイム・ワーナー、伊藤忠、東芝の三社提携記念レセプションに出席するため来日していたからである。  そのチャイを激励すると共に本社の役員に起用した米倉功は、社長の座をかつてチャイと共にいすゞ・GM提携に奔走した室伏稔に譲り、豊田章一郎、久米豊と共に経団連副会長として財界活動に専念している。  いすゞの岡本利雄は相談役に退き、社長の座を飛山一男に譲った。その飛山は後継社長に永年GMとのパイプ役を務めた関和平を起用した。関は就任早々、乗用車撤退を決断すると同時にホンダとの提携を実現させた。  フォードにマツダを斡旋し、さらに日産との提携を仲介した住友銀行の磯田一郎は、イトマン事件に連座して晩節を汚し、失意のまま相談役に退いた。磯田の懐刀としてフォード提携で采配を振るった巽外夫は、頭取としてイトマン問題の処理に追われながら、行内で「マツダは巽さんのライフワーク」と揶揄されながらも、フォード二世との約束を守り、なおマツダの経営に睨みをきかしている。  マツダの社長には山崎芳樹の後、RE《ロータリー・エンジン》の開発者として世界的にその名前を知られる山本健一が就任、フォードと蜜月時代を築いたが四年足らずで退き、後任には通産省出身の古田徳昌を起用した。現在山本は相談役、古田は会長に退き、住友銀行出身の和田淑弘が社長としてバブルの後処理に悪戦苦闘している。  日産も九二年六月、国際展開の旗振り役を果たした石原俊が相談役に退き、経営のみならず財界活動からも完全に足を洗った。久米豊はフォードとのミニバンの共同生産を花道に社長の座を辻義文に譲り、日産会長、日本自動車工業会会長、経団連副会長の三足のわらじを履いて対外活動に専念している。  日産がフォードとミニバンを共同開発するためFS(フイジビリティ・スタディ=企業化事前調査)することで合意したのは八七年の春になってからである。住銀の仲介でピーターセンと石原が会談してから四年半近くの歳月が過ぎていた。日米混血のミニバンは九二年四月から年産十三万台規模で生産を始め、両社は夏からそれぞれのブランドで売り出した。もう一つの巨大提携も軌道に乗り始めた。  ロジャー・スミスが「買収したい」というほど惚れ込んだホンダの創業者、本田宗一郎は九一年夏に永眠した。社長も日本メーカーとして初めて対米進出を果たした河島喜好から久米是志、川本信彦へ代わった。米国でいわば創業者利潤を謳歌して急成長したホンダだが、ここへきて内外で大きな壁に突き当たっている。  米国は工場規模が大きいだけに、現地の販売動向が直ちに本社の業績に響く。小型車『アコード』は八九年から三年連続米国で最量産販売車種の座に就いたが、九二年にフォードの『トーラス』にその座を奪われてしまった。一方、国内もヒット車に恵まれずトヨタ、日産に次ぐ業界第三位の座を三菱自動車工業に明け渡してしまった。宗一郎の死と共にホンダらしさが失われたことに原因がある。  国内市場でホンダを抜き三位の座を不動のものにしつつある三菱自動車工業の社長も久保富夫(故人)から曾根嘉年、東条輝彦、舘豊夫、中村裕一と代わり資本提携先、クライスラーとの関係も年々薄れている。クライスラーの足かせが外れた途端、元気を取り戻しRV《レクリエーショナル・ビークル》ブームの波に乗り、沈滞気味の業界で一人気を吐いている。  日本の自動車業界で八〇年代前半から、今なお社長として君臨しているのはスズキ社長の鈴木修だけである。さらに世界の自動車業界を見渡して創業者と呼べるのは今や、豊田英二たった一人となった。 「二十一世紀のGMは自動車も作っている企業になる」と豪語し、多角経営とハイテクに走ったGM会長のロジャー・スミスは、社内の慣例通り役員定年の六十五歳まで会長を務め退任した。スミスは在任中、通信衛星メーカーのヒューズ・エアクラフト、九二年秋の大統領選挙に出馬したロス・ペローが設立したコンピューターソフトのEDS《エレクトロニック・データ・システムズ》などを買収して多角経営を推進したが、成功したと言えるプロジェクトはNUMMIだけであった。  ロジャー・スミスの後任会長のロバート・ステンペルと社長のロイド・ロイスは九二年春に社外重役を中心とした�クーデター�に遭遇して、ステンペルは経営執行委員会会長を剥奪され、同時に社長のロイド・ロイスは執行副社長に格下げされた。  後任の社長についたのはトヨタ提携交渉の責任者だったジャック・スミスである。ジャック・スミスはトヨタ提携をまとめた後、GMカナダ社長、GMヨーロッパ社長を経て九〇年に国際事業担当副会長として本社に戻った。秋にはステンペルは遂に会長辞任を余儀なくされ、会長には社外役員でプロクター&ギャンブルの前会長ジョン・スメールが就任した。CEO(最高経営責任者)はジャック・スミスである。ロイド・ロイスもGMを去った。  GMの今日の悲劇はスミスの会長時代にシェアが大きく低下、生産能力と販売シェアが一〇ポイントほど乖離《かいり》したことにある。ロジャー・スミスはNUMMIで学んだジャスト・イン・タイムに代表される日本の生産方式を全工場に導入しようとしたが、途中で景気が回復し、中途半端に終わってしまった。さらに本来工場の合理化に投じなければならない資金を多角経営に投じたため、ビッグスリーの中では最も合理化が遅れてしまった。悪いことにシェアが落ちても、好景気の到来に備えて生産設備を削減しなかったことが、今日の苦境に拍車をかけている。  ジャック・スミスは現状のシェアに設備を合わせる大胆な設備破棄と大幅な人員削減策を打ち出したが、それだけではGMの蘇生は不可能とみて、GMの古い官僚体質にもメスを入れようとしている。  トヨタ提携でジャック・スミスの下で交渉に参画した商品企画部門のトーマス・マクダニエルは副社長として日本を始めとするアジア・太平洋地区事業を統括、ジョン・ミドルブルックは副社長兼ポンテアック部門のゼネラルマネジャーである。財務部門のルー・ヒューズはジャック・スミスの後任の欧州GM社長とドイツ・オペルの会長を兼務したまま、本社の国際担当執行副社長として海外事業全般を担当している。  GMはトップ人事をすっきりさせ抜本的な再建に着手したばかりだが、再建いかんはGMの官僚主義に染まっていないジャック・スミスの経営手腕と、トヨタとの提携交渉に参画したかつてのGMの�若き獅子たち�の双肩にかかっている。  フォードのオーナー経営者、ヘンリー・フォード二世もこの世にいない。トヨタから共同生産を持ちかけられたピーターセンは社長の後、会長となり小型乗用車『トーラス』の爆発的なヒットでフォードを再建させ、その椅子をポーリングに譲ってハッピー・リタイアした。そのポーリングも九三年末には引退する。社長も九三年一月一日付でベントンが退任して後任には副社長のアレクサンダー・トロットマンが昇格した。  クライスラー会長のアイアコッカは、再建直後アメリカン・ドリームの体現者としてもてはやされ、一時民主党の大統領候補にも擬せられたが、再び経営不振に陥ると同時に人気も急速に衰え、九二年末で会長職をGMから引き抜いて副会長に抜擢したロバート・イートンに譲った。イートンはかつてジャック・スミスが欧州GMの社長時代、その下で働いていた男である。  八〇年代の自動車産業は役者も揃い、まさに激動という言葉が相応しい時代だった。第一次石油ショックに端を発した国際小型車戦争では、日本車メーカーは二度にわたる石油ショックはもとより対米輸出規制、円高不況などの危機を逆手にとることで圧倒的な勝利を収めた。日本の一人勝ちで世界の自動車産業の勢力地図は大きく変わった。  九〇年代の自動車産業を取り巻く環境は、八〇年代には想像も出来なかったほど厳しい。逆風はバブル経済が弾けた日本に向かって吹いている。これまでのような�神風�も期待出来ない。となると二十一世紀に向け、生き残りを賭けた合従連衡は避けられない。すでにホンダといすゞ、日産とマツダがゆるやかな形で提携するなどその兆しは出始めている。業界再編という名の台風の目はまだ発生したばかりだが、時間が経つにつれ大きくなり、遠からず世界の自動車業界に上陸して暴れまくるだろう。日本もすでに暴風雨圏に入っており、その波はひたひたと押し寄せている。シナリオのない新たなドラマの幕はすでに切って落とされた。  八〇年代は日本の時代であると同時に巨人の時代でもあった。自動車の世界では衰えたとはいえ過去半世紀もの長きにわたりGMが世界に君臨していた。GMが車のデザインを決め、技術をリードしてきた。コンピューターの世界ではIBMが帝国を築き、業界はIBMを中心に回っていた。流通の世界ではシアーズ・ローバックが旋風を巻き起こした。  しかし九〇年代に入り巨人の衰退がひときわ目立っている。GMは世界でなお七十万人の従業員を抱え、逆にこれが足かせとなっている。官僚主義を打破出来ず過剰設備に苦しみ喘いでいる姿には、世界最大企業の名をほしいままにしていたかつての王者の面影はない。まさに「病める巨人」そのものである。  IBMはハードフレーム指向から抜け出せずワークステーション、パソコンの小型機分野で大きく出遅れてしまった。ダウンサイジングの波に乗り遅れたのである。流通革命の旗手、シアーズ・ローバックはクレジットや金融事業などの多角経営が裏目に出て新たな流通革命の波に乗り遅れてしまった。  ドイツ最大の企業、ベンツもGM同様多角経営を進めたが、規模が大きくなっただけで昔日の勢いはない。「日独中枢企業の握手」と世界を震撼させた三菱グループとの提携も交渉すればするほど利害がかみ合わない。  欧州の巨人、電機メーカーのフィリップスは半導体で失敗して、赤字に転落してしまった。本業の家電も衰退の道を歩んでいる。  日本でも巨人といわれた企業ほどバブルの後遺症に悩まされている。日本を代表するトヨタ、松下電器産業は巨額の余裕資金が最大の武器だったが、今やその資金が生み出す利子で辛うじて面子を保っているに過ぎない。肝心の余裕資金も確実に減り始めている。本業での利益は急激に低下し、ごく普通の会社に成り下がってしまった。松下の「水道哲学」、トヨタの「カンバン方式」がもてはやされる時代は過ぎ去ってしまったのだろうか。  テクノロジーが停滞した九〇年代は巨人受難の時代である。巨大企業ほど組織が硬直し、経営トップには側近の耳ざわりの良い意見しか入らない経営システムになっている。企業が大きくなればなるほど外部の刺激的な声を聞く必要があるが、現実は官僚主義がばっこし、大企業病に侵されている。  巨人はいつの時代でもわがままである。巨人はいつの時代でも自分だけは永遠と思い込んでいる。そして巨人は図体が大きいなるが故に見かけは頑強に見えても、実際は巨体を持て余しているに過ぎない。哀しいことに巨人は自らが急激な時代の変化に適応出来ないことを知らない。  今日の巨人は明日のマンモスである。巨人がマンモスになるのを避けるには、過去の栄光を断ち切り、何より自分の弱さを知らなければならない。弱さを知ったうえで創造的な自己破壊を進めなければ、衰退に拍車をかけることになる。創造的な自己破壊の一つの手段が新たな巨大提携である。  創造的な自己破壊に向けて今後どんな組み合わせの提携・合弁が飛び出しても不思議ではない。問題は誰がシナリオを描き、演出するかである。巨大提携になればなるほど当事者はシナリオを描くことは出来ても、利害が錯綜して演出まで出来ない。演出者は大きな組織に組み込まれた巨人たちのエゴと利害を調整し、自らが触媒になったり、時には関節の役目を果たさなければならないからである。どんなに大胆なシナリオを描いても演出者がいなければ、しょせんフィクションの世界から抜け出せない。 [#地付き]〈文中敬称略〉 [#改ページ]  あとがきにかえて 私の取材方法  新聞記者といえば鉛筆とメモ帳が必需品である。大ニュース発生に伴う緊急の記者会見ともなれば、全員が相手の話を聞きながら必死になって、小さなメモ帳に鉛筆を走らせている。ごく当たり前の方法で私自身、第一線の新聞記者時代には相手の言っていることを一字一句漏らすまいとメモをとった。  しかしいつの日か公の記者会見の時はともかく、通常の独自取材の時は全くメモをとらなくなった。メモをとるのが煩わしくなったこともさることながら、取材中にメモをとり始めたら主導権が相手に握られてしまうことに気が付いたからである。  ニュース部門に配属された新聞記者の仕事は、取材してそれを記事にすることである。取材する相手からニュースを引き出さない限り、どんなに文章力があっても記者としての才能を生かしたとはいえない。ところがニュースバリューが大きければ大きいほど、取材される側の口は固くなる。  難攻不落の相手の口を滑らかにするには、何よりも意識的に相手が話したくなるような雰囲気を作り上げることである。取材相手がそうした雰囲気に呑まれ、今まさに大ニュースを話そうとする瞬間、目の前でメモ帳を開かれては興ざめである。  私の勤務している日本経済新聞社は社名の通り、こと経済に関しては抜いて当たり前の新聞社である。とはいえニュースは相手から絶対に飛び込んでこない。ニュースを発掘するため第一線の記者は日夜、泥沼を這いずり回っている。  その経験の中から自分に合った独自の取材方法を見つけ出すのである。取材中にメモをとらない私のやり方は、決して普遍性があるとは思っていない。泥沼を這いずり回りながら会得した一つの方法でしかない。  取材方法は政治、経済、社会など担当する分野によって異なるが、共通しているのは取材相手に心を開かせない限り、大ニュースをモノにできないことである。  取材される側が話したくない話を引き出す。これが新聞記者の真骨頂であり醍醐味でもある。私の経験の中で最も思い出に残り、多くのことを学んだのが、第一次石油ショックの直後、|ロータリー・エンジン《RE》に傾斜した経営が裏目に出て倒産寸前まで追い込まれたマツダ(旧東洋工業)の再建劇を巡る取材である。  再建に携わったのが住友銀行で、審査担当専務だった磯田一郎氏が直接指揮をとっていた。磯田氏は東京では日比谷の帝国ホテル旧館の一室を借り切って自宅代わりに使っていた。マツダの経営陣はすでに当事者能力を失い、マツダの将来は磯田氏の立てる再建策いかんにかかっていた。  磯田氏に会わない限り、マツダの再建策に関するニュースは取れない。といって毎日、銀行で会えるわけではない。担当記者である私ができることといえば、何とか日を置かず磯田氏に接触して事態の進展を正確に把握することであった。  上京したときは、夜の早い時間から帝国ホテルの旧館ロビーで「忠犬ハチ公」よろしく相手が帰ってくるまで辛抱強く待ち受けるのである。この作業を怠り、適当に帰って来そうな時間を見計らって行っても、磯田氏がいったん部屋に入ってしまえば、氏の性格からしてよほど気分が良くない限り出てこない。虫の居所でも悪ければ部屋の前で怒鳴られるのがオチである。  その点、ロビーで張り込んでいれば、どんな深夜に帰ってこようが遠慮なく取材できる。たとえ機嫌が悪い日で、立ち話であっても、顔色を窺うことで、なぜ機嫌が悪いのかを推測できる。ロビーで会う限り主導権は取材する側にある。  一九七五年(昭和五十年)だけで磯田氏に会った回数は夜討ち・朝駆け、そして昼の銀行での取材を加えるとゆうに百回を超える。最初は相手に与える情報もなく、御用聞きの真似ごとから始まったが、時間が経つにつれ住銀がマツダの再建に向けてどんな策をとろうとしているのか、手に取るように分かるようになった。  取材する側の興味はただ一点、ニュースとして活字になる具体的な再建策を聞き出すことである。肝心の取材される側は(途中で分かったことだが)、夏過ぎまでは暗中模索で真正面から取材されても話せる段階にはなかった。銀行の弱点は自動車業界の動向を新聞、雑誌等の二次情報でしか知らないことである。再建策の中には当然同業他社との提携も含まれている。  銀行が提携先として白羽の矢を立てた相手企業が果たして興味を持っているかどうか。秋口には私自身、磯田氏から依頼され、同氏が立てた再建案を持ち歩き、複数の自動車メーカーの首脳に提携を打診したこともあった。再建を担っている銀行は、打診の段階では迂闊《うかつ》には動けない。  といって何もしなければ局面を打開できない。磯田氏は多分、新聞記者という�劇薬�を使い、相手の反応をさぐることを思いついたのだろう。確かに新聞記者は劇薬であることは間違いないにしても、同時に便利な存在である。相手の反応をすぐ知ることができる。反応が良ければ銀行が出ていけばよいし、たとえ婉曲に断られても銀行には一切傷がつかない。  磯田氏は再建に向け麻雀でいう、十三面待ちの膨大なシナリオを描いたが、相手にそのカードを引かせない限り現実のものにはならない。ただし引かせるには時間がかかる。マツダの経営は日に日に悪化し、決算発表(当時は年二回決算で、マツダは四月、十月だった)も近づいている。決算発表時までにメインバンクとして、何らかの再建策を示さなければならない。  クリスマス・イブの直前になって住銀が時間切れの形で出した再建策は、住銀と伊藤忠商事が役員を派遣するという、人事面でのテコ入れ策であった。だが私はこの再建案を最初に日経新聞で紙面化することは出来なかった。同業他社に抜かれてしまったからである。  自分が整理できないほどの情報を持ちながら、なぜ同業他社に後れをとってしまったのか。原因は取材した結果をタイミング良く紙面化する座標軸を持っていなかったことにある。  座標軸は縦軸と横軸の二つある。縦軸というのは取材先が何を考え、どんな行動をしているかであり、言ってみれば事実の進捗状況である。横軸はいうまでもなくライバル、マスコミ各社の動きである。  マツダの取材では縦軸においては、同業他社には決してひけをとらなかったが、横軸の存在を忘れるあまり、書くタイミングを見失ってしまった。「間のとり方」を誤ってしまったのである。いくら縦軸がしっかりしていても、抜かれては後の祭りである。そして磯田氏とは後始末の原稿を巡って意見が対立、その後一度も会うこともなく今日に至っている。  抜かれたら抜き返す。これが新聞記者の宿命であり意地でもある。といって世の中の常として、物事は決して自分の都合のいいように運ばない。  どうしたら大ニュースをモノにできるか。マツダで抜かれた苦い経験を反面教師として、たどりついた結論は「縦軸と横軸の二つの座標軸をしっかりと睨んで、なおかつ取材先と同じレベルで考えてみる」という単純なことだった。どんな荒唐無稽な組み合わせでも相手にその意思がなければ、「絵に描いた餅」でしかない。  世界第一位と第二位の企業が手を握るというトヨタとGM提携は、当時とすれば荒唐無稽に属する話であった。それが実現したのはトヨタ、GMの双方に、困難を承知で�巨大提携�という名の井戸を掘ってみようという夢とロマンを持った男達がいたからである。時代はその後についてきた。  世界最大企業と日本一の企業の巨大提携は、米連邦取引委員会《FTC》が最終的に「消費者の利益になる」との判断を下し、独禁法の壁を打ち破ったが、本当に消費者の利益に適ったかどうかは後世に判断を委ねなければならない。  今、当時を振り返って一つだけ心残りがあるとすれば、縦軸と横軸を両立させるため、あえて非情な取材体制を組まざるを得なかったことである。  編集局産業部自動車グループのキャップだった私が、提携の動きを最初に知ったのは一九八一年(昭和五十六年)十一月十日である。当時上司だった鶴田卓彦編集局長(現社長)、鈴木隆編集局次長(現日経BP社副社長)、樋口剛産業部長(現取締役事業局長)、河村有弘産業部次長(現取締役西部支社代表)の四人に報告したのは、トヨタ自販の加藤誠之会長とGMロジャー・スミス会長の会談がセットされた十二月十九日である。  むろんその時は提携が本当に実現するかどうか、皆目見当すらつかなかった。ともかく年内は上司四人と私自身の胸の中に収め、縦軸をしっかり押さえる作業を続けた。サブキャップの来間紘君(現産業部長)に知らせたのは年末に朝日新聞に工販合併が書かれた直後である。年明けからトヨタに対する取材攻勢が激しくなることが予想され、横軸の動向に網をかける必要が生じてきた。  石上俊一(現「芝浦・牡丹」社長)、木村勝俊(現和歌山支局長)の両君にはGMのミッションが密かに来日し、水面下の交渉が始まりかけた一月半ば過ぎに知らせた。そろそろ組織的に動かなければならないとの判断からである。  来間君を含めたベテラン三君には、隠密裡にトヨタ首脳の動きをチェックする役目を果たしてもらった。一方、山田義雄君(現QUICK秘書室長)、川部正昭君(現日経産業消費者研究所産業研究部首席研究員)や若手の高橋純夫君(現産業部次長)、小池正夫君(現電波・映像本部企画委員)らには紙面化する直前まで、事実を故意に隠して普段と変わりなく公然と取材してもらった。  なぜこのような複雑な取材体制をとったのか。  一言でいえば「絶対に抜かれない」ための横軸強化のシフトであった。五十七年(一九八二年)一月の自動車担当記者の仕事は日に日に盛り上がるトヨタ工販合併の成否を確認することであった。下旬に合併が正式発表されると、テーマは米国進出に移った。  連日トヨタ首脳の自宅には新聞記者が押し寄せる。隠密派には通産省及びトヨタ首脳への夜回りで、同業他社と一緒になった時は意識的に質問を避けて、同業他社の興味を探ると同時に、取材先の言動を逐一監視してもらった。  その一方で若手の公然派には遠慮会釈なく、新聞記者として興味のあるテーマを自由に取材してもらった。一種の攪乱戦法である。私の仕事は、水面下のその下で、縦軸の動きを注意深くチェックすることである。  むろん社内では記事にするタイミングを巡り、編集局長を交え毎日のように激論を戦わせた。結論は常に決まっていた。 「トップ会談の前に紙面化すれば、会談そのものが中止になる恐れがある。従って現段階では見送らざるを得ない」  といってライバル紙に抜かれればこれまでの苦労は水の泡となる。事実を伝えるのは確かに新聞の仕事だが、書くタイミングを一歩誤り、会談が潰れれば「幻のスクープ」どころか「世紀の大誤報」となる。むろんニュースソースに対する配慮も欠かせない。  こうした胃の痛くなるような取材が四カ月ほど続き、最終的に豊田英二トヨタ自動車工業社長とGMロジャー・スミス会長のトップ会談から一週間後の三月八日の日本経済新聞の一面トップを飾ることが出来た。  一連の取材で学んだことは、派手な活字になるニュースを生むものは、あくまでも多くの記者の地道な作業とチームワークだということである。もちろんその前提には縦と横のしっかりとした座標軸がなければならないことはいうまでもない。  私自身、今回の取材でも一切メモをとらなかった。ただし、取材の後どんなに遅くなっても、日記代わりに取材ノートを克明につけた。このノートは私がどんなことを質問して、相手がどのように答えたかを客観的に記したもので、B5判の取材ノートは七冊を超えた。このノートがあったからこそ十年前の動きを昨日の出来事のように再現できたともいえる。  記録は公表しようと思えばいつでもできたがあまりにも生々しく、ある程度の時間を置かざるを得ないことは最初から予想された。だがその後は忙しさにかまけて、いつしか十年の月日が過ぎてしまった。今回、執筆するきっかけとなったのは、文藝春秋の木俣正剛、白石一文、吉地真の三氏からの「記録は何らかの形で公表すべき」とのアドバイスである。また出版に際しては日本経済新聞社出版局の酒井弘樹、渡辺智哉の両君に多大な尽力をいただいた。ここに改めて感謝の意を表したい。十年一昔の出来事といってしまえばそれまでだが、テーマ自体には今なお普遍性があると自負している。企業を動かしているのは人間であり、合従連衡で最後にモノをいうのは立場の違った人と人とのつながりだからである。   一九九三年四月吉日 [#地付き]佐藤 正明 [#改ページ]   文庫版特別書きおろし[#「文庫版特別書きおろし」はゴシック体]     トヨタ、国際企業への道 [#改ページ]     [1]  トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)社長の豊田英二とGM会長のロジャー・スミスがニューヨークで会談して、提携に向け第一歩を踏み出したのは、一九八二年の三月一日である。  それから十九年近くもの歳月が経過し、この間、世界の自動車産業はドッグイヤー(通常より七倍速く進む犬の時間)的な変化に見舞われた。バブル経済の崩壊で日本車メーカーの地位が著しく低下したのとは対照的に、米ビッグスリーは奇跡の復活を果たした。九〇年代の後半には、昔日の勢いを取り戻した欧米メーカーの主導で一気に業界再編成が進み、二十一世紀を目前に控え世界の自動車業界地図が大きく塗り変わった。  端緒を開いたのは、一九九八年五月に突然発表されたダイムラーベンツとクライスラーの合併である。国境を越え大西洋を挟んだ米独巨大企業の合併は、世界の自動車業界を震撼させ、日本の自動車メーカーを業界再編成の渦に巻き込んだ。  八〇年代の国際小型車戦争では、日本は確かに勝利を収めた。だがその副作用として日米自動車摩擦が発生した。摩擦を乗り越えてさらなる発展を遂げるには、国際化を図る以外ない。そこで日本車メーカーは一斉に国際化に向けて走り出した。  この国際化の対応が勝負の分かれ目となった。勝ち組はトヨタとホンダであり、負け組は日産自動車、マツダ、三菱自動車工業である。勝ち組は経営の独立を守り通し、負け組は再編される側に回り、外資の軍門に降《くだ》った。  戦後派企業で、しかも自動車メーカーとしては最後発のホンダが勝ち組に入ったのは、八〇年一月にトヨタ、日産に先駆けて米国に乗用車工場の建設を表明したからである。ホンダは米国市場を収益源とし、二〇〇〇年三月期の連結決算ベースで売り上げ、利益、生産、販売とあらゆる指標で日産を追い越し、二十一世紀を前に本田宗一郎、藤沢武夫の二人の創業者が夢にまで見た国内第二位のメーカーに躍り出た。  ホンダの伝統は自主独立だが、果たしてどこまでこの旗を掲げて行くことがことができるか。企業規模を示す指数ではトヨタに次ぐメーカーに成長したが、詳細にみると生産は国内より海外の方が多く、販売では米国市場が国内市場を圧倒している。利益にいたっては、七割近くを米国市場で稼ぎ出している。言ってみれば、北米過剰依存の一本足打法である。  資本面では外資の支援を仰ぐ必要性はないものの、技術面では資源、環境、安全といったテーマを一社で解決するのは困難な時代を迎えている。社長の吉野浩行は、再編成に背を向けていれば、時代に取り残されてしまうことに気付き、九九年十二月にGMとの技術提携に踏み切った。  日産、マツダ、三菱自工の�負け組三兄弟�に共通しているのは、国際化の失敗である。その代償はあまりにも大きく、バブル崩壊後、必死になって生き残り策を模索してきた。  七四年にフォードと資本提携したマツダは、提携後もフォードと一定の距離を置き、経営の自主性を保とうとしてきた。それを確実にするため八〇年代後半に発生したバブル経済期に米国に単独で工場を建設した。その一方で、国内ではドイツの高級車メーカー、BMWを目指してトヨタ並みの五チャンネル体制を敷いた。  これが完全に裏目に出て、バブルの崩壊とともに経営不振に陥った。米国工場の主導権は早々とフォードに渡し、まず米国での戦線縮小を図った。しかしバブルの傷跡は予想以上に大きく、マツダの後ろ楯ともいうべき住友銀行は、自力再建を断念せざるを得なかった。そこで九六年にフォードに対して出資比率の引き上げを要請すると同時に社長の座も明け渡し、フォードの世界戦略の一翼を担うことで生き残りをはかる道を選択した。  日産は八〇年代初頭に社長の石原俊が掲げた「トヨタ追撃」を旗印に、数々の国際プロジェクトを打ち出したが、九〇年代を待たずに破綻した。原因は各プロジェクトに脈絡がなかったことにあった。後継者はその後始末に追われ続けた。これに経営のまずさも加わり、急激に体力を消耗、九九年春に仏ルノーの資本参加を仰ぎ、現在ルノー主導のもとで再建を進めている。  石原が「ルノーは手助けする相手ではあっても、まさか助けてもらうとは夢想だにしなかった」と歯ぎしりしても後の祭りである。  三菱自工は資本提携先、米クライスラーとの契約が足かせになり米国進出が遅れたが、それでも舘豊夫の社長時代に粘り強い交渉で資本提携を解消すると同時に株式上場をも果たした。舘は長期的な観点からダイムラーベンツとの関係強化に奔走したが、後任社長の中村裕一は欧州での合弁事業先としてスウェーデンのボルボを選んだ。  国際化は順風に帆を上げたかに見えたが、ボルボは九九年春に乗用車部門をフォードに売却してしまった。混乱はここから始まった。三菱自工は世界の有力メーカーと部分提携で乗り切れると判断し、まず不振が続いている大型トラック部門は分社化して、ボルボの資本参加を仰ぎ、本体にはダイムラークライスラーが資本参加するというねじれ現象を起こしてしまった。  世界の再編劇の中で、最も注目されたのがトヨタである。ワールドワイドでみた世界の生産台数はGM、フォードに次ぐ世界第三位だが、企業価値を表す株式の時価総額で見ると様相が一変する。トヨタ株の時価総額は、GM、フォード、ダイムラークライスラーを合わせた金額より多いのである。トヨタの形容詞は今も昔も「日本一の優良会社」だが、株式の時価総額というモノサシで計ると「世界の自動車業界の中で、株主にとって最も価値のある会社」ということができる。  再編劇で主導権を握っている海外有力メーカーも紆余曲折をたどってきた。世界規模での業界再編の口火を切ったダイムラーベンツも例外ではない。八七年に最高経営責任者《CEO》に就任したロイター・エドザードは、高級車と大型トラックのベンツに自動車メーカーとして限界を感じ、多角経営に活路を見いだしM&A(企業の合併・買収)を通じて、航空・宇宙、家電、エレクトロニクス部門に新規参入した。  ベンツの企業規模は確かに大きくなったものの、巨額の赤字がたまりいつしか失敗の烙印を押され、ロイターは九五年に失脚した。後任のユルゲル・シュレンプはあっさり多角経営を放棄し、九六年にはドイツ企業史上最大の五十八億マルクの赤字を計上して、過去の膿を出し切った。翌九七年には持ち株会社のダイムラーベンツが自動車部門のメルセデス・ベンツを吸収合併して、自動車事業をシュレンプの直轄事業にした。  ベンツは本業の自動車に回帰したのである。だがベンツが金城湯池としてきた高級車分野ではフォードが英ジャガー、GMがスウェーデンのサーブ、|フォルクスワーゲン《VW》が英ロールスロイスを買収するなど競争が激化している。こうした中でベンツが世界の自動車業界の中で影響力を持つメーカーになるには、高級車部門を強化するだけでなく、世界最大の需要地である北米市場で確固たる基盤を持たなければならない。それには小型車部門の拡充は欠かせない。  一方、クライスラーは米国経済の盛衰をそのまま反映し、好況時には史上最高の利益を出すが、不況期になると倒産寸前にまで落ち込むという体質から抜け出せず、最後はGMから転籍してきた会長のロバート・イートンがシュレンプの提案に乗る形でベンツとの合併を決断した。  GMは八〇年代の国際小型車戦争は、トヨタと提携して乗り切ったが、九〇年代前半には�倒産�がささやかれるほど業績が悪化した。GMがクルマのデザインを決め、技術をリードしてきたのは今や昔である。それでも自動車産業の王者として君臨しているのは、中堅メーカーを次々と傘下に収めてきたからにほかならない。  むしろGMとは対照的に、九〇年代に入って元気が出てきたのがフォードである。ヒット車に恵まれたこともあるが、それ以上に経営者に恵まれたことが大きい。GMは基本的にロジャー・スミス以降もジャック・スミスから現CEOのリチャード・ワゴナーまで財務畑の出身者が経営トップに君臨している。良くいえば保守本流、悪く言えば今なお古色蒼然たる官僚主義がばっこしている。  その点、フォードはトップに相応しい人材を世界から、それも序列を無視して選び出している。前会長のアレキサンダー・トロットマンは英国人で、英国フォードに入社して、その実力が認められデトロイトの頂点に立った。現在のCEO兼社長のジャック・ナッサーはレバノン人で豪州フォードに入社し、五十一歳の若さで本社のトップに登り詰めた。ナッサーの実力を最初に見いだしたのが、豪州フォード時代の上司だった副会長のウエイン・ブッカーである。  フォードの議決権のある株式のうち四〇%を握っているのは、フォード家である。ヘンリー・フォード二世が八二年に引退した後、フォード家は一時経営から離れていたが、九九年にフォード家の四代目にあたるウイリアム・クレイ・フォード・ジュニアが会長に就いた。日本流にいえば代表権を持たない会長である。近年、フォードの発展の秘密は、創業家の意向を尊重しながら、人材を世界のフォードグループから登用していることにある。  フォードの歴代トップの悲願は、名実共にGMを抜いて世界の自動車産業に君臨することである。利益の面ではGMを上回っているが、企業規模を表す売り上げの面ではまだ太刀打ちできない。ナッサーはGM追撃を目指して秘策を練っている。当然のことながらナッサーの戦略は、日本の自動車業界にも大きな影響を与える。     [2]  国際再編の嵐が吹き荒れ、次々と日本車メーカーが外資の軍門に降る中で、ひとり気を吐いているのがトヨタである。国内ではバブル崩壊後に販売(新車登録台数)が低迷して九〇年代半ばにはシェアが四〇%を割り始めた。  GMを持ち出すまでもなく自動車業界では、いったんシェアが落ち始めるとそれに歯止めをかけ、上向きに転じさせるのは至難の業である。日産の悲劇も実はそこにあった。過去二十年間、歴代社長が年々シェアを落としながらも「三〇%奪回」を言い続けてきたのは、三〇%の旗を降ろせば、シェアはさらに低下するからである。  九五年に新社長に就任した旧トヨタ自動車販売出身の奥田|碩《ひろし》は、シェア低下に危機感を覚え、就任早々から社内で「四〇%奪回」を声高に叫び回った。日産は二〇%そこそこまで落ち込んでも「三〇%奪回」の旗を降ろさず、経営資源を海外プロジェクトに集中させた。  その点、奥田は「有言実行」の言葉通り、九九年に四年振りに四〇%台に乗せ、二〇〇〇年上期には半期としては史上最高の四三・四%まで引き上げた。シェア向上の秘訣は、奥田が社長時代に開発を指示した世界戦略車のNBC《ニュー・ベーシック・カー》、『ヴィッツ』のヒットにある。  二〇〇〇年六月は車種別販売台数ではホンダの『オデッセイ』に首位を明け渡したものの、『ヴィッツ』『エステマ』『カローラ』『bB』『クラウン』『ファンカーゴ』『RAV4』と二位から八位までトヨタ車が独占した。シェアも月間史上最高の四三・八%を記録した。続く七月はヴィッツが首位に返り咲き、その後にエスティマ、カローラ、bBと続き、オデッセイを「一カ月天下」に終わらせただけでなく五位に蹴落としてしまった。  国内販売ではトヨタの一人勝ちの様相を呈している。ライバル不在と言ってもいい。国内販売の好調と相まって九九年のトヨタ車の販売台数は、全世界で四百七十二万台となった。同時期の世界の総販売台数は五千五百六十八万台だから、シェアは八・五%である。これに系列のダイハツと日野を加えると五百四十四万台で、九・七%に跳ね上がる。  トヨタは英二の社長時代にトヨタ車で世界の一〇%のシェアを獲得する「グローバル10《テン》」を旗印に掲げていたが、グループで見る限り、悲願達成まであと一歩のところまできた。�三河の田舎大名�と陰口を叩かれたトヨタはいつしか、「世界のトヨタ」に脱皮した。  その原動力は北米市場における破竹の快進撃にある。ケンタッキー工場で生産している小型乗用車の『カムリ』は、ホンダ『アコード』やフォード『トーラス』を抑えて、三年連続して米国の「ベストセラーカー」の座に就いている。九九年の米国におけるトヨタの総販売台数は百六十万台で、六年連続で過去最高記録を塗り替えた。北米の年産能力はカナダ工場を含めると百十万台で、国内の三分一の規模に膨れ上がった。  ここにたどり着くまでの道は必ずしも平坦ではなかった。七〇年代から八〇年代にかけて発生した日米自動車摩擦が泥沼化した一つの原因は、トップメーカーであるトヨタの対応の鈍さにあったことは本編ですでに述べている。  一九八〇年の正月明けに全米自動車労組《UAW》会長のダグラス・フレーザーが来日して、日本車メーカー各社に乗用車での対米工場進出を要請したのは、「米国本土で現地生産してもらえば、米国の雇用を維持できるうえ、効率の良い日本的生産方式のノウハウを取得できる」との判断からである。むろん「日本メーカーを自分たちの土俵(米国)に引きずり込めば日本車の競争力が弱まる」との打算的な考えも見逃せない。  米国市場でトヨタ車はユーザーの間でホンダ車と並んで高い評価を得ていたが、企業イメージは最悪だった。GMとの提携交渉が明らかになった直後、米マスコミは「トヨタはフォードからGMに乗り換えたにすぎない。トヨタの狙いは共同生産ではなく、単独進出を決断するまでの時間稼ぎだ」と酷評されたものである。実際はマスコミの読みとはうらはらに、GMとの合弁事業は実現し、マスコミの評価も少しずつ変わり始めた。  GMとの合弁事業を決断したことにより日米自動車摩擦は解消に向かったが、これでトヨタの国際戦略が軌道に乗ったわけではない。トヨタの今日があるのは、GMとの合弁によるNUMMI《ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング》での経験を土台にケンタッキーに単独の工場を建設したことである。  日本製乗用車の対米自主規制は、八〇年度から三年の約束で始まったが、最終的に十二年の長きにわたった。仮に三年で終了していれば、トヨタの国際戦略も大きく違ったであろう。皮肉なことに自主規制が長期化したため、トヨタの国際化が軌道に乗ったともいえる。  トヨタが単独進出を真剣に検討し始めたのは、NUMMIのフレモント工場で待望の第一号車(品質確認車)がライン・オフのメドが立った八四年末である。トヨタの焦りは米国市場における乗用車販売の首位の座がホンダに脅かされはじめたことにあった。  日米自動車摩擦が頂点に達した八〇年の米国市場における乗用車の販売台数は、トヨタの五十六万八千台に対し、ホンダは三十八万七千台に過ぎなかった。ところがホンダは八三年末に年産能力十五万台のオハイオ工場を完成させ、現地生産を武器に激しくトヨタを追い上げた。そして八四年にはあっさりトヨタを追い抜いてしまった。  ホンダの拡張政策はとどまるところを知らず、フル稼働に入ったのを見届けると、今度は八八年をメドに倍増工事に着手した。同時にカナダにも年産四万台の工場の建設を表明した。ホンダはトヨタをキャッチアップしただけでなく、いち早く米国市場で年間八十万台の供給体制を築いた。  一方、日産もテネシー州スマーナーの小型トラック工場内に月産一万台の乗用車ラインを作り、八五年春から『サニー』の生産に入る計画を立てた。生産が軌道に乗れば、日産が乗用車の供給台数でトヨタに並ぶのは時間の問題となる。  トヨタはGMとの合弁事業を軌道に乗せたことで、こと現地生産に関してはホンダ、日産にひけはとらないが、GMとの契約は「最高年間二十五万台を上限に供給する」となっているので、フル操業に入ってもトヨタの販売網で流すことができない。米国市場における乗用車販売でトヨタの三位転落は、時間の問題となった。  といって手をこまぬいていただけではない。社内で侃々諤々《かんかんがくがく》の論議を続けた。そして一つの結論を出した。 「リスクなき単独進出を果たし、しかも米国市場でトップの座を奪回する」  いってみれば経理、購買の発想である。最初に検討したのがカナダでの現地生産である。カナダは米国に追随して、日本車の輸入を規制している。ところがトヨタは過去の実績が低いことから、対カナダ輸出はホンダに次ぐ二位に甘んじている。そのホンダはすでにカナダでも現地生産を決断している。  カナダと米国は政府間で、お互いに関税をゼロにする協定を結んでいる。日本メーカーは両国の自動車工業会に加盟すれば、この恩恵にあずかれる。カナダの国土は広いが、デトロイトの延長にある五大湖周辺のオンタリオ州であれば、部品調達にこと欠かない。  それ以上に魅力的なのは、カナダドルがUSドルに比べて相対的に割安なことだ。この地に工場を建設すれば、�一石二鳥�の効果が期待できる。トヨタは八四年秋に進出を前提にフィジビリティ・スタディ(FS=企業化事前調査)を実施したが、年末を前に早々と進出を断念してしまった。カナダからの対米輸出は、米国でトヨタへの反発を招く恐れがあるからだ。  米国のマスコミでは、GM提携以来トヨタに対する反発は和らいでおり、「トヨタは早晩単独で米国に工場を建設する」との期待が日増しに高まっている。その矢先にカナダに本格的な工場を建設し、そこから対米輸出すればどうなるか。結果は火を見るより明らかである。カナダ進出を強行すれば、GM提携で築いたトヨタに対する米国における高い評価は一夜にして崩れてしまう。  トヨタ社内では次第に「米国に工場を建設すべき」との意見が高まってきた。そこで出てきたのがGMとの提携の結果できたNUMMIの活用である。     [3]  旧GMフレモント工場の敷地は八十九万平方メートルであるが、NUMMIが実際に使用しているのは三分の一の二十九万平方メートルに過ぎない。トヨタがNUMMIの遊休土地を借り受け、合弁工場に隣接して単独工場を建設すれば、給排水設備をはじめ関連設備を有効利用できる。生産面でも合弁工場が養成した下請け工場も活用できるうえ、従業員もNUMMIで訓練できる。  月産一万台程度の組み立てラインを建設すれば、ホンダに奪われた「日本車メーカー乗用車販売トップの座」を奪回するのは不可能ではない。投資額も一億ドル程度で済む。一見するとリスクなき参入にみえるが、将来禍根を残す恐れがあることから、最終的にこの案は断念した。  第一の問題はGMとの関係である。合弁事業は米連邦取引委員会《FTC》から最長十二年との条件で認可されている。この期間を過ぎれば合弁会社は自動的に解消され、工場はGM、トヨタのいずれかが買い取ることになっている。将来未定の工場と同じ敷地内に単独工場を建設するとなればどうなるか。トヨタが買い取るならいざ知らず、GMが買い戻すことになれば、運営はややこしくなる。  トヨタが買い取っても問題が残る。日本車の現地生産台数は計画を含めると、すでに年間百万台を超えている。これにトヨタの単独進出が加われば百三十万台に跳ね上がる。ビッグスリーの一角を占めるクライスラーの乗用車の生産は百二十万台だから、日本車メーカーの現地生産は米国に第四の巨大メーカーが誕生するのと同じ意味を持つ。  ところが第四のメーカーの生産は組み立てだけで、エンジン、トランスミッションなどの重要部品は日本から輸入する。現地生産といっても実態は発展途上国と同じKD《ノックダウン》生産であり、この方式が定着すれば部品メーカーなどの米国の自動車産業は窮地に追い込まれ、新たな日米自動車摩擦が発生する。そうなれば、米議会はローカルコンテント(部品の米国内調達)法案の実現化に動き出すのは目に見えている。  将来の部品現地調達を考えると、デトロイトに遠い西海岸の工場は極めて不利である。日本車メーカーの現地生産に伴って、日本の部品メーカーの対米進出も相次いでいるが、ビッグスリーへの売り込みも狙っているため、進出先はデトロイト周辺のスノーベル(北東部)や中西部に集中している。  西海岸の工場が威力を発揮するのは、日本から自由に部品を持ち込めることを前提とした場合である。トヨタが西海岸に工場を集中しようとすれば、ある程度コスト面で競争力の低下を覚悟しなければならない。  実のところトヨタが本格的な現地生産をためらっていたのは、「日本車メーカーの現地生産はすでに年間百万台を超えている。これでは過当競争に拍車をかけるだけ。将来、輸出規制が解除されれば、逆に現地生産がお荷物になる」との見通しを捨て切れなかったためだ。  といって現地生産に二の足を踏んでおれば、ディーラーの不満を抑えることはできないし、米国市場では乗用車の販売に関して早晩、ホンダ、日産に次ぐ第三位メーカーに転落してしまう。当初トヨタが考えた単独進出の狙いは、トップの座の奪回である。だがカナダ進出にせよフレモント工場の活用にしても、腰だめ的な小手先の進出に過ぎない。これでは目先、首位を奪回しても世間から「世界のトヨタ」と認めてもらえない。  国内需要が飽和状態に達し、欧米主要国が管理貿易下に置かれている状況の中で、米国での単独生産は欠かせない。  米国市場がいくら飽和状態であろうとも、日本車に対する需要は根強い。こうした需要構造の下であれば、たとえ不況下でも競争力のあるメーカーは生き残れる。むしろ激しい競争に打ち勝たない限り、グローバル10《テン》の道は開けない。  トヨタもようやくそれに気付き、単独生産による本格的な工場を建設する腹を固めた。むろん進出先はビッグスリーの工場が集中している中西部。立上がりは年産二十五万台規模の工場でも、将来の拡張を念頭に置いて、広い工場敷地を手当てすることにした。  問題があるとすれば、新たに用地を取得して、そこに年産二十五万台の工場を建設するとなれば、完成まで最低でも三年、フル操業までは四年はかかることだ。この間、乗用車販売のトップの座を引き続きホンダに明け渡すことを覚悟しなければならない。トヨタの面子もさることながらこの時期、ディーラーの供給不足に対する不満はピークに達していた。これを無視すれば、契約違反で訴訟に持ち込まれかねない。  トヨタの社長は八二年七月に工販合併を機に豊田英二から豊田章一郎に代わった。しかしこと対米戦略に関しては、依然として英二が采配を振るっていた。八五年四月に英二は訪米してGM会長のロジャー・スミスに会い、NUMMIのフレモント工場の増産を提案すると同時に、増産分の五万台は全量トヨタの販売網に流してもらうよう要請した。八七年モデルから年間五万台増産できれば、トップ奪回は困難でも当面、ディーラーの不満は解消できる。  本格生産に際してトヨタは小型乗用車の『カムリ』を念頭に置いていた。この車はもともと米国現地生産を前提に開発したもので、八〇年夏にフォードに共同生産を持ちかけたときに提示した車である。デザインがアメリカナイズされているうえ、車の機構が簡素化され、現地生産しやすいように設計されている。  最大の特徴は千八百ccから二千八百ccまでのエンジンを搭載できることだ。エンジンがバラエティに富んでいるので、需要に応じて小売価格一万ドルから二万ドルまでの車を供給できる。しかもシンプルなデザインだから乗用車だけでなく、米国で根強い需要があるステーションワゴンにも応用できる。  生産規模はワンモデルであれば、一時間七十台のペースで組み立てることも可能だが、カムリはバリエーションが豊富なことから事実上の混流ラインとなる。となれば一時間六十台が現実的である。米国の実労働日は年間平均二百三十五日だから一日二交替で工場を稼働させれば、年産二十二万五千六百台となる。むろん工場が軌道に乗れば二十五万台まで引き上げられる。  投下資金はKD方式であれば、土地代を含めても五億ドル強で済む。トヨタの余裕資金はすでに七千億円(現在は二兆円超)に達しており、対米進出は同業他社にとっては伸《の》るか反《そ》るかの大事業であっても、トヨタにすれば、こと資金に関する限り余裕をもって対応できる。  それではケンタッキー州に単独進出した後、合弁のフレモント工場をどう位置付けるか。八六年以降、年産二十五万台のフル操業に入り二十万台をGM、五万台をトヨタが引き取ってきたが、新工場完成後はGMに全量引き取ってもらうこともできる。ローカルコンテント法案が成立しても、ケンタッキーの新工場でエンジンを生産すれば、そこから供給してもらって対応することも可能である。  合弁事業が予定通り十二年で終了し、トヨタが工場を引き取ることになっても、西海岸のメリットを生かし、多品種・少量生産の工場に転換することもできる。またロングビーチの荷台工場との連携で小型トラック工場に衣替えすることも可能である。再活用の手段はいくらでもあるが、幸いにしてその後九二年に合弁事業を契約の十二年を過ぎた後も継続することで合意した。  トヨタは八四年一月にトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・ケンタッキー(TMMK)を設立、ただちに工場の建設に取り掛かり、八八年五月に『カムリ』の第一号車をライン・オフさせた。  トヨタは生産台数に関してはGM、フォードに次ぐ世界第三位のメーカーだが、企業体質は「世界のトヨタ」にはほど遠く、依然として「日本のトヨタ」である。名実共に「世界のトヨタ」となり、ビッグスリーと正面から対抗するには、まず米国での生産を軌道に乗せ、それを成功させなければならない。     [4]  GMとの合弁によるフレモント工場は米国現地生産の実験場となり、一九八八年に完成した単独進出のケンタッキー工場は、トヨタのショールームの役割を果たした。工場のあるジョージタウンには、電気自動車に乗って工場を見学するガイド付きツアーがある。来訪者センターでツアーの出発を待つ間、工場で生産された新車を吟味したり、対話型ディスプレーを見たり、会社や工場の操業などについて詳しい説明を聞くこともできる。まさに無料のテーマパークである。トウモロコシ畑に近代的な工場が建設され、その周りに部品メーカーが進出した。人も増え、日本食レストランもできた。新たな観光名所が出現したのである。  トヨタが進出する前のジョージタウンはケンタッキー州の中でも開発の遅れた農業地帯で、年間の観光収入は一千八百六十万ドルに過ぎなかったが、工場稼働後は一気に五千万ドルに跳ね上がった。ケンタッキー州はトヨタを誘致するにあたって、州始まって以来の一億四千七百万ドルという優遇策を講じたが、観光収入だけで十分もとをとった。  ケンタッキー工場の最大の課題は、「カンバン」に代表されるトヨタ生産方式を定着させることだった。フレモント工場は旧GM工場の従業員を優先的に採用したが、ケンタッキー工場ではずぶの素人にカンバン方式によるクルマ作りを教え込むのである。  カンバン方式のルーツは、トヨタの創業者、豊田喜一郎が言い出した「ジャスト・イン・タイム」にある。自動車はどんな部品であれロット生産が基本だが、喜一郎はすべて流れ作業にすることを考えていた。流れ作業にすれば品物のたまりがなくなり、倉庫もいらなくなる。毎日、必要なものを必要な数だけ作れば、ランニングコストが減って、余分な資金が出なくなる。これを実現するには全工程はいやでも流れ作業にならざるを得ない。  喜一郎は従業員を徹底的に洗脳して、この流れ作業の方式を定着させようとしたが、太平洋戦争の勃発で中途半端になってしまった。それを戦後、大野耐一が部品毎に「カンバン」をつけることで生き返らせ、発展させたことからジャスト・イン・タイムの代名詞となったのである。  ケンタッキー工場で生産するのは小型乗用車のカムリである。カムリはケンタッキー工場のマザー工場ともいうべき堤《つつみ》工場で生産された製品が米国市場に出回っており、しかも高い評価を得ている。同じカムリでも日米の車が米国市場で競争しなければならない。カムリの敵はカムリなのである。  GM、フォード、クライスラーの米ビッグスリーはフレモント、ケンタッキー両工場の品質に異常なまでの関心を持っていた。GMがトヨタとの合弁事業に踏み切った最大の理由は、トヨタ生産方式の取得にあった。そして合弁事業のスタートを機に、延べ五千人以上の技術者をフレモント工場に派遣して、小型車の製造ノウハウの取得に励んだ。それ以降、GMの主力工場にはローマ字で書かれた「カンバン」(看板)、「カイゼン」(改善)、「ポカヨケ」(失策排除)などトヨタで使われている標識やスローガンが氾濫し始めた。  GMはこの経験をもとにテネシー州に小型車の『サターン』を作る工場を別会社で設立した。結果は積極的にコンピューターを導入したハイテク工場にしたこともあり、生産効率はトヨタ並みになったが、品質に関してはトヨタ車の足元にも及ばなかった。ほぼ同じ時期、クライスラーが日本車キラーとして鳴り物入りで開発した『ネオン』も日本に上陸したがサターン同様、売れ行きはさっぱりだった。  GMもクライスラーもトヨタ生産方式の形だけ取り入れたに過ぎなかった。近年、情報技術《IT》が脚光を浴びているが、はっきりしているのはITだけでは自動車は作れないことだ。自動車を体にたとえると、生産現場が筋肉や骨であり、ITはあくまで神経に過ぎない。神経がいくら敏感になっても筋肉や骨がしっかりしていない限り、良い車はできない。  それでもトヨタ生産方式の導入を進める工場は後を絶たない。中でもトヨタとの合弁交渉でGMの責任者だったジャック・スミスは、欧州でトヨタ生産方式を定着させようと試みた。彼の不満はトヨタ生産方式が米国内のGMの工場に根付かなかったことにあった。  スミスはNUMMIが立ち上がったのを見届けてカナダGMの社長に転出、八六年には欧州GMの副社長に就き、翌八七年に社長に昇格した。彼の夢は欧州にトヨタ生産方式が根付いた新工場を建設することだ。ところが八八年にデトロイトの本社から帰還命令が出たことから、後任のルー・ヒューズに夢を託することになった。  そしてヒューズはベルリンの壁が崩れ、東西ドイツが併合した八九年に、旧東ドイツのアイゼナッハにオペルの新工場を建設することを決断した。新工場は九二年に完成したが、ヒューズには一つの不安があった。前任者のスミスはオペルの各工場にNUMMIでトヨタ生産方式を学んだ技術者を配置したが、思ったほど生産性が上がらなかった。その原因はやはりトヨタ生産方式を形式的に取り入れているに過ぎないからだとにらんだ。  そこでトヨタ生産方式をドイツに定着させるため、トヨタに技術者を派遣してもらうことも考えたが、トヨタに頭を下げることは彼のプライドが許さなかった。といってヒューズは技術者でないので、生産現場で陣頭指揮を取ることもできない。  こうなるとやはり日本人技術をスカウトするしかない。狙いを定めたのが社長の川本信彦と反《そ》りが合わずホンダを飛び出した入交昭一郎だった。二人は九三年の正月明けに東京で極秘に会い、この席でヒューズは入交に欧州GM入りを要請した。  話はトントン拍子に進み、春先には入交のGM入りが決まったが、土壇場で入交は健康などの問題からビッグビジネスで働くことに自信を失い、GMを蹴ってゲーム機メーカーのセガ・エンタープライゼスを選択してしまった。  GMに限らずトヨタ生産方式は世界の自動車業界で徹底的に研究されたが、トヨタと同じレベルで実践できた企業はいまのところない。海外メーカーがトヨタ生産方式をマスターできなかったのは、米の経営学者が好んで使う「暗黙知理論」を理解できなかったことにある。暗黙知というのは「言葉にならない智恵の融合、文書化されていない企業組織内の慣行」である。  トヨタでは従業員が全員、生産工程の設計段階から改善余地を考えながら作業している。そして改善余地があれば、誰でも改善提案をする。したがってどこかで問題が起きれば、だれの責任なのかすぐ分かるシステムが確立されている。これが暗黙知である。トヨタの競争力の本質は、目に見えないノウハウと現場で働く従業員の意識の高さにあるが、これだけはいくら口で説明しても分からない。  トヨタ生産方式の究極の狙いは、無駄の追放にある。製造業の場合、昔も今も倉庫は在庫品で満たしておくのは常識だが、無駄を省いて利益を上げるトヨタ生産方式では最も忌み嫌われる。その根幹をなすジャスト・イン・タイムの代表例がプレスパネルである。  部品を打ち抜く大型プレスの金型をクレーンを使って取り外し、交換した金型を狂いがないようにプレスに組み込んで、完璧な部品を打ち出せるようにセットするのに、モータリゼーション初期の一九六〇年代半ばには、トヨタですら平均二、三時間かかっていた。  金型交換の作業は、単調でしかも時間のかかる作業である。したがって自動車工場は同じ金型を長時間使って、できるだけ多くの部品を打ち出した方が効率的と言うのが自動車業界の常識だった。旧GM時代のフレモント工場は「プレス部品は固めて打てばコストも安い」という思想から、デトロイトの金型工場で量産して、大型トレーラーを使って延々とロッキー山脈を越えて陸送していた。  大量生産しようとすれば、大量の在庫を抱え込まなければならない。当時、トヨタ社内では金型部品の生産ロットは半月分というのが常識になっていた。ところがカンバン方式の生みの親ともいうべき大野耐一はある日、ロットの大きさを半分に縮小することを命じた。半分にするということは、金型交換を頻繁《ひんぱん》に行うことを意味する。それを実現するには金型を交換する時間を大幅に短縮することが大前提になる。  時間を短縮するには、工作物に取り付け切削工具を導く治具の操作に熟達していなければならない。狂いのないように部品を打ち出すには、難しい技術を要する。暗黙知に精通しているトヨタの技術者は、大野の命題を短時間で実現した。  一つの金型をたった十分で交換できるようになったことから、組み立てラインで必要なだけの部品を供給するシステムができ上がった。在庫を最小限に抑えて経費を節約するシステムが確立したわけだ。大規模な生産体制に浸っていたビッグスリーは、トヨタが金型の交換時間を大幅に短縮したとのニュースを当初信じようとしなかった。  当然のことながらトヨタがフレモント工場で最初に着手したのは、プレス部品を打ち抜くスタンピング工場の建設だった。トヨタは短時間で金型を交換する技術を開発したことから、「金型部品といえども生産台数に応じて打てば安くなる」という生産方式に自信を持っていた。GMは依然として金型の交換には三時間要していたが、フレモント工場に新設したスタンピング工場では、わずか十分で済ませることができた。  ケンタッキー工場ではトヨタの堤工場から派遣された社員が、現地採用の従業員に懇切丁寧に暗黙知理論を教えるかたわら、部品メーカーにもカンバン方式を徹底させるため九二年に「サプライヤー・サポート・センター」を設立して、カンバン方式を部品メーカーの間にも根付かせる努力を続けた。  トヨタ生産方式の本質は従業員第一主義にある。九八年にトヨタの長期債がムーディーズによって最高のAaaから、上から二番目のAa1に格下げされたが、その理由が終身雇用の維持だったことから社長の奥田は猛反発した。経営幹部は自社の財産が、終身雇用を前提とした暗黙知をマスターした従業員であることを知り尽くしているからだ。豊田英二が八〇年代初頭の日米自動車摩擦の嵐が吹き荒れた際、米国進出に二の足を踏んだのは、トヨタの強さの秘密が「意識の高い従業員」にあることを知り尽くしており、「果たして自分たちは米国の労働者にトヨタ生産方式を教えることができるのだろうか」という疑念があったからだ。  カンバンを使った効率的な生産方式は同業他社も採用しているが、トヨタは、八九年に情報技術《IT》と組み合わせた電子カンバン方式を日本の特許庁に出願した。当初、出願するだけで特許を取得する意思がなく審査請求を見送っていたが、企業防衛の観点から取得に動き、九九年秋にビジネス特許として認められた。とはいってもすでにカンバン方式を採用している企業に特許料を求める意思はない。ノウハウに過ぎない暗黙知に絶対ともいえる自信を持っているからだ。  ケンタッキー工場にトヨタ生産方式が定着するとともに、国際企業としての自覚も芽生えてきた。トヨタにとって残る敵はいつしか通商摩擦となった。     [5]  一九八二年から三年の約束でスタートした対米乗用車輸出自主規制は、九四年三月末まで十二年の長期にわたった。各社の現地生産が軌道に乗ったこともあり、八〇年代後半からは割り当て台数をこなせない年も珍しくなくなった。といって日米自動車摩擦が解消したわけではない。  日本から完成車の輸出台数は減ったが、日米の貿易不均衡は年々拡大し、米国の貿易赤字は九四年に一千六百億ドルに達した。このうち四割に当たる六百五十六億ドルが対日赤字だった。しかも半分以上の三百六十一億ドルを自動車関連が占めていた。米国の対日赤字は輸出規制が始まった八二年は、まだ百億ドル強に過ぎず、九〇%を自動車関連が占めていた。ところが十二年の間に対日赤字は六倍以上、自動車関連も三倍以上膨らんでしまった。  九〇年代に入り、米国経済は上昇過程に入ったものの、「自動車に手をつけない限り、米国の対日赤字は解消しない」というのが米国側の基本認識となった。そこで九三年七月の東京サミット直後にクリントン大統領と宮沢首相の間で日米の貿易不均衡の改善を目的に日米包括経済協議をスタートさせることで合意した。  トヨタはGMとの合弁に続いてケンタッキー州に単独工場を建設したとはいえ、次の一手を打たなければ、またしても非難はトップメーカーに集中する。貿易不均衡解消の決め手は、現地の部品調達を増やすことだが、それにはある程度時間がかかる。そこで米国の批判を少しでも和らげるため、GMから年間二万台規模で小型車の『Jカー』を日本に輸入して、トヨタの販売網に乗せて販売することを決めた。  トヨタの努力にもかかわらず、日米摩擦はその後も悪路をたどり始めた。原因は日米包括協議がスタートした直後に自民党の単独政権が崩壊、代わって非自民連立による細川政権がスタートしたことにある。九四年二月にワシントンで開かれた日米首脳会談の席で、細川首相が「成熟した大人の関係」を持ち出し、米国の主張する数値目標をことごとく拒否したことから、米国の怒りを買った。  細川政権はその年の春に崩壊したが、十一月に行われた中間選挙でクリントンの率いる民主党が上下院で記録的な敗北を喫した。ビッグスリーの工場及び約一万社といわれる自動車部品会社はミシガン、オハイオ、イリノイなど中西部各州に集中している。ここは本来民主党の地盤だが、中間選挙ではごっそり共和党に流れてしまった。この票を取り戻さない限り、クリントンの再選はありえない。そこで民主党は中西部の票田獲得に向けて一つの作戦を立てた、ホワイトハウスによる官製摩擦である。  通産省はこうした米国側の意図をいち早く見抜き、強硬路線を取った。 「これまでの日米経済摩擦は、日本側が一方的な譲歩で解決を図ってきた。米国のやり方は管理貿易を強いるものだ。この際、日本は脅かされれば必ず折れる、という政治決着の風潮を改めたい。交渉は米国が数値目標を取り下げるのがスタートライン」  この強硬論に時の通産大臣、橋本龍太郎が政治的な判断から乗った。ホワイトハウスは橋本が強硬路線に乗ったのは、次期首相に向けてのデモンストレーションと受け止めた。日米双方にまとめる意思がなく、交渉は自由貿易を巡る「神学論争」の場と化し、交渉は決裂してしまった。  そして五月十六日、ホワイトハウスは通商法三〇一条を発動して、日本製高級乗用車に一〇〇%の関税をかけるという制裁リストを公表した。この車種は日本メーカーが現地生産していないので、米国の産業に被害は出ない。逆に制裁が発動されると日本の被害額は五十九億ドルに達する。  高級車を対米輸出しているのはトヨタ、ホンダ、日産の三社だが、ホンダと日産は高級車を扱っている第二販売網は販売不振から大量の在庫を抱えている。万が一、制裁が発動されてもそれを口実に撤退する選択肢も残されている。  対照的に「性能では『ベンツ』を上回る」との高い評価を得ていたトヨタの『レクサス』は飛ぶように売れている。収益源の車だけに撤退は許されない。制裁の発動日は六月二十八日だが、関税は五月二十日にさかのぼって徴収される。  日本政府は業界の苦悩をよそに、米国を揺さぶるため発足したばかりの世界貿易機関《WTO》に提訴、負けじと米国も逆提訴の方針を打ち出した。日本は国際世論の喚起に向け意気込んでWTOに乗り込んだものの、六月十二日から始まった二国間協議では米国に相手にされず、協議は一日で打ち切られ無力感だけ味わって帰国した。  この時期、ホワイトハウスの怒りは頂点に達していた。国務省の親日派の役人でさえ、日本の交渉態度を非難し始めていた。 「MITI(通産省)の態度はおかしい。合意に向けて土俵作りもせず、自分の方から交渉のテーブルを蹴るとは何事か」  東京とワシントンの双方に不信感が高まった。六月十五日からはカナダのハリファクスで先進国首脳会議《サミット》が開かれる。それに先立ち日米首脳会談も予定されている。日米とも「自動車はテーマにしない」と言明しているが、正式な議題にならなくても、話題になるのは避けられない。下手をすればサミットで日米自動車問題が主要議題になりかねない。  制裁の期限は着々と迫っている。この窮地を救ったのが、駐日大使のモンデールである。大使はサミット直後の六月二十二日と二十三日にWTOの本部のあるジュネーブで次官級協議を提案、これを日米双方が受け入れた。  しかしこの間、日本側がなんらかの手を打たなければ局面は打開しない。米国側の交渉責任者である米通商代表部の法律顧問、アイラ・シャピロは、数値目標に代わって部品のローカルコンテント(現地調達率)の導入を考えていた。日本の自動車メーカーがNAFTA(北米自由貿易協定)の基準に沿って部品の現地調達率の数字さえ公表してくれれば、米国も購入部品の上積み要求を下ろしやすくなる。NAFTAは部品の現地調達率を九四年から九七年までが五〇%、九八年から二〇〇一年が五六%、それ以降は六二・五%を達成すれば米国内からカナダ及びメキシコへの関税がゼロというものだ。  トヨタニューヨーク事務所長の永冶健は、次官協議が始まる二日前の二十日朝、当時、副社長だった奥田の指示で、ワシントンのUSTR本部にシャピロを訪ね「新国際ビジネスプラン」と題したトヨタの計画を伝えた。プランの骨子は米国に三番目の工場を建設して、カナダを含めた北米の現地生産をそれまでの七十万台から百十万台に引き上げるというものである。計画自体はすでに新聞で報じられていたが、奥田の狙いはトヨタは計画の実行に際して「NAFTAの基準を順守する」と明言することで、USTRの態度を軟化させることにあった。  シャピロはこの時点で合意に向けて確かな手応えをつかみ、トヨタも制裁は回避できるとの感触を得た。にもかかわらず二十日、二十一日の次官級協議では建て前が先行して決着せず、最終的には二十七日と二十八日のUSTR代表ミッキー・カンターと橋本の閣僚会議に委ねられることになった。  トヨタは閣僚会議での決着を狙って二十七日午後、今度は経団連会長を兼ねる会長の豊田章一郎が、密かに駐日大使のモンデールを米国大使館公邸に訪ね、新国際ビジネスプランを打ち明けた。モンデールに計画を打ち明けることに対し、トヨタ社内では激論があった。 「あくまで通産省との信義を重んじ、通産省からのサインが出るまで公表を見送るべきだ」 「通産省の指示通り動いて、万が一交渉が決裂した場合、その責任がトヨタに押しつけられる。現地化は日米摩擦に関係なく避けて通れない。したがって計画は交渉の帰趨いかんにかかわらず、事前に公表すべき」  三河の田舎大名と揶揄されていた時代なら、間違いなく前者を選んでいたであろう。しかし今回は少数意見に過ぎなかった。 「摩擦を未然に防ぐには、役所の後ろに隠れず、自ら前面に出て早目に摩擦の芽を摘み採るしかない。それがトヨタの発展につながる」  トヨタに国際企業としての自覚が芽生えてきたのである。     [6]  ヘンリー・フォードの手によってフォード・モーターが設立されたのが、今世紀初頭の一九〇三年である。フォードはベルコンベアを使った流れ作業による生産方式を編み出して、二十世紀最大の産業となる自動車産業の礎《いしずえ》を築いた。  そしてウィリアム・デュラントが|ゼネラル・モーターズ《GM》を創立したのは、フォードが流れ作業による『T型フォード』を発売した一九〇八年である。GMはその後、中興の祖ともいうべきアルフレッド・P・スローン・ジュニアが複数販売チャネルやモデル・チェンジの導入など革新的な経営手法を開発してフォードを激しく追撃、一九二九年に世界恐慌が起きる直前にトップの座を奪取した。  トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎は、ヘンリー・フォードに憧れ、「日本でもフォードのような車を作りたい」という夢を抱き、本業の豊田自動織機には興味を示さず、東京で自動車の研究を続けていた。そして三一年には四馬力の小型ガソリンエンジンを完成させた。その技術を基に三三年十二月に豊田自動織機の定款を変更して自動車事業を加えた。  日本の自動車産業は大正末期から昭和にかけフォードは横浜、GMは大阪に組み立て工場を作りKD《ノックダウン》生産を始めた。商工省は外資に対抗するため、陸軍と手を組んで「自動車製造事業法」を成立させた。陸軍の狙いは軍用トラックを国産化することにあった。一九三六年五月のことで、これに二人の男が手を上げた。喜一郎と日産自動車の鮎川義介である。  豊田自動織機は盧溝橋事件が勃発した翌三七(昭和十二年)に自動車部を分離・独立させ、トヨタ自動車工業を発足させた。喜一郎はいち早く自動車を軍需産業としてとらえていた陸軍の意図を見抜いて、国の支援を断り、愛知県三河地方の荒涼たる大地に挙母《ころも》工場(現本社工場)の建設を決めた。  喜一郎は「フォードは何といっても自動車産業の先駆者。学ぶべき点は多い」という考えを持っており、本編で書いた通り、戦前戦後を通じて節目節目で四回ほどフォードとの間で提携交渉をしたが、不幸にしていずれも実らなかった。  しかし従業員を巻き込んだ「創意くふう提案制度」などトヨタ独自の合理化策は、喜一郎の従兄弟で、創業時の片腕ともいうべき豊田英二が、二回目の交渉の白紙還元直後にフォードに留学して、そこで習得した「サゼッションシステム」が原点になっている。トヨタの一連の暗黙知理論は、ここからスタートしている。  トヨタの発展の秘密は二つある。第一が生産面で、喜一郎がフォードの流れ作業方式を土台に、ジャスト・イン・タイム方式を考案し、戦後、大野耐一がカンバンを使って生産工程を市場の要求に対応させたこと。  もう一つは販売面である。トヨタが今日の強固な販売網を築き上げたのは、戦前、日本GMに在籍し後に�販売の神様�の異名をとる神谷正太郎が、GMと同じ複数の販売チャネル方式を取り入れ、お互いに競わせたことである。国内販売の最前線では、今も昔も「トヨタの敵はトヨタ」であることに変わりはない。  トヨタは「日本的経営の権化」という評価とはうらはらに、考え方は柔軟で、外資の良い点は積極的に取り入れてきた。こうした柔軟性があるからこそ、立ち遅れた国際化にも、土壇場でGMと提携することでそれまでの劣勢を挽回することができた。  かつては師と仰いだGM、フォードを株式時価総額で超えることができたのは、皮肉にもトヨタが最も不得意とされた国際化が評価されたからにほかならない。本編で詳述したトヨタとGMの提携は、国際企業に向けての入場券を手に入れたという意味で、GMより明らかにトヨタ側にメリットがあった。  ホンダに奪われた米国市場における乗用車販売一位の座は、ケンタッキー工場がフル稼働に入った九三年、実に九年ぶりに奪取した。その後、年々ホンダとの差を広げ九九年は十四万八千台まで広げた。トラックを含めたトータルの販売台数は、これまで一度もホンダに抜かれたことはない。九九年の米国市場での総販売台数は、ホンダの百二万台に対して百六十万台とその差をさらに広げつつある。  差が広がったのは九五年に公表した「新国際ビジネスプラン」に沿って、インディアナ州に年産十五万台の中型トラック工場、ウエストバージニア州に年産五十万基のエンジン工場を完成させたことによる。  北米市場における躍進は、現地生産の増強にとどまらない。九九年には株式をロンドンと同時にニューヨーク市場に上場、二〇〇一年には米国自動車工業会の会長会社に内定するほど、経営面でも着々と現地化を進めている。  欧州では九二年に英国に、年産二十万台の乗用車工場とエンジン工場を稼働させた。英国進出では日産、ホンダの後塵を拝したが、九七年には日本メーカーとして初めてフランス進出を決断した。  九八年のベンツとクライスラーの合併で火ぶたが切られた国際再編劇では、当初、大半の日本の自動車メーカーは「海の向こうの出来事」と対岸の火事を決め込んだが、トヨタだけは深刻に受け止めた。社長の奥田は「今回の合併は日本メーカーを巻き込んだ新たな再編成の起爆剤になる」と判断して、素早い対応をした。  まずその年の八月、一気にダイハツを子会社とし、続いて二〇〇〇年三月には日野自動車の出資比率も拒否権が発動できる三分の一超まで引き上げた。さらに将来の持ち株会社の設立をにらんでトヨタ直系の部品会社、デンソー、アイシン精機、豊田自動織機の三社に奥田体制を支えた大物副社長を派遣した。  日産はルノー傘下入りと同時に、部品メーカーの系列解体に走ったが、逆にトヨタはグループ強化策を打ち出した。奥田の打った手は「自分の城は自分で守れ」というトヨタの伝統を踏襲したものである。  世紀末になっても、自動車業界の液状化現象は衰える兆しはない。それに拍車をかけそうなのが、自動車産業を取り巻く環境の厳しさである。自動車メーカーは資源、環境、安全といった命題を解決しない限り、将来の発展はない。とはいえ次世代技術のディファクト・スタンダード(事実上の世界標準)を作るには、莫大なコストがかかる。  このコストを負担できない会社は、できる会社から必要な技術を買うか、思い切ってその会社の傘下に入る以外に選択の道はない。目先の業績が好調な富士重工業が、GM傘下に入らざるを得なかったのは、長期的に見た場合、技術面で大手メーカーに太刀打ちできないことを自覚していたからだ。創業以来、孤高を保ってきたホンダがGMとの間で技術提携に走ったのも同じ理由による。  二十一世紀の最大の変化は、ガソリンや軽油の化石燃料に代わって燃料電池が主流を占めることだろう。この技術に関してはカナダのベンチャー企業、バラード・パワー・システムに資本参加しているダイムラーが頭一つ抜け出しているが、九九年四月に環境技術分野でGMと手を組んだトヨタが猛追している。トヨタの強みは燃料電池が実用化されるまでのつなぎとして、すでに電気とガソリンを併用したハイブリッド方式を実用化し、小型乗用車の『プリウス』を発売していることである。  トヨタは燃料電池に限らず、高度道路交通システム(ITS)など技術面でのディファクト・スタンダードを確立するため、研究開発も怠りなく進めているが、自前ですべての技術に対応するには限界がある。  九〇年代の国際再編劇で、再編する側に回った巨大企業といえども、安閑としていられない。強者が弱者を傘下に収める弱肉強食的な再編成は確かに一段落したが、二十一世紀には強者と強者の戦いが待ち受けている。国内でライバル不在となったトヨタも、海外に目を転じれば決して磐石とはいえない。  トヨタは創業以来、資本の面で海外企業と提携しないことを社是としてきたが、この姿勢は今後とも貫くだろう。しかしライバルの有力メーカーは、再編劇で次々と中堅メーカーを傘下に収めて巨大企業への道を歩んでいる。トヨタがさらなる発展を遂げるには、できるだけ巨大企業との戦いを避けることである。  それには巨大メーカーとのアライアンス(戦略的提携)が欠かせない。新たな「巨人たちの握手」である。それにはトヨタ自身がアライアンスを仕掛けなければならない。  二十一世紀には果たしてどんな「巨人たちの握手」が誕生するか。 [#地付き]〈文中敬称略〉   二〇〇〇年秋  単行本   原題『巨人たちの握手 衝撃のカー・ウォーズ』一九九三年五月 日本経済新聞社刊     但し「トヨタ、国際企業への道」は文庫版書きおろし 〈底 本〉文春文庫 平成十二年十一月十日刊